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虐待、暴力、育児放棄、ネグレクト......。
30歳を過ぎてからも、私の胸を強く締め付ける辛く悲しい言葉。
何の罪もない子供たちが心も体もボロボロに傷付けられ、ゴミのように扱われ、時には命さえも奪われていく。
そんな事件が後を絶ちません。
命があったとしても、そういう目に遭った子供たちは皆、心を失い、生きる希望を見出すことが出来ず、深い深い傷口からずっと血を流しながら痛みに堪えて生きていかなければなりません。
私もそんな被害者の1人です。
産まれてすぐに母親に捨てられ、父親と次々に変わる新しい母親からの暴力・虐待・嫌がらせに遭い、21歳で実家を飛び出し夜の歌舞伎町に身を置き、やっと『普通のOLさん』になれた私の今までの人生記録です。
母親の蒸発
母親の顔は見たことがありません。名前も知りません。
どうしていなくなってしまったのかも知りません。
父親に聞こうとしたこともありません。
ただ『私が産まれてきた』という事実だけがここにあります。
父親の暴力的で独裁者のような人物像から察するに、当時父親も若かったので、相手の母親もきっとまだ若い人で、望まぬ妊娠をしてしまい籍を入れて出産までしたものの、何か思うところがあり逃げ出してしまったのではないか......。
それにしたって、「母親が子供を捨てる」なんて行為は私には到底理解の出来ないことですが、その真相は本人にしか分からないことなので深く考えないようにしています。
2番目の母親の暴力
産みの母親がいなくなってからは、田舎のお爺ちゃん・お婆ちゃんの家に預けられて面倒を見てもらっていました。
父親は都会で暮らしていたようですが、私が5歳くらいの時に「新しいお母さん」を連れて迎えに来ました。ここからが地獄の始まりです。
山奥の田舎暮らしにすっかり慣れていた私は、いきなり見知らぬ女性を母親にされ、見たこともないような景色が広がる都会に連れ出され、適応障害のような状態になってしまいました。
新しいお母さんはパニックばかり起こして思い通りにならない私と、子供を押し付けて外で遊び回る身勝手な父親に酷くストレスを溜め、私に暴力を振るうようになりました。
それは段々とエスカレートし、切り傷や痣が絶えない日々でした。浴槽に沈められて殺されかけたことも何度かありました。
ほとんど家に帰ってこない父親は、そんな事には気付きもしていませんでした。
父親も暴力的で、とても短気で、気に入らないことがあるとすぐに威圧的な態度を取ります。
新しいお母さんへの暴力もあったし、私や、産まれてきた腹違いの妹までにも手を上げていました。
まだ小さな妹は抵抗することが出来ず、ガラスに頭を打ち付けられて顔面に大怪我を負ってしまったことがあります。
私は一晩家の外に締め出されたり、ランドセルや教科書を燃やされたことがありました。
結局、新しいお母さんは私が小学校5年生の時に父親と離婚し、妹を連れて出て行きました。
荒れた中学時代
中学時代、私は非行に走り、荒れに荒れました。
それでも人間としての道を踏み外さなかったのは、辛抱強く指導を続けてくれた先生方のおかげです。
学校へはほとんど行かず、成績自体が付かない状態でしたが、母親がいないためにお弁当がない私に先生はいつも半分わけてくれ、校庭の隅で授業をサボっていれば話相手になってくれ、悪さをすればとことん叱ってくれ、最後まで見放さずにいてくれました。
そして私は何とか高校受験に準備が間に合い、奇跡的に合格して進学することが出来ました。
先生方は「よくやったな」と、泣いて喜んでくれました。
父親からは「料理の味付けが薄い」とか「洗濯物にシワがある」とか、何かに付けて文句を言われては暴力を振るわれていましたが、私が荒れて問題を起こすにつれて次第に治まっていきました。
先生や警察に「家庭内の問題が娘さんの態度に反映されている(父親の責任が大きいことに心当たりはないのか)」と指摘されたことが効いたようでした。
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