官僚:人間の奴隷でないが、制度の奴隷
日本の教育は、見かけは西洋風でありながら、外見とは全く反対の方式に行われている。その目的は、個人を独立独歩の行動を出来る様に鍛えるのではなく、個人を共同的行為にむくようにーつまり、厳しい社会機構の中に個人が妥当な位置を占めるのに適するようにー訓練を施すことであった。我々西洋人の間では、強要抑圧は子供時代に始まり、その後徐々に緩めめられる。この国での強要抑圧は、後になってから始められ、その後段々締めつけが強まってゆく。
ラフカディオ・ハーンは著『神国日本』(一八八八年米国で出版し、日本では平凡社、一九七六年)から出版。その引用
・クラス生活の調整は、多数に対し一人が独裁力を振るうという事ではない。多数がひとりを支配していくというのが常道であり、-その支配力たりや実に強烈なものであるー意識的にしろ無意識的にしろ、クラス感情を害した生徒はたちまちのけものに
コメント
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>>4
このようなコメントであれば、回答する張り合いがありますが、私の文章を読んでいないのではないか。
ITに限定していません。「社会生活上必要な基本的なことを教育しなければ」という但し書きがあります。教育しなければならないことは数点列記しています。ITだけではありません。
ITを使えればよいということでなく、情報通信の基本的教育は必要と考えています。どの程度まで教育するかは、議論の余地があります。
「人間失格」は確かに表現が強すぎますが、AIなど人間の知能を超え処理能力を超えてくると、単純な作業だけでなく、かなり高度な作業もAIが処理していくわけであり、人間のできることが極めて限定されていく。極めてシビア―な環境に人間が置かれていることを認識すべきだということ強調したかったのが本音です。私の狙いとあなたの理解がかけ離れており、表現不足は認めます。
(ID:19005377)
>>5
了解です。
(ID:46842125)
どうしてこんなにも的確なんでしょうね。当時のエリート日本人でもこのくらいに推察できたのか、外国人だったからこそなのか。