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私の家は、両親と私、三歳年の離れた妹の四人家族でした。
父の仕事が休みの日には家族揃って外へ出掛けることが多く、ドライブが大好きだった父の運転する車で、四国や和歌山、広島、京都など、さまざまな観光スポットへ連れていってくれたことは、大人になった今でも私の記憶に楽しい思い出として鮮明に残っています。
私は、優しくて遊び心のある父のことが大好きでした。
次の休みはどこへ連れていってくれるのか、私と妹は、いつも楽しみにしていました。
ある年のお正月の連休には、父が私たち姉妹を広い公園に連れっていってくれて、凧揚げを教えてくれました。
ただ凧を上げるのではなく、父に教えてもらいながら凧を一から手作りして、完成した凧を空に向かって飛ばしました。
素晴らしい経験をさせてくれたことは感謝の気持ちでいっぱいです。大人になった今でも昨日のことのように思い出せることばかりです。
そんな大好きだった父との別れは、突然、訪れました。
私が小学生のとき、父は車の事故に巻き込まれて、そのまま帰らぬ人となりました。
夜、遅い時間になっても帰ってこない父の事を心配していた母の元に、一本の電話がかかってきました。
それは、警察からの電話でした。
父が交通事故に遭い、搬送先の病院で亡くなったという連絡が入ったんです。
当時、私は小学生でしたが、父と2度と会えないということはすぐに理解でき、自然と涙が溢れていました。
病院内には私の泣き声が響き渡っていました。
新しい生活
父の葬儀を無事に終え、母と私と妹の、三人だけの生活が始まりました。
それまで住んでいたのは、父の勤めていた会社の社宅だったため、出ていくことを余儀なくされました。そこで私たちは母の故郷に引っ越すことになったんです。
母のお父さん、つまり私にとってのおじいさんは、私が生まれる前に亡くなっており、母のお母さん、私たちにとってのおばあちゃんは、当時80歳近くで体調があまりよくありませんでした。
そのため、母は、子育てと仕事を両立しながら自分の母親の面倒も見るという、過酷な日々を送っていました。
母はとても大変だったと思いますが、弱音は決して吐かず、泣き顔も私たちには見せませんでした。
私と妹は、突然転校することになり、仲の良かった友人達とお別れをしました。私は、新しい学校で友達が出来るかどうか不安でいっぱいでした。
転校初日は、転校生が物珍しいのか、話しかけてきてくれる子もいましたが、最初のうちだけでした。
「お前、お父ちゃんいないん? 俺の母ちゃんが言ってた。お前のとこ、父ちゃんいなくて可哀想だって」
と、言われることもありました。
田舎は良い噂も悪い噂も一瞬にして広まるので、ひとりが知っているということは、みんなが知っていることを意味します。
最初から歓迎されていない雰囲気に、私は完全に心を閉ざしてしまいました。
妹も転校初日からいじめられたらしく、私が妹を守らなければいけないと、この時の私は強い使命感のようなものを感じました。
母は毎日とても忙しくしていました。
仕事と家事を両立しながら、合間におばあちゃんの面倒を見るという、ハードな生活。家にいる時はいつも疲れた顔をしていました。
そんな母を見ていた私は、学校でどんなに辛いことがあったとしても、母に心配をかけないように母には一切話しませんでした。
私のストレスの発散の仕方
私が小学校6年生のときの話です。
この頃、妹の食事や洗濯、掃除などは見様見真似で私も手伝えるようになっていました。
土曜日や学校が早く終わった日の昼食は、妹と自分の分を私が作っていました。
簡単なものから手の込んだものまでひと通り作れるようになっていました。
妹の誕生日になると、誕生日ケーキや唐揚げを作りました。妹が美味しいと料理を食べてくれているときが、唯一幸せを感じる瞬間でした。
ただ、料理をした後の後片付けはとても苦手で、母が仕事から帰ってくるまでに片付けが終えられていないことがしばしばありました。
そんなときは、母に凄く怒られました。
片付けられないなら料理をしてはいけないと言われたので、それだけは嫌だと思い、母が帰ってくるまでに必死で片付けをするようになりました。
学校へ行っても友達がいないので楽しくなく、早く家に帰って料理をしたいと思っていました。
学校が終わると、すぐに帰る支度をして夕飯の買い物をして、家に帰って晩御飯を作っていました。
ある日、妹が「お姉ちゃんのシチューが食べたい」というので、学校が終わると、スーパーでシチューの材料を買って急いで家に帰りました。
楽しみに待つ妹の為に、腕に寄りをかけて、シチューを作りました。
出来立てのシチューを取り皿に分けて、妹に差し出すと嬉しそうにスプーンを持って、食べ始めました。
その時です。
「熱いよ~、お姉ちゃん」
と、大きな声で妹は泣き出しました。
出来立てのシチューを妹は手の上にこぼしてしまったのです。
妹の手は、みるみるうちに真っ赤に腫れあがっていきました。
私は慌てて妹を洗面所まで連れて行き、蛇口で冷水を出して、冷やそうとしました。
洗い場で、手を冷やしている最中も、妹は「熱い。熱い」と泣き止まないので、お医者さんに連れていかなければいけないと思い、慌てて母に電話しました。
母は忙しい仕事の合間を縫って家に戻って来てくれました。
そして、妹を連れて病院へ向かっていきました。
私は家で待っている間、火傷を防げなかったことに対して自分を責め続けていました。
母と妹が帰ってきたのは、それから二時間後のことでした。
妹の手にはぐるぐると何重にもガーゼが巻かれていて、痛々しい姿で戻ってきました。
大事には至りませんでしたが、少し火傷の跡が残るかもしれないと、お医者さんに言われたそうです。
母は、私の顔を見ると「どうしてお姉ちゃんなのに、妹の事をちゃんと見ていなかったの」と、大きな声で怒りました。
私も妹に対して悪かったと思う気持ちもありましたが、妹のためにシチューを作ったのに、どうしてここまで怒られなければならないのかと、母は理不尽だと感じました。
その日は部屋に閉じこもり、一晩中泣き続けました。
泣いているとき、自分の頭上の髪の毛を触りながら、毛を抜いていました。
この日をきっかけに、私は何か嫌なことがあるたびに自分で自分の髪の毛を抜くようになりました。
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