官僚:人間の奴隷でないが、制度の奴隷
日本の教育は、見かけは西洋風でありながら、外見とは全く反対の方式に行われている。その目的は、個人を独立独歩の行動を出来る様に鍛えるのではなく、個人を共同的行為にむくようにーつまり、厳しい社会機構の中に個人が妥当な位置を占めるのに適するようにー訓練を施すことであった。我々西洋人の間では、強要抑圧は子供時代に始まり、その後徐々に緩めめられる。この国での強要抑圧は、後になってから始められ、その後段々締めつけが強まってゆく。
ラフカディオ・ハーンは著『神国日本』(一八八八年米国で出版し、日本では平凡社、一九七六年)から出版。その引用
・クラス生活の調整は、多数に対し一人が独裁力を振るうという事ではない。多数がひとりを支配していくというのが常道であり、-その支配力たりや実に強烈なものであるー意識的にしろ無意識的にしろ、クラス感情を害した生徒はたちまちのけものに
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教育への公的支出、日本2.9%で38か国中37位…OECD調査、米国4.2%、英国4.1%、ドイツと韓国3.6%。戦後の日本の経済的奇跡の要因の一つが教育と言われた。通信5G等今後大規模な技術革新が起ころうとしている中、教育軽視の国に明るい未来あるはずがない。
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11日安全保障に関する首相談話、①中国の脅威に言及なし、②敵基地攻撃に言及なしで、当初想定されたより後退。「検討している所である」にとどめる。日本は最早菅内閣を想定して動き出している。安全保障にタガをはめたいとする安倍・タカ派の思惑一旦後退
コメント
>>5
了解です。
※『彼は家族のものになり、集団のものになり、政府のものになっている』『彼は人間の奴隷ではないが一つの制度の奴隷なのである』
「神国日本」という題名は、1976年の日本語訳のときの題名で、もともとは「Japan: an Attempt at Interpretation」という題名である。「Japan: an Attempt at Interpretation」はキンドル版が無料で読める(アマゾンで検索)。東洋文庫版もキンドル版が出ているが、こちらは有料。
Japan: an Attempt at Interpretationの出版は、1904年、あるいは1905年らしい。孫崎さんの文章のなかにある「一八八八年米国で出版し」ということとの整合性がよくわからないが、もしかしたら、書内におさめられている一部原稿の初出がその年なのかもしれない。なお、1888年に、ハーンが日本に興味をもっていたのは事実のようだが、その時点ではまだ彼は日本に来ていない。
ハーンが日本に来たのは、1890年で、その後島根県、熊本県で英語教師としての教職を得ているが、1896年から東京帝大の英文学講師についている。今回孫崎さんが引用している部分は、主として東京帝大での学生の観察から着想を得ていることは、間違いないであろう。こういう観察を、現代の日本に敷衍するのは別にまちがいではないが、そもそもが、19世紀末の東京帝大の学生、つまり超エリートを対象とした観察であることには留意すべきだ。
すぐに興味がわくのは、当の東大の学生あるいは東大出身者がこの事情をどのようにとらえていたかで、わたしがすぐにおもいうかんだのは、鴎外(1881年卒業)の「舞姫」だ。だれもが一度は読んだことがあるだろうからごく簡単にわたしなりにあらすじを述べると、家族、集団、政府のものである太田豊太郎(鴎外自身が投影されているといわれている)が国費留学先のプロシアで個人主義の気風にふれ、下層階級の女の子と恋仲になる一方、家族、集団、政府からは見放されていく。しかし最後の最後で、妊娠した女の子を捨て、太田豊太郎は、家族、集団、政府のもとに自主的に戻っていく。「舞姫」の最後は、「嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり」と結ばれる。相沢謙吉というのは、家族、集団、政府のがわに太田豊太郎を取り戻そうと活躍する友人である。
もちろんいろんな人々がいたのにはちがいないが、少なくともハーンの指摘した事情のなかで葛藤しつつ生きていた超エリートが何人かは当時いたことが、「舞姫」でわかる。そして、明治の日本人が個人主義をどうとらえるのかという問題は、ハーンのあとをついで東京帝大の英文学講師になった漱石がさらに展開する。
さて、上でも書いたが、ハーンに限らずおこなっているこうした観察を、現代の日本に敷衍するのは別にまちがいではない。しかし、まずは当時の日本人に内在的に理解したうえで考えるほうが、たぶん稔りが多いであろうという直観がある。そうでないと、全体主義だから侵略したのだというような安易な発想になる。同じ口が、(個人主義の)米英は大侵略者であり、(全体主義の)中国は大平和国家であるというようなことを述べたりするのだ。
また、もしもそれが日本人が長く培ってきた国民性、ほとんど運命であるのなら、こういう文章を読んでちょっと反省したり自覚したりではどうにもならないことも知るべきであろう。運命なのだから。
ところで、ハーンの分析を、日米戦争で米国がおおいに参考にしたという噂がある。これはつまり、文化人類学的発想であり、かれらの定石なのだ。
たぶん、米国は中国のことも、すみからすみまで調べ上げているとおもう。一方、中国はその用意があるだろうか。
どうしてこんなにも的確なんでしょうね。当時のエリート日本人でもこのくらいに推察できたのか、外国人だったからこそなのか。
(ID:18471112)
ラフカディオ・ハーンの指摘は身につまされるものばかりだ。
ここで善悪は断定されていないが、当然「いいことない」と思ったから指摘したのだろう。
氏は高位の軍人などでなかったからだ。創作活動も生業とした自由人だったからだ。
一方、
> 彼は人間の奴隷ではないが一つの制度の奴隷なのである。
趣旨はわかるものの、やはり「人間の奴隷」と思う。制度を作って それを強要するのも人間に他ならないからだ。
> たまたま悪い主人に仕えた手腕家なる下役
ここがミソだ。即ち、人を奴隷化しているのは、結局はトップの「悪い人間」である。
それが顕在化した7年半だったが、顕在化しなければ「人でなく制度に潰された/組織に殺された」等の錯覚が起こるのでないか。