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 姫花は敵を睨みつけた。
 古くからこの地を苦しめし邪悪なる者――荒神。
 毒々しい緑色の霧が、人型に凝っている。
 手には剣。袍と冠を身に着けたその姿は、古代の豪族を思わせた。
 
 荒神の呼気が大気に振りまかれるたび、飛ぶ鳥が力なく大地に落ちていく。
 その体は、命を蝕む毒そのものだ。
 
「私はお前を許さないわ。長く民草に苦汁を飲ませ、毒をまき散らすお前を!」
 
 鋭い岩の連なる山間に、姫花の凛とした声が響く。
 答えるは嘲笑。
 
「クハハハ……! 民の嘆きが、人の苦痛が、我が力となる。古くはこの地を治めし我を崇めぬ民など、贄となるより他はなし!」
「お前がこの地を治めていたのは、はるか昔のこと。今はもう忘れられた、古の王よ。古墳に眠りにつきなさい!」
「断る! いずれはこの地のみならず、日の本の国を我が手中に収めよう。邪魔立てすると許さぬぞ、小娘!」

「……仕方ないわね。荒神よ、私はお前を倒す。この地の人々を守るために!」
 
 手のひらに、稲妻を集める。姫花の体に、小さな雷がまとわりついた。
 足元の小石が砕ける。
 
「小娘が一人、我に抗おうというのか。愚かなり……」

 荒神の哄笑が、風に乗って響く。それと共に、咳き込むほどの悪臭があたりに立ち込めた。
 その手に握られた刃が、凶悪な光を放つ。嘲るような顔をしたまま、荒神は姫花に剣を向けた。

 姫花は臆することなく、一歩踏み込んで右手を振るう。

「はっ!」

 気合一閃! 姫花の放った雷光が、荒神の胴体を貫く。
 
「ぐあぁっ……! ま、まさか……」

 半ば実態を失い、荒神は苦悶の表情を浮かべた。
 荒い息とともに片膝をつく。岩山が握られた刃を噛んだ。
 それを杖として、かろうじて姿勢を保つ。
 
 風に流されて、荒神の体を形作る霧が舞った。
 
 一歩、二歩。姫花は荒神に近づいていく。
 彼女は敵の目の前に立った。
 無表情のまま、荒神を見下ろし、その顔に左手を伸ばす。
 
「これで終わりよ。己の罪を悔いながら滅びるがいいわ」
「…………」

 荒神は無言のまま、憎々しげに姫花を睨みつけた。
 なす術すらなく、最後の抵抗であるように思われた。

 姫香の伸ばされた手に、妖力が集まっていく。
 閃光。その手から、力が放たれる。
 
 だが。
 
「馬鹿め! 数百年を閲し我に、小娘ごときが勝てると思うてか!」

 力なく跪いたはずだった荒神は、剣を岩から引き抜いた。
 ぶつかるようにして姫花の体に突き刺す。

「くっ……! はぁっ……」

 姫花の唇から、苦悶と嘆息がこぼれる。
 
 荒神の剣は、姫花の体を貫いていた。切っ先から真っ赤な血が滴る。

「所詮、命短き人間の浅はかさよ。我があのくらいで滅ぶと思うか。その程度の芝居も見破れぬとは……」

 邪悪な笑みを浮かべて、荒神は姫花を見た。剣を引き抜く。
 姫花の体から、新たに血が流れだした。
 
 傷口を手で押さえて、姫花はそれでも荒神を睨みつけた。
 
(この傷では……。でも、荒神を野に放ったままにはしておけない)

 姫花は自分の最期を覚悟した。命を引き換えにしてでも、荒神を倒さねばならない。
 そうしなければ、無辜の民が――彼女を『姫さま』と呼び慕う領民たちが、また苦しむことになる。
 それだけは嫌だった。自分を愛しみ育ててくれた生野の地と、そこに住む温かい人々が、姫花は大好きだったから。

 立つ力を失い、今度は姫花が膝をついた。
 鋭い小石が、皮膚に食い込む感触がする。

「ううっ……!」

 再び、荒神の哄笑が響く。
「ふははは! 地に伏す気分はどうだ、小娘。だが……」
 荒神は刃を振り上げた。
「その屈辱も終わりにしてくれよう」

 姫花はそれを見上げ、決意に満ちた笑顔を荒神に向けた。瞳には強い意志が宿っていた。
 
「虎は……」
「ん? 戯言か?」

「虎は、伏して機を伺う……!」

 その瞬間、姫花の全身が光り輝いた。
 あたりの大岩が吹き飛ばされ、銀の髪が別の生き物のように踊る。
 彼女の周りに、嵐のような風が巻き起こった。
 
 両手を前に差し出す。銀色の光を具現化したような虎が、姫花の前に現出した。
「行きなさい!」
 己の妖力の全てを込めた、銀の虎が荒神に襲い掛かる!
 
「な、なんだと! 力を残して……!」

 避けることもできず、荒神は虎の突進をその体で受け止めた。鋭い牙が荒神の首に突き立つ。
 荒神を咥えたまま、虎は後方の山――銀を生み出す生野の山へ、光の尾を引いて突進した。
 
「うぐああぁぁぁ!!!」
 
 荒神の絶叫は、轟音にかき消された。
 山腹に穿たれる、隧道。
 そして、続いて崩落。一瞬にして開通した隧道は、また一瞬にして岩に埋まった。

「生野の山よ……大地よ……銀よ。荒神を永遠に封じて……」

 力を失い、姫花は倒れて意識を失った。


 ガラガラガラ……!
 石組みの壁が、大きな音を立てて崩れた。
 うっすらと、姫花は目を開けた。
 動き出した空気が、姫花の頬を撫でる。

「うるさくて寝てられやしないわ……」
 
 あたりを見回す。
 壁の一部が崩れており、そこから外の光が差し込んでいる。姫花は思わず目を細めた。

 湿度の高い空気。
 ぽたん、ぽたんとどこかから水の落ちる音が響いている。

 姫花はゆっくりと上体を起こした。
 そこで、祭壇のようなものに寝かされていたことに気付く。

「夢……じゃないようね」

 今、自分が置かれている状況は、夢ではなさそうだ。
 だが、どうしてこうなっているのかはわからない。
 
 無論、先ほどまで荒神と戦っていたのも、夢ではない。
 あの後自分はどうなったのだろうか。記憶はない。

「どういうことなの……?」
 頭を軽く振ったところに、不意に声がかけられた。

「姫花……さま」

 部屋の片隅から、しゃがれた老人の声。
 驚いて、そちらを見る。

 光の当たらぬ死角から、初老の男が、杖をつきながら駆け寄ってくる。
 身なりはよく、質のいい和服を纏っていた。年は七十くらいに見える。頭髪はすべて白かった。
 
「まさか本当に生野姫花がいるとは……姫花さま、お目覚めでございますな」
 老人は姫花の祭壇に近づくと、膝をついた。
 
「あなたは……?」
 姫花の問いに、老人は答えた。

「わしは、兵御院桂介というものでございます。この地方に住む貴族です」
「貴族……? このようなところに貴族がいるはずがない。京の都は遠い。第一、その身なりは貴族とも思えないわ。狩衣も纏わず、立烏帽子も着けないなんてね」
「ああ、ご存じないのも無理はないですな。あなたは数百年、眠られていたのですよ。あなたが荒神を封じてより、時代は変わっています」

 子供に言い聞かせるように、兵御院と名乗った男は語った。
 姫花は否定するように首を振った。
 
「まさか」
「真にございます。ここを出て、外を見れば信じる気にもなるでしょうが。あなたの名は、かすかに伝承に残るのみ……」
「嘘……っ!」

 兵御院は崩れた壁を指し示した。
「ご覧になられた方がお分かりになるかと……」

 老人が言い終わる前に、姫花は勢いよく、石室から飛び出した。

※ ※ ※

 長いこと暗闇にいた姫花の目に、太陽の光が容赦なく突き刺さった。
 瞼を閉じる。そのまま姫花はいっぱいに息を吸い込んだ。草の匂いがする。
 
 徐々に目を開けた。
 空が、雲が近い。そこが地上はるか高みにいることがわかる。

 目が慣れてくると、山々の稜線が目に飛び込んできた。
 それは見慣れた和田山。いつも城塞から眺めていた。
 姫花が見ていた頃と、少しの変わりもない。

 だが。今、姫花の目の前にあるのは、遺構だけだった。
 日々を暮らしたはずの城は、どこにもない。
 
「竹田の城はどうなったというの……?」

 姫花の問いに、のっそりと石室から這い出してきた兵御院が答えた。

「これは言い伝えになりますが」
 兵御院が隣に立ち、あたりを杖で指し示しながら答える。
「姫花さまが荒神と戦い、ほぼ相討ちの形で荒神を封印したと聞き及んでおります。その後、姫花さまは、城に封印され長く眠りにつかれた、とのことでございます。古いことゆえ、定かな記録ではございませんが」
 その後、数々の戦があった。だが、姫花の眠る石室はそのまま時を越え、現代まで保たれていたのだ。

 草生す礎石に、組まれた石垣。ただそれだけ。
 人が住んでいたであろう昔日の面影すら、想像で補わねばならぬほどに変わり果てた姿だった。

 足元が崩れるような感触。姫花は膝をついた。
「お気の毒なことでございますな」
 兵御院の沈痛そうな声がかけられた。

 父母の顔、城の人々、街並み、匂い……。
 姫花の脳裏を、それらが掠めた。
 そして、その人々の苦悶の表情と、街を覆う緑色の毒霧。
 
 はっ、と顔を上げて、姫花は兵御院に問うた。

「荒神は、荒神はどうなったの?」
「姫花さまが封印をなされてより数百年……。その封印が解け、今この世で猛威を振るっておりまする。欲深き人間が、禁忌とされていた銀山の坑道を掘り起し、眠る荒神を目覚めさせてしまったのです」

 姫花は立ち上がった。眼下にひろがる街を見下ろす。
 うっすらと漂う、見慣れた緑の霧。

「なんということなの……。私のやったことは一体……」

 命を懸けて、荒神と戦い、命こそ落とさなかったものの眠りについた。
 時間に置いて行かれ、親しい人をすべてなくし。
 
 そして目覚めてみれば、荒神もまた目覚めているという。
 
「皮肉なものね……」
 変わってほしかったものは変化せず、不変を願ったものは失われた。

(私のやったことは無駄だったのかしら……)

 長き時の間に、自分という存在は忘れられ、荒神の恐怖すら、薄れてしまったのだろう。
 人々を恨む気にはなれない。けれども、空虚な感覚が姫花の中に満ちていた。

「禁忌の伝承と、封印されし姫君はたとえ話と思っておりましたが……本当にいらっしゃるとは」
 満足そうな、それでいて少し意外そうな兵御院の声。

「あなたは、私を知っているのね」
 兵御院は頷いた。
「伝承を紐解きましたゆえ。もっとも、実在するとは思いませんでしたが……」
「……それで、私を目覚めさせた、と」
 
 老人は重々しく頷いた。
「左様です。今の世に、荒神に抗う力を持つ者はおりません。かくなる上は、姫花さまにおすがりするより他なく、藁をもつかむ思いにて……」
 老人は言葉と共に、慇懃に深く頭を下げた。

 姫花は拳を握りしめた。脳裏に荒神に支配されていたころの風景が蘇る。
 荒神の吐く毒に咳き込み、倒れる人々。
 子供はやせ衰え、田畑は耕しても実りは薄い。
 銀山も、荒神の毒に満ちていた。それでも人々は、命を削って山を掘った。日々の糧を得るために。
 緑色の霧が立ち込める生野の地。さらに昔には、死野とすら呼ばれていた。旅人の半数は荒神に捕えられ、命を奪われた。時の帝により生野と名を改められても、荒神はとどまるところを知らなかった。

 はぁっ、と姫花は短く息を吐いた。
 時に置いて行かれたことを嘆くより、変わらぬ不幸の源を滅ぼさなくてはならない。

 この時代の人間が自分を知らなくても、それでもいい。
 時が流れても、苦しむ人々は変わらないはずだ。
 
「相討ちはもうごめんだわ……。今度こそ、完全に黙らせてやろうかしらね」

 姫花は左手を伸ばした。眠りにつく前にしていたように、手のひらを掲げ妖力を集める。

「雷よ、我が力となり我が手に集え……」

 小さく低く、姫花が呟く。
 バチバチと放電をしながら、人の頭ほどもある雷球が手のひらの上に完成した。
 銀色の雷光を放つそれを、両の手で挟むようにした。そのまま力を込める。
 
 パァン!
 
 音高く雷球が弾けた。あたりにはきらきらと稲妻の残骸が散る。
 
「聞きしに勝るお力ですな、姫花さま」
 兵御院が姫花の隣に立つ。追従が含まれているが、姫花は気にした様子もない。
 
「昔より、はるかに私の力は強くなっている。長く封印され、眠りについたからかしら。まさに、虎に翼ね……」

 姫花は不敵に笑った。
 
「荒神よ、待っていなさい。今度は完膚なきまでに叩き潰してあげるわ」

 かすかな不安を決意で押し殺し、姫花は虚空を睨みつけた。


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