「ガタケット128」(2013年7月7日、新潟市産業振興センター)で配布したサークルペーパーです。
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さてFree Talkですけど、なんか最近「若者の問題を見えなくする劣化言説批判に私は抵抗する!」とか言う人に絡まれて、若者論批判に対していまだにいろいろと誤解が多いなと思ったので、若年層劣化言説が生み出している問題点について述べてみたいと思います。これの執筆中に、NPO法人日本子守唄協会(2000年11月10日設立)の設立理念がツイッターのタイムラインに流れてきたので、一つの実例として引用してみたいと思います。
設立理念ということですから2000年に書かれたものと思われますが、2013年になっても修正や但し書きがないあたり、この「理念」は今でも生き続けていると考えた方がよさそうです。もちろん、この「理念」の中で謳われている少年犯罪の「増加」「低年齢化」「凶悪化」は客観的には支持されないのですが、1990年代の終わり頃から、日本社会や日本人の「劣化」、なかんずく若年層の「劣化」が殊更に採り上げられ(この点については、浅岡隆裕『メディア表象の文化社会学』(ハーベスト社)を参照されたい。また弊サークルの同人誌では『古明地さとりの自己形成論講義』第4章で参照している)、日本人、特に若年層の「劣化」が当たり前の認識として広がるようになっているということは存在しています。
もちろんそれは、若年層そのものが「劣化」しているということを支持するわけではないことに注意が必要です。しかし2000年代の我が国の若者論においては、このような「劣化」認識をベースに、多くの社会評論言説において、現代社会の「病理」を物語るものとして、若年層の「劣化」が語られるようになっています。それは特に芸能人や文化人のエッセイ・インタビューに顕著です。
さらに、このような「劣化」認識をベースに、「自分こそが若者問題を解決できる!」という言説も広まるようになりました。このような言説は以前からも、例えば戸塚ヨットスクールなどでもあったのですが、近年では所謂「自立支援」施設の代表者や精神科医などによって担われるようになっています。
彼らの言説に見られる特徴としては、まずは「専門家」への批判が挙げられます。教育学者や、あるいは既存の教師の方法論では、一昔前とは大きく変わってしまった若年層の「問題」に対処できないという批判が、これらの言説には目立ちます。そして若年層の「実態」に向き合っている自分こそが、青少年問題の「真の原因」を知り、そして対処できるということを豪語するのです。そしてそのような「実践者」ないし「支援者」としての態度が、所謂「専門家」への排撃に繋がっているかもしれません。特に自らの目的や価値の合理性に対して疑問を加えるような人は気に食わない存在でもあるでしょう。
確かに、「自分こそが青少年問題を解決できる!」と意気込んでいる人が、自らの方法論の限界や適用範囲について述べると、当初ぶち上げていた態度を自ら裏切ってしまうことになってしまうかもしれません。また、彼らの「実績」も疑うことはできないでしょう。
しかし、現実に彼らが「向き合っている」ような「問題のある」若年層の実在は疑わなくとも、その「原因」についての考察や、あるいは「問題のある」若年層が「増加」しているという前提については多分に疑問の余地があるのではないかと思います。そもそも彼らが扱っている若年層が本当に「増加」しているのかということについては、例えば報道の量が増えたとか、あるいはインターネットの発達によって「可視化」はされたかもしれないが、それが「増加」(ないし「急増」)を意味するものであるのかというのは、例えば児童虐待などの例を見てもわかるとおり、疑問が向けられて然るべきでしょう。
もちろん、報道などの増加によって「同じことで悩んでいるのは自分だけではない」という安心感がもたらされることは否定し得ません。しかし、それを「実数」の増加だと思い込み、徒な「原因追求」に向かってしまうと、それこそ先に採り上げたような日本子守唄協会のような錯覚に陥ってしまいます。
ましてや、自らが「向き合っている」とされる「問題のある」若年層の実在や増加が、社会全体の劣化と結びついている(あるいは将来的に結びつくであろう)と考えることも慎むべきです。自らが問題視している社会的な問題と、目の前の若年層の問題を短絡的に結びつけるような態度には、自らの目の前の問題に対する社会学的な分析よりも、自らの社会に対する価値観のほうが前面に出てしまうものです。
そのような「実践者」の暴走を防ぐものこそが、社会科学的な知見だと思います。目の前の問題に対して、社会科学的な知見を持って取り組むようになると、そのときどきの問題の解決はもちろんのこと、自分の想定と違った問題が起こったときへの対処や、あるいはよりよい支援、さらにはより広範囲な施策・政策にいかに活かすかという視点が生まれてきます。そして目立ってはいませんが、現にそういう視座を獲得している「実践者」も存在します。
しかし「劣化」という大時代的な視座だけになってしまうと、あらゆる問題が「劣化」という状況に従属した形で認識されるようになり、目の前の問題と社会的な問題が「劣化」という物語によって直列的に結びつけられ、自分はこの「劣化」した社会の本質を知っているというヒロイズムに陥ってしまう。
劣化言説批判に対して、それは若年層の問題を覆い隠すものだと吹き上がる向きは、そもそも「劣化」という枠組みでしか物事を捉えることができないことの証左ではないでしょうか。自らの行為や思考の正当性が、「劣化」という枠組みによって得られることになるため、「劣化」そのものを疑うような言説に対して、自らのアイデンティティまでもが壊されたかのように振る舞うのは、彼らの認識の枠組みの狭さを考えれば、致し方ないことなのかもしれません。ただ、「劣化」という認識にただ乗りして自らの正当性を主張する「支援者」を取っ替え引っ替え持ち上げてきて、それに対する検証を怠ってきたメディア状況に対しては、疑問を向ける必要があると思います。
最後になりますが、このような「実践者」のヒロイズムの危険性に陥りやすいのは、古典的な文化社会学や階層論を表層だけかじった人間です。ポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』(ちくま学芸文庫)などのアンダークラス研究の名著や、あるいはアメリカの黒人階級の非識字に関する研究を引き合いに出して、「現代の若年層の問題はこういうことだ」と言う人を見かけますが、そもそも現代の若年層と、それらの古典的な、あるいは専門的な研究を、より大きな社会的、時代的背景への考察を抜きにしてそのまま比較してしまうことは、むしろそういう「反論」をしてしまう人間の、現代社会への偏見はおろか、古典的なアンダークラスへの偏見すらもあらわにしてしまうことになりかねません。まあ、最大の危機的状況というのは、そういう風な「反論」をしてドヤ顔するような人間が「社会学者」を名乗っていることでしょうかねぇ…。
奥付
後藤和智の雑記帳 ガタケット128出張版
著者:後藤 和智(Goto, Kazutomo)
発行者:後藤和智事務所OffLine
発行日:2013年7月7日
配信日:2013年7月13日
連絡先:kgoto1984@nifty.com
チャンネルURL:http://ch.nicovideo.jp/channel/kazugoto
著者ウェブサイト:http://www45.atwiki.jp/kazugoto/
Twitter:@kazugoto
Facebook…
個人:http://www.facebook.com/kazutomo.goto.5
サークル:http://www.facebook.com/kazugotooffice
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さてFree Talkですけど、なんか最近「若者の問題を見えなくする劣化言説批判に私は抵抗する!」とか言う人に絡まれて、若者論批判に対していまだにいろいろと誤解が多いなと思ったので、若年層劣化言説が生み出している問題点について述べてみたいと思います。これの執筆中に、NPO法人日本子守唄協会(2000年11月10日設立)の設立理念がツイッターのタイムラインに流れてきたので、一つの実例として引用してみたいと思います。
しかし今日の日本は、子供たちの夢や願いを引き出し、助け育てていく環境として見た時にどうなのでしょうか?経済的にも豊かになり、何をするのにも便利になったはずの現代で、少年犯罪が増加し、その内容も低年齢化、凶悪化しているのは何故なのでしょうか?
それは子供たちを見守り助け育てる親や社会と子供達のあいだで、きちんとしたコミュニケーションがとれていない事が原因のように思われます。
(http://www.komoriuta.jp/ar/A05090601.html)
設立理念ということですから2000年に書かれたものと思われますが、2013年になっても修正や但し書きがないあたり、この「理念」は今でも生き続けていると考えた方がよさそうです。もちろん、この「理念」の中で謳われている少年犯罪の「増加」「低年齢化」「凶悪化」は客観的には支持されないのですが、1990年代の終わり頃から、日本社会や日本人の「劣化」、なかんずく若年層の「劣化」が殊更に採り上げられ(この点については、浅岡隆裕『メディア表象の文化社会学』(ハーベスト社)を参照されたい。また弊サークルの同人誌では『古明地さとりの自己形成論講義』第4章で参照している)、日本人、特に若年層の「劣化」が当たり前の認識として広がるようになっているということは存在しています。
もちろんそれは、若年層そのものが「劣化」しているということを支持するわけではないことに注意が必要です。しかし2000年代の我が国の若者論においては、このような「劣化」認識をベースに、多くの社会評論言説において、現代社会の「病理」を物語るものとして、若年層の「劣化」が語られるようになっています。それは特に芸能人や文化人のエッセイ・インタビューに顕著です。
さらに、このような「劣化」認識をベースに、「自分こそが若者問題を解決できる!」という言説も広まるようになりました。このような言説は以前からも、例えば戸塚ヨットスクールなどでもあったのですが、近年では所謂「自立支援」施設の代表者や精神科医などによって担われるようになっています。
彼らの言説に見られる特徴としては、まずは「専門家」への批判が挙げられます。教育学者や、あるいは既存の教師の方法論では、一昔前とは大きく変わってしまった若年層の「問題」に対処できないという批判が、これらの言説には目立ちます。そして若年層の「実態」に向き合っている自分こそが、青少年問題の「真の原因」を知り、そして対処できるということを豪語するのです。そしてそのような「実践者」ないし「支援者」としての態度が、所謂「専門家」への排撃に繋がっているかもしれません。特に自らの目的や価値の合理性に対して疑問を加えるような人は気に食わない存在でもあるでしょう。
確かに、「自分こそが青少年問題を解決できる!」と意気込んでいる人が、自らの方法論の限界や適用範囲について述べると、当初ぶち上げていた態度を自ら裏切ってしまうことになってしまうかもしれません。また、彼らの「実績」も疑うことはできないでしょう。
しかし、現実に彼らが「向き合っている」ような「問題のある」若年層の実在は疑わなくとも、その「原因」についての考察や、あるいは「問題のある」若年層が「増加」しているという前提については多分に疑問の余地があるのではないかと思います。そもそも彼らが扱っている若年層が本当に「増加」しているのかということについては、例えば報道の量が増えたとか、あるいはインターネットの発達によって「可視化」はされたかもしれないが、それが「増加」(ないし「急増」)を意味するものであるのかというのは、例えば児童虐待などの例を見てもわかるとおり、疑問が向けられて然るべきでしょう。
もちろん、報道などの増加によって「同じことで悩んでいるのは自分だけではない」という安心感がもたらされることは否定し得ません。しかし、それを「実数」の増加だと思い込み、徒な「原因追求」に向かってしまうと、それこそ先に採り上げたような日本子守唄協会のような錯覚に陥ってしまいます。
ましてや、自らが「向き合っている」とされる「問題のある」若年層の実在や増加が、社会全体の劣化と結びついている(あるいは将来的に結びつくであろう)と考えることも慎むべきです。自らが問題視している社会的な問題と、目の前の若年層の問題を短絡的に結びつけるような態度には、自らの目の前の問題に対する社会学的な分析よりも、自らの社会に対する価値観のほうが前面に出てしまうものです。
そのような「実践者」の暴走を防ぐものこそが、社会科学的な知見だと思います。目の前の問題に対して、社会科学的な知見を持って取り組むようになると、そのときどきの問題の解決はもちろんのこと、自分の想定と違った問題が起こったときへの対処や、あるいはよりよい支援、さらにはより広範囲な施策・政策にいかに活かすかという視点が生まれてきます。そして目立ってはいませんが、現にそういう視座を獲得している「実践者」も存在します。
しかし「劣化」という大時代的な視座だけになってしまうと、あらゆる問題が「劣化」という状況に従属した形で認識されるようになり、目の前の問題と社会的な問題が「劣化」という物語によって直列的に結びつけられ、自分はこの「劣化」した社会の本質を知っているというヒロイズムに陥ってしまう。
劣化言説批判に対して、それは若年層の問題を覆い隠すものだと吹き上がる向きは、そもそも「劣化」という枠組みでしか物事を捉えることができないことの証左ではないでしょうか。自らの行為や思考の正当性が、「劣化」という枠組みによって得られることになるため、「劣化」そのものを疑うような言説に対して、自らのアイデンティティまでもが壊されたかのように振る舞うのは、彼らの認識の枠組みの狭さを考えれば、致し方ないことなのかもしれません。ただ、「劣化」という認識にただ乗りして自らの正当性を主張する「支援者」を取っ替え引っ替え持ち上げてきて、それに対する検証を怠ってきたメディア状況に対しては、疑問を向ける必要があると思います。
最後になりますが、このような「実践者」のヒロイズムの危険性に陥りやすいのは、古典的な文化社会学や階層論を表層だけかじった人間です。ポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』(ちくま学芸文庫)などのアンダークラス研究の名著や、あるいはアメリカの黒人階級の非識字に関する研究を引き合いに出して、「現代の若年層の問題はこういうことだ」と言う人を見かけますが、そもそも現代の若年層と、それらの古典的な、あるいは専門的な研究を、より大きな社会的、時代的背景への考察を抜きにしてそのまま比較してしまうことは、むしろそういう「反論」をしてしまう人間の、現代社会への偏見はおろか、古典的なアンダークラスへの偏見すらもあらわにしてしまうことになりかねません。まあ、最大の危機的状況というのは、そういう風な「反論」をしてドヤ顔するような人間が「社会学者」を名乗っていることでしょうかねぇ…。
奥付
後藤和智の雑記帳 ガタケット128出張版
著者:後藤 和智(Goto, Kazutomo)
発行者:後藤和智事務所OffLine
発行日:2013年7月7日
配信日:2013年7月13日
連絡先:kgoto1984@nifty.com
チャンネルURL:http://ch.nicovideo.jp/channel/kazugoto
著者ウェブサイト:http://www45.atwiki.jp/kazugoto/
Twitter:@kazugoto
Facebook…
個人:http://www.facebook.com/kazutomo.goto.5
サークル:http://www.facebook.com/kazugotooffice
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