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【サークルペーパー】EJ気仙沼21/杜の奇跡20/超文学フリマ in ニコニコ超会議2出張版

2013/05/20 08:47 投稿

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  • 石原慎太郎
  • 性教育
  • 東京都青少年健全育成条例
以下の文章は、下記イベントで配布したサークルペーパーに掲載したものです。
前編:EVENT JACK 気仙沼21(2013年3月17日・気仙沼市民会館)・杜の奇跡20(2013年3月24日・仙台市情報・産業プラザ)
後編:超文学フリマ in ニコニコ超会議2(2013年4月28日・幕張メッセ)

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前編…
さて、今回のFree Talkですが、ツイッターで予告していたとおり、石原慎太郎の教育言説を採り上げることとします。

なぜ石原なのかというと、産経新聞出版から発行されている石原の著作集『石原愼太郎の思想と行為』の第3巻「教育の本質」(2013年1月刊行)に、古本屋などでも入手が困難であった『スパルタ教育』『真実の性教育』(共に光文社、それぞれ1961年11月、1972年5月)が収録されているからです。特に『真実の性教育』については、2009~2010年の東京都青少年健全育成条例(所謂「非実在青少年」規制で話題になった時期)において、子供が性的な情報に触れることを肯定していたではないか、ということを石原が述べていたということで話題になったこともあります。出自が若者論サークルである弊サークルがそんな本を採り上げないわけがない。俺の妹がこんなに可愛いわけがない。私に妹はいませんけど。

閑話休題、ここでは2回に分けて石原の教育言説、教育思想について検証していきたいと思います。今回は前篇として『スパルタ教育』を採り上げたいと思います(記述は著作集版を底にしている)。あ、『スパルタ教育』の中にも、第23項として「ヌード画を隠すな」として、あまつさえ《美しいものを隠すということは不自然だ》(『石原愼太郎の思想と行為3 教育の本質』p.41、以下断りがなければここからの引用)とまで言っていますよ。

それはさておき、同書から見る石原の教育思想とはなんなのでしょうか。私が見るに、それは「自然主義」(「本質主義」と言い換えてもいい)と「規律主義」(または「道徳主義」)の2つに分けられると思います。石原の言説においては、「太陽の季節」でデビューしたときから「本質」という言葉が出てきますが、石原が何らかの「人間の本質」というものを盲目的に信じていて、それをどう扱うかという視点は変わっていないと思います。

第2章「人生の真実を教えよ」、第4章「創造性をのばせ」、第7章「教師に子どもをまかせるな」、第8章「強靱な肉体にきたえよ」に出てくるキーワードは、ほとんどが自然主義的な傾向を持っています。特に第4章はその傾向が強いので、第4章を中心に見ていきましょう。例えば第46項「子どもの不良性の芽をつむな」だと、《子どもの不良性のなかには、親が代表する画一的、世俗的な道徳性、通俗性に対する反逆が織り込まれてい、あるいは、親には見られない強い個性の予見がある》(p.69)としています。さらに織田信長と水戸黄門(水戸光圀)が少年時代は不良少年であったことにも触れ、不良性にこそ変革への希望があるとしています。

第52項「物をこわすことを押えるな」についても、《子どもの衝動本能を強く押えることは、けっきょくのところ、人間の自然な発育発展を抑制することにもなる》(p.77)、第55項「子どもの部屋は、足の踏み場がなくても整理するな」では、《子どもは自分の望むように、自分の部屋を管理することによって自分の世界観を持つのである》(p.81)などと書かれており、子供の本質的な欲求を親の論理で阻害することは、子供の成長の芽を摘むことになるということが、繰り返し述べられているわけです。

このような「本質」を阻害することへの批判は、何も子供の発達に限ったことではありません。冒頭で挙げた第23項(第2章)についても、石原の実体験として、《後年スペインを旅行し、プラドの美術館を訪れたとき、自分がかつて幼年期に父の書斎で隠れて見た著名な裸体画が、つぎつぎに現実に目に飛び込んでくるのを見て、わたくしは人間の心理的コンプレックスというもののメカニズムの秘密をのぞけた気がした》(pp.40-41)などは、普遍的な美意識などへの信頼が見て取れます。第19項(第2章)「親は、子どもに神について語れ」、第94項(第8章)「山と海のおそろしさを教えろ」なども、自然とか超自然的なものとかを尊重する考え方と捉えることができます。

それでは後者の「規律主義」(道徳主義)はどうでしょうか。この傾向が強いのは、第1章「父権の復活を」、第3章「女々しい男にするな」、第5章「常識人にするな」、第6章「礼節を教えよ」です。第5章については、「常識人にするな」というのがなんで規律主義なの?という疑問を持たれる方もおられるかもしれませんが、ここで言う「常識」とは、「戦後的な」常識ということが言えると思います。第5章の第59項「時代を超えて変わらぬ価値があることを教えよ」においては《日本人は、たった一度戦争に負け、原爆を落としたほうではなく、落とされたほうなのに、広島に「二度とあやまちは繰り返しません。」などというバカげた碑を建て、いままでの自分たちのものの考え方、感じ方がなにもかも悪かったと土下座し》(p.86)と書かれているほか、第60項「子どもに、戦争は悪いことだと教えるな」、第66項「挨拶がわりに、人の子をほめるな」、第69項「制服を、学校以外で着せるな」などを見ても、石原は現代(当時)的な社会風潮には反対していることが見ています。

他方で、第1章においては「父親」が強調されていますが、これは当時の教育思潮として、「教育する家庭」(広田照幸)的な認識の広がりに伴う母親の肥大化というものがあり(広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書、1999年)参照。子育てに心理学の「知見」を積極的に取り込もうとする「心理学ママ」という言葉は1950年代に既にあった)、それが戦後的、作為的なものと石原に捉えられたことが考えられると思います。…もっとも、こういう「母親の肥大化」って、戦前にも主に都市部で見られたんですけどね(広田前掲書参照)。

第6章はほとんど単純な規律主義と言っていいでしょう。そしてその中でも、欧米批判も見られます(同章第77項「子どもは、電車の中では立っているものだと教えよ」)。

ただ注意すべきなのは、このときの石原の教育言説においては、現在のように過度に若年層をバッシングしたりというものは見られません。それでも同書の中には、現在の石原の教育言説ないし認識の種がたくさん詰まっているように見えます。

それは、先ほども述べたような、戦後的な社会風潮に対する批判です。石原の言説を形作る思想とは基本的に本質主義であり、そして戦後の社会風潮は、占領軍によってもたらされた「作為的」なものと映っていることが考えられると思います。もとより石原はかつても、「太陽の季節」をめぐる大宅壮一と、石原と同世代の作家の藤島泰輔との鼎談で、《ロクなやつは特攻隊か何かで死んでしまっているんで、生き残った“戦中派”というのは、欠陥があって戦争にもいけなかった。だから、あの世代の発言は非常におかしい。戦争中に失われたものを取り返さないでボーッとしている》(石原慎太郎、藤島泰輔、大宅壮一「“太陽族”の健康診断」(『週刊東京』1956年5月5日号、pp.3-7、中日新聞東京本社、1956年5月)p.6)という認識を持っており、上の世代よりも自分たちのほうが人間の本質に近いという認識を持っており、それがそのまま引き継がれていると見ることができます。

石原の教育思想は、その後の戸塚ヨットスクールへの肩入れを経由し(これも本書に収録されています)、1990年代、東京都知事時代における劣化言説の蔓延を経て、若年層バッシングに過度に傾倒していくわけですけど、その種はかなり初期の石原の教育言説、社会論に見られていた。石原が強く抱いている本質主義を突き崩さない限り、石原の若年層批判を止めることはできないだろう、ということが分かるわけです。

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後編:
前編では、同書に収録されている石原の『スパルタ教育』に見られる視点として、「自然主義」(ないし「本質主義」)と「規律主義」(ないし「道徳主義」)の2つの側面があると述べました。そして『真実の性教育』は、前半の自然主義(本質主義)に傾倒した議論と言うことができます。前回明らかにした石原の著作における自然主義とは、子育ての過程で、子供に備わっている人間としての本質を抑圧してはならない、というものです。

石原は同書のまえがきで、《性に関して人間は、他のいかなる問題に関する以上にも優雅であり、高貴であり、厳粛であると同時に、他のいかなるものに関するよりも、醜悪であり、みじめであり、おそろしいものでもありうる。/しかし、その性における人間の多様性というものを認識しなくては、人間そのものを理解することはできない。人間の本質が、直截に性のうちにこそこめられているということを知ったうえで、子どもたちに性について語るべきである》(『石原愼太郎の思想と行為3 教育の本質』(以下、断りがなければここからの引用)pp.148-149)という具合に、石原の議論の前提として存在しているのは、性というものの超越性です。

そのため、例えば第5項(第1章)「性的魅力は常識を超えたところに成立する」については、《性的魅力とは、人間がもっている官能への性衝動を触発し、それを刺激するポテンシャルをもった魅力であって、けっして社会的に容認された価値でもなければ規範でもない》(p.155)とし、また第43項(第3章)で「性は道徳の規範となりえない」においては、性に関する価値観などは個々人の主観によるものでしかないために、《安易に性に関する道徳を云々すべきではなく、そうした安易な言動が、われわれの存在、生活のすべてにかかわりあっている性というものを、不自然にゆがめるものであるということを知るべきである》(p.206)と書かれているとおり、性は社会によって規定されるような倫理や道徳とは別個のものであって、決してそれに対して優劣をつけたり、あるいは統一的な規範を設定したり、ということは許されない、ということになります。第60項(第3章)「セックスは各人各様である」でも、《性の本質からして、性がきわめて個人的なものでしかないということは、たびたび述べてきた》(p.327)とも述べられております。

また石原は、子供が性に目覚めたり、あるいは性的に成長したこと(精通や初潮など)が見られたらそれをとがめず、祝福すべきだとも積極的に説いております(第66項「性に罪悪感をもたせてはならない」、第68項「大脳の発達が初潮や精通をもたらすことを教えよ」、第69項「母親は息子のパンツが(筆者注:精通によって)よごれることを嫌悪するな」、第76項「初潮を迎えた娘に、父親は祝福のことばをかけよ」すべて第4章)。これもまた、石原にとって性というものがあらゆるものを超越した人間の本質に根ざしているものであり、神秘的なものであるという認識から来ているのでしょう。

同書で石原が主張しているのは、各章のタイトルにもあるとおり、「性の美しさ」(第1章)「性の恐ろしさ」(第2章)「性の尊さ」(第3章)ということです。そして、性とはそのような本質を持っているということに対して無知なまま、性について語ることは空虚であると述べているわけです。

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いずれにしても、性が官能そのものであり、ある場合に、それが人間の理性をもくつがえし、超える力を持ったものであるということを知ることで、つまりその恐ろしさを知ることで、われわれは、ある場合には狂暴でもある性の衝動という動物を、からだのうちに飼い慣らすことができるはずなのだ。

そして性は美しく、その意味で恐ろしいがゆえに、きわめて人間的であり、人間のもっとも人間的属性としての尊厳をもつのである。(p.268)
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さて、前回見た『スパルタ教育』及び、ここまで見た『真実の性教育』に共通する石原の思想として、人間の「本質」を重視しているというものがあります。石原の「本質」への希求は、ひとりこのような教育論にのみ見られるものではありません。それどころか、石原の出世作である「太陽の季節」によって文壇に大論争を巻き起こしたときには、石原が上の世代に対抗する概念として、自分たちの世代は上の世代の秩序や、戦争途中で引き上げてきた無責任な戦中派の論理に絡め取られていないが故に、人間の「本質」を語ることができるのだということを述べています。『石原愼太郎の思想と行為3 教育の本質』には収録されてないのですが、『中央公論』1956年9月号に掲載された「僕にも言わせてもらいたい――価値紊乱者の光栄」という論考には、次のように書かれています。

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生れる前から存在していた文明秩序に、未だ我々は飼い慣らされていない。社会の文明があくまで、人間の実在をより完全化するための手段と補助具に過ぎぬ限り、人間はいかなる文明秩序の内においても、あくまで本来の目的である自己の人間としての実在を求めなければならぬ。若々しい肉体と生理を持つ我々の世代が、それぞれの人間的実在を個々の生活の内で渇仰し追求し、言いかえれば、人間の欲求を抑圧する、文明生活の虚構に反発するのは当り前である。たしかに我々は手段である社会文明と、目的である人間の実在、その両者の転倒の陰で、毎日の生活を送っている。これは明らかに誤りであり、不健康である。(石原慎太郎「僕にも言わせてもらいたい――価値紊乱者の光栄」(『中央公論』1956年9月号、pp.316-323、中央公論社、1956年9月)p.316、引用に際し正漢字になっているところ通用漢字に改めた)
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このような「本質」への希求というのは、文学者らしい、と言えばそうかもしれません。しかし、石原の(そして他にも「本質」を主張したがる人たちの)「本質」というものは、その実は優れて、論者の道徳観、世界観に立脚しているものであること、そして、客観的な根拠に乏しい故に、暴走の危険性を孕んでいることです。

例を示してみましょう。『石原愼太郎の思想と行為3 教育の本質』には、戸塚ヨットスクール及びその代表である戸塚宏への支持を表明している論考がいくつか収録され、また戸塚と石原の対談も収録されています。その中で、石原が『諸君!』1986年2月号に寄稿した「いじめと「脳幹」」を見てみましょう。この論考の中では、戸塚及び戸塚の理論を支える「脳幹論」に基づいて現代(当時)の若年層――なお、石原の現代の若年層に対する視点は、この論考が書かれた頃とはほとんど変わっていない――について、文明化によって脳幹が弱まっているとして、次のように書いています。

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物事に耐える能力の欠如は、いい換えれば、幼、少年にしては、教育を受ける能力の低下、欠如ともいえるだろう。教育は本質的に望まれて行うものではあり得ない。動物はもともと何であろうと自らの種族を保護するために、その子弟を教育してきた。餌のとり方、敵からの逃れ方等々。教育の原型はそれ以外の何物でもなく、獅子は三日にして生まれた子供を千仞の谷に蹴落とすという譬えは教育の本質を射ているし、現代における人間の手による子弟の教育でも本質的には同じことでしかない。(pp.395-396)
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ここにも「本質(的)」という言葉が繰り返し使われていることがわかると思います。しかし、「本質」をたとい絶対善の位置に億としても、戸塚やそのスクールが働いてきた暴力(死に至る)、あるいは戸塚らが振りかざすニセ科学が正当化されるわけでもないし、「本質」が許されるなら警察はいらないでしょう。というのはさておくとしても、ここでいきなり動物の喩えを持ち出しているのは問題だと思います。というのも、人間には人間の社会というものがあり、経済というものがあり、法律というものがあるからです。

このような石原における本質主義の暴走は、政治家を辞し、東京都知事として「心の東京革命」をはじめとする青少年問題の全線に立つ過程でますます暴走を極めるようになります(なお、「心の東京革命」は、かつて2011年の「COMIC1☆5」で刊行し、現在はKindleで販売している同人誌『改めて問う、青少年政策の意義とは――平成日本若者論史2』をご参照ください)。2011年に刊行された『新・堕落論――我欲と天罰』(新潮新書、2011年。なお、同書はタイトルだけを一見すると東日本大震災における「天罰」発言批判に応える書物のように見えますが、実際は震災前に発表された文章(おそらく口述筆記)2本を大幅に加筆して収録しただけの代物です)における、2005年にその最初の論考が「衝撃の現代若者論」として発表された「仮想と虚妄」の中の一節を採り上げてみます。

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人間全体がかつてなく肥大化して、その膨満の中で自らの極を失って画一化が徹底している。(略)私も彼等の世代には共感もしないし、彼等と比べて自らを不安とも思わない。ただただ人間全体の将来には不気味なものを感じさせられるだけです。(石原慎太郎『新・堕落論――我欲と天罰』(新潮新書、2011年7月)pp.163-164)

恋愛にせよ憎しみにせよ、その源に在るべき根源的な情念のエネルギーが希薄化してしまい、真の行為を為さしめることがなくなりました。(石原慎太郎『新・堕落論――我欲と天罰』p.180)
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このような石原の認識は、石原における「本質」への飽くなき希求と表裏一体のものです。そもそも石原は現代の若年層を考える際に、《言語による表現や説明ではなしに、生に近く直截に視覚に訴えての現実を把握すれば、最早憤慨とか慨嘆とかいったことではすまずに、彼等の価値の質感そのものをそこまで変質せしめたものをどう修正し、価値を「真の価値」として取り戻すかを本気で考えざるを得ません》(石原慎太郎『新・堕落論――我欲と天罰』p.162)などと、最初から科学性、客観性を無視した、「衝撃を受けた」ことに中心を置くような情報を得ているという時点で石原の言説は信用に値しないと断じて構わないのですが、それは措くとしても、石原の青少年言説、教育言説の暴走は、石原において、現代の若年層において人間の「本質」が毀損されている、という意識の下で起こっているものなのです。

そのためには、石原における「本質主義」というものを理解した上で、それでも石原の言説には客観性がないということを主張し続けなければならない。『石原愼太郎の思想と行為3 教育の本質』は、そういう「目的」で読まれるべきものなのだと思います。


奥付
後藤和智の雑記帳 EVNET JACK 気仙沼21/杜の奇跡20/超文学フリマ in ニコニコ超会議2出張版
著者:後藤 和智(Goto, Kazutomo)
発行者:後藤和智事務所OffLine
発行日:(前編)2013年3月17日 (後編)2013年4月28日
配信日:2013年5月20日
連絡先:kgoto1984@nifty.com
チャンネルURL:http://ch.nicovideo.jp/channel/kazugoto
著者ウェブサイト:http://www45.atwiki.jp/kazugoto/

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