・多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。
・多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしい。民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一
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随想⑭ ショパン、「音楽とは何か」
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民主主義と日本⑤:ライシャワー元駐日大使、何故政治的自由体制から軍国主義化したか「当時日本で、国主義的、権威主義的反動が起こった裏に数世紀にわたり形成された日本人の特質あり。教育、新聞・ラジオ、国民皆兵制度―これらで大統制力を国民の思想に行使
コメント
大坂なおみは、勝ったからすごい。もちろん、負けたからと言って、メッセージの価値自体がいささかでも減じるわけではない。そこは誤解のないように強調しておく。
しかし、ああいうメッセージを掲げつつ負けるとかっこ悪い。しかもあのメッセージを掲げること自体が彼女の勝利にプラスにはたらいたかどうかもわからない。ふつうはプレッシャーを感じるだけだとおもう。
以前にも孫崎さんがこの文章を提示されたときに、もしかしたら以下と同じようなことを書いたかもしれないのだが、やはり投稿しておこうとおもう。
この引用文のもとの文章(原文ということにする)は青空文庫で無料で読めて、それを読むと、伊丹の言いたかった趣旨がよくわかる。原文は短いので今すぐあっという間に読めるはずだが、簡単にわたしなりに要約的なことを書いておくと、
伊丹のもとに、「自由映画人連盟」なる人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しているという知らせが届く。伊丹は、形式上その「自由映画人連盟」に名前を連ねていたのだ。これに対して伊丹は、だます、だまされるについての議論を展開(その議論の一部が今回の孫崎さんに引用されている)するのだが、議論の到達点は、「まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てない」であった。そして、「自由映画人連盟」そのものからも除名を申し出た。
以上である。当時も、誰が悪い、何が悪いと追求するヒトビトは、今と同じく多かったのだろう。伊丹はそれとは真逆のことを考えている。
原文を味読すべし。わたしは、伊丹の原文は、「よく事情も知らずにに断定するくせがあり、つねに自動的に自分以外のだれかを責める傾向のある独善的なヒトビトへの、猛烈な皮肉」になっていると感じる。
No.5の戦争の好きな順位についてですが、これが二回目の
表示となります。
前回は書いたのですが、今回は忘れました。
わたしのオリジナルアイディアではありません。
その箇所は田岡俊次氏の説の受け売りです
文章全体の文責はもちろんわたし。
(ID:18367902)
戦争だけでなく、様々な社会的行為は、意識せずとも「だまし、だまされる現象」で成り立っている。だから、世の中は面白いともいえる。男女の中でも、だますつもりはなかったが、結局だますことに終わることもある。
解決方法は、いかにして、一人一人、「だまし、だまさない」ように人格を高められるかということである。「だまし、だまされる」ことがなくなることはない。
人間の生きていく根本は、大まかに言ってこの二つに大別できるのではないか。
①精神的支柱:具現化する現象をありのままに見つめられる強い心を持つことができるかどうか。
②物質的支柱:日常生活に必要な物質的追及が制御できるかどうか。
相反する生きていく糧を一人一人がコントロールできるかどうか、言葉では何とでもいえるが、現実的に実行できる人を求めても、物質的豊かさが優先し、精神的豊かさに重点を置かない人がほとんどでしょう。精神的豊かさは、古代から、物質的追及から離れえた一部の特権階級に与えられたものになっている。
日本のように一つの王朝が続いているところはない。王朝が続いていることは、さまざまな環境の相違はあるにしても、物質的豊かさに不満を持ち他の国のように庶民が不満を訴える戦うということが極めて少なかった。外敵がいないから、為政
者と庶民が信頼関係を築いていたともいえる。
このような優れた民族が、今次大戦の反省をするとすれば、国民の物質的豊かさが維持できないという「宣伝」が徐々に浸透し、国民が危機を為政者と共有していったことが大きかったと分析しています。
「だまし、だまされる」ほど当時の国民の精神的レベルが低かったとは思わない。現在のように様々な情報を経験しなければならない時代でなく、生きていく倫理的精神的支柱は、現代のわれわれより高いレベルにあったとみるべきでしょう。