ナチス・ドイツが第二次世界大戦中にユダヤ人に対して行ったアウシュビッツ強制収容所の話は歴史に興味がある日本人ならほぼすべての人が知っている。『アンネの日記』もその関連だ。600万以上の部数が売れたという。
1942年2月下旬から、カリフォルニア州やワシントン州、オレゴン州とアリゾナ州、ハワイから一部の日系アメリカ人及びまだ国籍を取得していないが同地に共住していたと日本人移民約120,000人が強制的に完全な立ち退きを命ぜられ(78%が市民権を有する二世、三世)、強制収容所に入れられたことについて、小説や歴史書を読んだり、映画を見た人はいるだろうか。まずいない。
ではそういう題材がないのか。立派に存在する。ミネ・オオクボ「市民13660号」がその一つである。ミネ・オオクボは1912年カリフォルニア州で生まれ、。カリフォルニア大学で学士、修士(美術と人類学)を得、奨学金で欧州で学び、レジェに師
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5核保有国は3日、共同声明を発表. 声明では「核戦争に勝者はおらず、決して戦ってはならないことを確認する」と宣言. 露外務省報道官は、共同声明は4日に国連本部で開幕予定だったNPT再検討会議に合わせて用意と説明. 中国の馬外務次官は5カ国指導者が核兵器で声明は初と意義強調
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林外相は米国務長官、及び国防長官に電話等で米軍基地での外出制限の導入を含めた対策の強化を求めた。他方在日米軍スポークスマンはこの対話が一段の規制になるかは不明と述べている。現在米軍は各基地司令官に判断をゆだね、厳しい措置導入中は少数。 。
コメント
ついでに書いておくが、シベリア抑留についてスターリンやソ連を批判してきたのも、ここではわたし以外に記憶がない。抑留されていたのは「われわれ」であり、抑留したのは「彼ら」である。
香月泰男はわたしも実作品をいくつかみたことがあり、わたしなりにすごさはわかっているが、あの作品世界「だけ」が強調されることには、一度言おうとおもっていたが、強烈な違和感を感じる。かれの世界はそれとして、われわれはその前にいうべきことがあるだろう。
最近とりあげられていた平山郁夫も同じだ。
けっ、てめえがそのものずばりの親米右翼のくせに。
実物を見たことがないってか。
鏡を見てみろ。
親米右翼は日本のそこらじゅうにいるが、少なくともそのうちのひとりが
そこに写っている。
まずは、孫崎さんも見ている前で、他人に対して、乱暴な言葉遣いは慎んだらいいのにと申し上げます。
見ていると、たぶん、数十年前は右寄りな相手と議論していて、負けそうになったら、「親米!」といえば、それでマウントが取れたのだろうなと感じます。そのときの記憶と行動パターンが同じままで今も続いているんでしょうね。
ところがそのご本人たちの世代が、日本が親米であることのメリットを最大限享受し、自民党政権であることのメリットも最大限享受してきたことは、わたしが過去にここで示してきたところです。メリットは最大限享受しつつ、反米・反自民を気取る。かっこいいですねえ。
それはともかく、今、そんなことでマウントがとれる30台以下の右寄りなんかいませんよ。「親米」ではないからです。
カザフスタンは日本と同じく地理的にロシア・中共周辺の国ですが、そのカザフスタンで暴動がおきました。とくに根拠はないですが、わたしは多少とも米国の工作がはいっていると想像しています。台湾は防衛できないが、台湾を侵略するとウイグルでよからぬことがおきるよ、という脅しがあるだろうと以前書きましたが、その小手調べというところでしょうね。また、ロシアに対してもなんらかのメッセージがあるでしょう。
しかし、カザフスタンの民族主義者に、「おまえは米国の手先か」と問えば違うというでしょうし、実際に違います。かれら民族主義者に「親米!」といってもなんのマウントもとれないでしょう。ところが実際に「親米」というレッテルを張られることもあるし、張りたいヒトビトもいるでしょう。なぜでしょうか。
よく考えて見られたらいいのにとおもいます。
(ID:18367902)
高校生時代から、「歴史を学ぶ」ということの教育に違和感を持っている。特に年代を含めて事件の内容より関係人物の名前などの暗記が強要され点数評価され合格不合格と判定されることである。事件に対する見解を問われることはない。
特に人間は事件を忘れられるから生きていけるのであって忘れられないとしたら生きていくことができないのではないか。多くの人が狂ってしまうのでしょう。生きていく秘訣は忘れることにあると高校時代から割り切って生きてきた。
戦争だけでなく悲惨な事実は世の中にいっぱいあり、事実は事実として心に刻むことは人間として必要なことであり心を寄せることがあって当然である。ただ、事件というものは加害者と被害者がおり大きく見れば被害者だけでなく加害者にもそれなりの事由があり双方の気持ちを心に移入すると判断に戸惑うことがしばしば起きる。
物事ってものは見る人によって好ましいものであり、時と場所が異なれば好ましいものでなくなってしまう。やはりこの疑問にまともに対峙する時期があってしかるべきであるがその時期を外すと自分の見たことを正義とみて他の見方を排除することが多くなってしまうのでしょう。
心を白紙にして絵画を見て日本人は関心を持たないというより、見たことに対する見解を求められても回答することに戸惑うということがあるのでしょう。よく理解できる。