第二次世界大戦を経験してきた世代には「日本を再び戦争する国家にはしたくない」という強い思いがあります。その思いは、社会的立場、政治的立場を超えて共有されています。
たとえば、一九三〇年生まれで、二〇一五年一二月に亡くなった野坂昭如さん。一七歳のとき、下宿先の親戚の家で窃盗を働いて少年院に送致されたあと、雑誌にエッセイを寄せたのを機に「元祖プレイボーイ」として脚光を浴び、さらには小説「エロ事師たち」で颯爽と作家デビューを果たしました。のちに野坂さんは直木賞を射止めます。作家、歌手、タレントとして多彩な活躍をした、生涯、破天荒の人でした。その彼が亡くなる二日前の一二月七日、TBSラジオが、彼の最後の手紙を伝えました。
はや、師走である。
町は、クリスマスのイルミネーションに、さぞ華やかに賑やかなことだろう。
ぼくは、そんな華やかさとは無縁。風邪やら何やら、ややこ
ここから先は有料になります
ニコニコポイントで購入する
チャンネルに入会して購読する
- この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。
-
サミット。安倍首相の魂胆「世界経済危機論で参議院選挙前に消費税延期を宣言する理由に利用しよう』見透かされ、独、英、仏から厳しい批判。その後も外国メディアから批判。
-
一覧へ
-
『21世紀の戦争と平和』(14日発売)軍事部門を強化することは、私たちの日常の生活環境を悪化させることなのです
コメント
孫崎さんの視点は、民主主義国家、法治国家が維持できるかどうかであるが、その段階は過ぎているのではないか。
民主主義、法治国家を重視するのであれば、不平等な地位協定の大幅見直しが不可欠ではないか。不平等な地位協定を是正する運動が本土内で巻き起こらなければ、米国並びに政府に対する抗議行動にならない。また、国民意識が日米同盟の改定に向かわなければ、これからも、米国の要求に反対する間接的抗議が、国内で数限りなく続くだけではないか。国内問題にとどめる限り、どこかで、日本民族の意識は溶解し、征服された民族になりかねないとの危機意識が必要ではないか。
> しかし日本は「戦争をする国」に限りなく近づいてきています。
「戦争をする国」というのは、「戦争をしたい国」というより「戦争を『させられる』国」と思います。
好戦国民が大した数でないのは、ツイートされた「一般学生の意識が高まらない」からも伺えます。
一方、フォーブスの元アジア太平洋支局長・B.フルフォード氏曰く-
「あのね、アメリカのやり方は昔から同じ。例えば、近所で仲良くしている二人がいるとするでしょ。そこで、片方の飼い犬を殺して、『隣の人があなたの犬を殺したよ』と言ってケンカさせるんですよ」
戦争ビジネスで食い扶持稼いでいる米国のために日本は戦争させられる。
野坂昭如氏の「アメリカひじき」に描かれる対米劣等感は、克服どころか今も日本人を雁字搦めにしていると実感しますが、もはや一般国民が一丸となって米国ネオコン勢に抵抗しなければ、ウクライナも本当に他人事ではなくなる気がします。
「このままいけば…」ではなく、もう、民主主義国とは言えない状況になっていると思います。
「原発再稼働反対」「TPP反対」「戦争法反対」と、多数の国民が声を上げ、デモを繰り返しても、安倍政権は耳を傾けようともしません。1200万人という恐るべき数の署名を突きつけても、紙屑にされてしまいます。
米軍基地があると治安が悪化するのは当然ですが、沖縄だけに押しつけておけば、他の46都道府県は安心していられます。沖縄が「これ以上の負担は無理」と叫び、地位協定改正を求めても46対1の多数決により、民主的?に否決しています。
一切の批判意見を無視する安倍首相には、屈辱的対米隷属も、まったく理解できないのでしょう。
(ID:18367902)
日本の不幸は、平和憲法を制定施行したが、占領下に等しい日米同盟安保条約地位協定が、軍事行動を肯定している。このような相反する行動規範の中で、憲法解釈を変えることで、軍事行動を認めてきたが、米国の米国のための軍事行動に参画する集団的自衛権の是非におよび他人事意識では済まなくなり、慌てふためいているのである。
どこに問題があるか、共産党はじめリベラルの人たちが日米同盟安保条約地位協定に、一切口を閉ざしたことであり、日米同盟に一切反対しない自民党と同質化したからである。集団的自衛権に反対しても、不平等な地位協定に触れることがないので、一般人は、集団的自衛権反対憲法違反を唱えることになり、根本問題に触れることがない。このような平和主義を求めても、根幹が変わることがないのは、リベラルと言われる人は十分わかっているはずであるが、日本を愛する気持ちが薄れ、現実満足主義に陥り、日本民族の自立独立を放棄しているといえる。この結果近いうちに、日本は米国の占領民族から征服された民族になることが、必然的に当然な姿になるのでしょう。