その27(最終回) 武術と武道と格闘技に関する私的思い。(後半)
武道とは正々堂々、自分の持てる力を十分に発揮することを練習するのにはとても良い。試合や稽古を通じて、相手のことを思いやり尊重することも学べる。武道とは武道の心を知れば、そういった素晴らしい体育であり、人間形成となる。武道と格闘技はとても似ている。柔道や空手や剣道などは武道に属する。レスリングやボクシングやフェンシングは格闘技だ。
日本の格闘技が武道で、海外からやって来たものは格闘技と分類できるかもしれない。そう考えると日本だけに武道精神があるという訳ではないことに気が付く。スポーツマンシップとはまさに、正々堂々ルールを守りお互いに全力で向き合うものなのだ。格闘技も武道も正々堂々を学び培う、そして健全な肉体を育むためにあるような気がする。
プロの格闘技はその中で独自の存在だと思う。プロとはただ優秀な競技者であるだけでは足りないのだ。観客の心を掴み感動を与えられるからこそプロなのだ。格闘技だけではなく、あらゆるジャンルのプロとは、ただの優秀な競技者では足りない気がする。観客の想像を超える何かを、観客の想像を掻き立てる何かを持っていなければプロとしては足りない。観衆の想像も出来ないような日常の練習を繰り返してプロになってゆくのだ。
僕は武術と武道と格闘技が共存する場を作りたいと思っている。武術の巧みな身体操作や、身体に関する知識は現代の医学と共存し、上手く使い分けると素晴らしい健康を創り出す場が生まれると思うのだ。
腰痛や肩こりは古流の知恵で消える。そこに現代の西洋の知恵も加えれば良い。日本とは古くから新しい物を受け入れ、巧みに自分たちのものにすることが得意な文化を持つ。決して争わずに共存共栄するのが日本人の得意技なのだ。
道場でキツイ稽古をし、合間に病院に通う。そういう人はプロでもないのにけっこうな数がいる。武術は健康になり、そこから強くなる術を持っているのだ。武道は正々堂々、なおかつ逃げない強い心を育む。弱い心があるから力んだり、逃げたりするのだ。正々堂々と相手と向き合うのは実はとても強い心が必要なのだ。強い心を育み、素直に負けをも認める。負けを認めるのも実は強い心が必要なのだ。
負けを認めれば怪我をしないような仕組みを武術は持っている。負けているのに、まいったをしないで怪我をしてしまうのは決して強いとはいえない。武道という仕組みの中でそれをやるのは、ただ負けるのが怖い臆病者でしかない。負けを糧にし、より強い自分を作る。これが武道精神であるように僕は思ったりする。
格闘技も武道と同じように向き合うのが良い。武道と格闘技は基本的に同じだが、あえて2つに分けるのが良いだろう。日本のものではない格闘技を学ぶことは、日本とは違う外国の考え方や身体使いなどを学ぶことに役立つ。全て同じでなくても良いのだ。色んな人がいて良い。それを身体を動かしながら学び感じられる場も良い。
僕が教えているのは、武術と武道と格闘技が共存する総合柔術。そこにはグレイシー柔術もある。グレイシー柔術本来の闘い方、カーリー・グレイシーから教えてもらったスタイルはなかなかイカしているのだ。相手が自分よりもどんなに大きくても決して恐れてはいけない。恐れが自分の力を押さえ込んでしまう。相手と向き合う前に自分の力を押さえ込んだら負けてしまう。相手がどんなに大きくて強くても必ずチャンスはある。チャンスとは負けない限り必ずやって来る。だからそれを冷静に待つのがグレイシー柔術なのだ。
冷静に待つためにはコツがある。相手に絶対にやられないポジションを知り使いこなすこと。これがグレイシー柔術の基本だ。相手が何をやって来ても決して必要以上に恐れない。スパーリングはその気持ちを作り磨くためにやる。相手に勝とうという意識はスパーリングでは必要がないのだ。
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