小説『神神化身』第二部
二十七話
月末に迫る御斯葉衆舞奏披(みしばしゅうまいかなずのひらき)の為に、遠江國舞奏社(とおとうみのくにまいかなずやしろ)は特別な舞台を用意した。豪奢に飾り付けられた大きな山車の上に、一人用の舞台が備え付けられている舞車だ。
舞奏披用に車輪は固定出来る為、引き手がいなくても綺麗に自立するようになっている。黒地に金の車体は、舞奏社の御斯葉衆への期待が反映されているようなものだ。こうして舞奏披の前から、一般に向けて舞車が公開されていることからも分かる。
遠江國の舞奏の素晴らしさを、彼らは既に誇っている。脇に立てられた警備だって、雇うには金がかかるのに。
それにしても、豪奢な舞車だ。舞奏から距離を置いていた巡(めぐり)でさえ惹かれてしまう。そのくらい、この舞台は美しかった。
この舞車は合計三台が用意されている。自分と九条鵺雲(くじょうやくも)──そして、佐久夜(さくや)の分だ。
「ねえ、どうして舞台が車になってるの?」
隣に立っている麻下日和(ましもひより)が、巡にそう尋ねてきた。巡は彼女に対してにっこりと微笑み掛ける。
「遠江國の昔話だよ。知らない? 祇園舞車祭礼」
「知らない。どんな話?」
「とある男が、親に仲を引き裂かれた愛しい女を探している途中に遠江國見付を訪れるんだ。そこでは丁度、祇園会(ぎおんえ)の祭礼が行われててね、そのお祭りではこんな風な舞車の上で旅人に舞ってもらうのが習わしとなってたんだ。その年は舞い手がなかなか見つからなくてさ、男は神様の引き合わせだろうからって引き受けた」
愛する相手を追っている最中に、祭で悠長に舞ってるなよ、と巡は正直思ってしまう。それが本当に手に入れたいものであるのなら、どんなものよりも優先して必死に手を伸ばさなくちゃならない。そうしなければ、愛する人はどんどん自分から離れていってしまうのに。
けれど、男は祭で舞うことを選ぶのだ。神の引き合わせを感じたと、それだけの理由で。
「祇園会で用意される舞車は東坂と西坂の二輌。男は東坂の舞車で舞うことになった。西坂の舞車は女の舞い手でさ。どちらも素晴らしい舞を披露して、観客達は万雷の拍手と共にアンコールを求めた。そうして男と女は偶然にも同じ演目──浪磯の遊女虎御前(とらごぜん)が曽我十郎祐成(そがのじゅうろうすげなり)に名残を惜しむ場面を舞うと言ってさ、同じ演目を舞おうと言うなんて面白い、っていうことで東西の舞車を引き合わせて相舞をやらせることになった」
そこで、巡はパッと華やかな笑顔を見せた。それに合わせて、耳に付けたピアスが揺れる。
「そうしたらびっくり! 西坂の舞車に乗っていた舞の名手は、男が恋い焦がれていた愛しい女の子だったわけ! 男は感動して声を掛けようとしたけど、女の子の方は舞の最中だからって舞い続けてさ、そうして二人で素晴らしい舞を披露した後に、二人は再会を喜んだってわけ! ちょーロマンチックな話じゃない?」
「ふうん、確かにいい話だと思うけど」
日和はなんだかつまらなそうな顔をして、舞車を見上げた。
「この相舞(あいまい)が遠江國で舞奏が隆盛するきっかけになったとも言われてるんだよね。だから、本来遠江國の舞奏って二人でやるもんだったの。最近はもう三人がスタンダードになっちゃったから、そういう伝統は無くなっちゃったんだけどねー!」
「そうなんだ。でも、御斯葉も三人だもんね」
「そうそう、今は三人」
言いながら、巡は舞車を見上げる。
「ただ、この舞台は三人でありながら、たった一人きりの舞台だからね」
舞車が引き寄せられた時だけ、分かたれた舞台は一つになるのだ。伝承では、引き合わされた舞車は二つだった。自分達であれば、三つの舞車が寄り集まることになるのだろうか。三つ並んだ舞車を想像すると、やはり巡にはあまりしっくりこない。この伝承を、知っているからだろうか。
「巡、ここで舞うんだね」
「そーだよ。ちょっと見直しちゃう?」
「見直すは見直すよ。というか私、ちゃんと巡が舞ってるところ観たもん。感動したって言ったでしょー?」
巡は笑顔で頷いた。栄柴家(さかしばけ)の覡(げき)として復帰してから、どれくらい人前で舞奏(まいかなず)を披露しただろうか。まるで、空白の時間を埋めるかのようだ。ちゃんと観客がいる状態で舞うことは、たった一人で稽古している時とはやはり感覚が違って、やる度に自身の舞奏が研ぎ澄まされていくような気がする。
自分と関わりのあった女の子達は、律儀に巡の舞奏を観に来てくれた。そして、誰もが絶賛してくれた。今まで巡に抱いていた印象とはまるで違うと褒めそやし、明らかに見る目が変わった。
そして、誰一人残らなかった。連絡が取れなくなったわけでも、避けられるようになったわけでもない。
ただ、巡と彼女達の間に明確な一線が引かれたのが分かった。尊敬すべき、素晴らしい栄柴巡。自分達が連れ回してはいけない存在。遠江國にとって大切な、栄柴の覡。──夜叉憑(やしゃつ)き。
「俺、やっぱ変わっちゃった?」
巡はからりとした笑顔を見せながら尋ねる。
「格好良くなったよ。前とは考えられないくらい。栄柴巡ってこんなにすごいんだって、分かるくらい」
「うん。そうだよね。みんなそう言ってくれたし、日和ちゃんもそうだったよね。うっわー、照れちゃうよ。覡になっても俺は俺なんだけどさー!」
日和は何も言わなかった。ただ、そんな巡を見て笑っている。笑ってくれている。数えた限り、彼女が最後の一人だった。
「でもさ、これが俺のやるべきことだから。ま、それなりに頑張ろうかなって。気が向いたら舞奏披には来てよ。もう今週末だもんね」
「それは行くよ」
日和が半ば食い気味に言う。それは、と反射的に添えられた言葉が悲しかった。だが、巡だってこの悲しみをただの反射で覚えている。本当は、もうこんなことをしている場合じゃないのだ。巡の心は、そこに何かを抱けない。
「それじゃ、俺これから稽古あるから」
「あ、うん。時間取ってくれてありがと」
「ううん。日和ちゃんが舞奏社まで遊びに来てくれて、こっちこそ嬉しかった!」
「うん。あのさ、私のピアス……」
「俺のと同じブランドのだよね。気づいてたよ」
それをこうして話題に出されるまで指摘しなかったのは怠慢だった。あるいは、誠意だ。日和が一つ大きく頷く。
「それだけ。ありがとう」
「うん。それじゃあ、またね」
「──ねえ、」
立ち去ろうとした巡が、その一言で振り返る。日和の目が揺れていた。
「夜叉って何?」
最後の最後にその質問を投げかけてくるのだから、つくづくセンスがいい女の子だと思う。巡は、自分の腹に化身のある方の手を当てた。
「夜叉っていうのはね、俺に素晴らしい舞奏を奉じさせてくれるもの。俺のことを奮い立たせる、麗しき加護をくれるもの。けれどこいつは人の精気を吸ってしまうもんでもあるからさ、俺は今にそいつに食い尽くされる。夜叉ってさ、すごく大食らいなんだ。一息に呑み込まれるんだよ、俺なんか」
「それが、巡のことを変えたの?」
「変えたんじゃない。とっくに変えられてたんだ」
今よりもっと幼い頃、自分が分水嶺に立った日から、夜叉は巡を食い尽くす日のことを待っていた。夜叉は巡を眠らせない。大嫌いな夜に目を向けさせる。貪欲で、容赦が無い。巡の身をその腹の内に収めるまで終わらない。
それでも、その手は温かかった。温かかったのだ。
舞奏披の前日になっても、佐久夜の舞奏は完成したとは言い難かった。稽古を始めたばかりの頃に比べれば、素人らしさなどは抜けてきた。人前で披露しても遜色が無いくらいにはなったように思う。ただ、本当にこれでいいのだろうか? という思いがどうしても抜けないのだ。
何より、夜の舞奏社──あのブランコで巡と交わした言葉が忘れられなかった。巡はもう、全てを察してしまっていた。佐久夜の欺瞞も、嘘も、傲慢さも、全て。
巡はどれだけ傷ついただろう。これだけ一緒にいたのだ。その痛みは身が裂かれるほど理解出来た。それに寄り添う資格が無いと知りながらも、強く。
鵺雲と共犯者になった時、佐久夜は彼に「巡を傷つけないでほしい」と、今となっては失笑しか出来ないようなことを言った。巡を真の意味で傷つけられるのが自分だけだと、佐久夜は知らないままでいたのだ。
あれから巡は、本当に佐久夜の前に姿を見せなくなった。同じ舞奏社に所属していて、隣り合った家に住んでいるのだ。言葉を交わさなくなろうと、姿を見かけるくらいはあり得るだろうと思っていた。
だが、それすらなかった。巡の姿が見られるのは、彼が求められて舞奏を披露している時だけだ。恐らくは巡が極めて注意深く佐久夜を避けているのだろう。巡が子犬のように佐久夜について回っていたことを考えれば、それの逆だって簡単なはずだった。
自分達はもう親友には戻れないかもしれない、と佐久夜は思う。こんな状況にあっても、今なお巡が佐久夜の承認を求めているからこそ。一体どこから間違えたのだろうか。自分の欲深さが引き起こした事態だと理解はしているのに、分水嶺がもう分からない。
それでも、栄柴巡の舞奏は美しく、焦がれるものだった。
彼が遠江國の舞車の上で舞うところを見てみたかった。
それさえ見られるのなら、佐久夜はもう目を潰されても構わないと思った。こうなる前に──巡が舞奏を辞めた日に潰すべきだったこの目を。
「佐久夜くん、……佐久夜くん?」
鵺雲の声がして、我に返る。ずっと緊張状態にあったお陰で身体中が痛い。音の鳴らないようにしている練習用の觸鈴(ふれすず)が、手から滑り落ちそうになった。
「その辺にしておかないと、身体を痛めてしまうよ」
「俺は……」
「何度も同じ曲の同じ振りを繰り返していたね。僕は見ていて飽きないからいいんだけど、本番前に何かあったら困るのは君でしょう?」
どうやら、鵺雲に舞奏を見せている内に意識が散漫になっていたらしい。折角の見て貰える機会を、こんなぼんやりとした気持ちで消化してしまった──もしかすると最後の機会だったかもしれないというのに。舞奏披で失態を犯せば、佐久夜は覡主(げきしゅ)になることはおろか、御斯葉衆の覡ですらいられなくなるかもしれないからだ。
だが、鵺雲の口から出た言葉は意外なものだった。
「驚いたよ。とても腕を上げているね」
「……──え、」
「同じ人間の舞奏だとは思えないよ。とても豊かだし、魅力的だ。君に必要なのは我だと思っていたけれど、それがすごく良く出ている。勿論、まだ出し切れていないところがあるけれど、本番では化けるかもしれない」
「本当ですか」
「舞奏のことに関して、僕は嘘を言わないよ」
鵺雲がたおやかな笑顔で言う。そして、そのまま続けた。
「ねえ、佐久夜くん。巡くんと何かあった?」
觸鈴を握った手が微かに震えた。
「……何も」
「ふふ、そうかもしれないね。大枠で語れば、何も起こってはいないのかもしれない。それはもう君達の間にあったものだから。そして、君の中にも」
そう言われて、腹の底が冷えるようだった。思い当たることがないとは返せなかった。それと同時に、そうか、と思う。これが舞奏だ。自らの中にある、最も厭わしいものすら糧にするものだ。
「俺の舞奏は変わりましたか」
「そうだね。佐久夜くんの舞奏だけでなく、巡くんの舞奏も素晴らしいものに仕上がってきていると思うよ」
鵺雲は心底嬉しそうに言った。
「彼の舞奏を観た者はみんな、語るべき言葉を失って仰ぎ見るしかない。あれが栄柴の夜叉憑きだというのなら、間違いなく巡くんは天才だ。他の代とは比べものにならない」
「……巡は天才です。誇るべき、遠江の宝だ」
「その一助になれていることを、僕も佐久夜くんも誇らなければね」
それを言う鵺雲は楽しそうだ。ゲームセンターに行った時よりも、海を見せた時よりも、ずっと幸せそうだ。それを見ると、やはりこの人の中にあるものはこれなのか、と思う。すると、まるで心中を見透かしたかのように鵺雲が続けた。
「君は怖い子だね」
鵺雲がゆっくりと佐久夜に近づいてくる。思わず、息を吞んだ。
「本当は僕のことも呑み込んでしまいたいのかな」
「……いえ、そんなことは」
「君にはその度量があると思うよ。その腹で九条鵺雲すら吞もうと思うだけの貪欲さがあるのだから」
鵺雲の手が一瞬だけ、佐久夜の化身のある位置に触れて離れていった。そして、また距離が開く。
「舞奏披の舞台はご覧になられましたか」
御斯葉衆に大いに期待をかける遠江國舞奏社は、初の舞奏披に向けて特別な舞台を──舞車を三台用意したのだ。舞車は遙か昔の御斯葉衆の舞奏披にも作られたものであり、栄柴家の凋落(ちょうらく)と共に作られなくなったものであった。久方ぶりに舞車を用意しようと思わせるほど、今代の御斯葉衆にかけられた期待は重い。
だが、当然だろうとも思う。九条鵺雲と栄柴巡を擁する御斯葉衆にこそ、あの壮麗な舞台は相応しい。ここで作られなければ意味の無い代物だ。
「それは勿論。採寸を手伝ったし、あの広さの舞台で舞奏をするというのはそれなりの調整が必要だから。聞いたことがあるし、それを使用する舞奏についても知識はあったけれど、実際に舞うのは初めてだよ」
鵺雲は楽しそうに言う。相模國(さがみのくに)の舞奏は一般的な舞殿で舞うものであるし、舞奏競(まいかなずくらべ)本戦でもその形式であるはずだから、本当に機会が無かったのだろう。まるで新しい玩具を試させてもらう子供のようだ。
「遠江國の舞車についてもご存じですか」
「勿論。僕は浪磯の九条家の嫡男だからね。資料が書庫に残っていた気がするよ。引き裂かれた男女が舞によって再び縁を得るなんて素敵なお話だよね」
確か、巡も同じような感想を抱いていた。巡はこの二人の再会がどれだけ奇跡的で魅力的で、憧れるべき奇跡かということを繰り返し佐久夜に語って聞かせた。巡が執拗に『運命の相手』という言葉を使うようになったのも同じ頃だ。
「本物の運命の相手なら、舞車の上できっと引かれ合うんだよ。そうして二人で最上の舞を披露するんだ。ね、これってまるで舞奏みたいじゃない? 引かれ合う最高の相手と舞をするんだもん! 俺もこういう運命的な相手と出会いたいの!」
「……そう言いながらお前はそこらの女性に声をかけ通しているじゃないか。舞奏の舞い手である覡は男性だろう。それに、お前はもう舞奏からは手を引いたはずだ」
「もー! これは比喩! そういう出会いがいいよねってこと!」
巡は唇を尖らせて、連絡先を交換したばかりの女性にメッセージを送っていた。佐久夜は溜息を吐きながらも、巡の好きなようにさせていた。止めたところで、巡が覡に戻ることはない。舞車の上で舞奏を奉じることはない。雑談の延長に期待を置くことはしない方がいい、と自分に必死に言い聞かせる。
「でもね、舞車は二台なんだよ」
その時、不意に巡がそうも言っていたことを思いだした。
「舞奏衆は三人が基本みたいになってるけど、遠江國の舞車は二台なの。東と西で一つずつ。分かたれた半身が出会う為のものだから」
巡はどんなつもりでそんなことを言ったのだろうか。
遠江國の舞車は今や三台ある。だが、本当は二台であるべきなのだ。九条鵺雲と栄柴巡に一台ずつ。そこに自分の分まで用意されていることが、未だに何かの間違いのように思える。そこにいるべきは自分ではない。自分は、今目の前に現れようとしている理想の御斯葉衆を仰ぎ見ているべきだったのだ。けれど、自分が御斯葉衆に入らなければ巡が舞奏を再開することはなかった。自分が御斯葉衆に入ったのは化身が出たからだ。一体どこからどこまでが引き合わせだったのだろう。
半身のように寄り添ってはきたはずだが、栄柴巡の半身が自分であるはずがないとも思う。自分はそうである振りをし続けていただけだろう。
「佐久夜くんもあの話が好き?」
鵺雲に尋ねられ、佐久夜は黙って頷いた。
「そうなんだ。ふふ、僕もなかなか好きだよ。最後の相舞が遠江國の舞奏に繋がっているんだってね。素晴らしい。だとしたら、彼らが引き合わされたのは神ではなくカミの思し召しだったのかもしれないね」
「……そうかもしれませんね」
佐久夜が答えると、鵺雲は不意に部屋の隅に置いてある、もう一つの練習用の觸鈴を手に取った。
「舞われるのですか」
「うん。明日の仕上げはもう出来ているから、これは稽古ではないけれど」
ならば何なのですか、と尋ねるより早く、鵺雲が佐久夜の向かいに立った。そして微笑む。
「君が東、僕が西だ」
それを言われて、鵺雲が何をしようとしているか理解した。
「ここまで頑張ってきたご褒美だ。相舞をしよう」
了承する間すら与えられず、鵺雲が舞い始めた。何を舞うのかも知らされないまま始まった相舞だ。そんなことがあっていいのか、と思うが、伝承の中の二人も示し合わせて曲を選んだわけではなかったのだ、と思い直す。佐久夜も觸鈴を構え、彼の動きを頼りに舞い始めた。
鵺雲の動きは、明らかにここにはない舞車を意識したものだった。舞車の舞台の大きさから全く外れることなく、されど最大限にそれを生かした舞を行っている。佐久夜はそれほど完璧に寸法を脳内に刻めてはいないが、どうにか想像上の舞車の上で舞う。
これほど近くにいる、同じ舞台に立っているような錯覚をしているのに、舞車に阻まれて完全に一つの舞にはなれない。東坂の男は舞いながらどんな気持ちだっただろうか。西坂の女に制され舞いながらも、心の内は切々としていたのではないか。
舞いが終われば一緒になれる、という期待と、舞いが終わった瞬間に女は再び消えてしまうのではないかという恐れ。その二つの間で、男は狂い舞っていたのではないか。それほどの熱情を秘めていたからこそ、その舞いは至上と称されるに相応しいものになったのではないか。
絶対に重なることのない舞奏を鵺雲の隣で奉じながら、佐久夜は思う。いつか舞車が離れてしまうのであれば、男が求めるべきは一つの舞台だ。隔てる舞車ではない。鵺雲は息すら乱さずに舞っているのに、佐久夜はそれに付いていこうと思うだけで意識が飛びそうだ。
どれだけそうしていただろうか。不意に鵺雲が舞いを止めた。その瞬間、觸鈴を持っている方の手を佐久夜が掴む。言葉が口を衝いて出た。
「キーホルダーは持っていかなくて構いません」
鵺雲の瞳に、微かに驚きの色が滲む。
「帰らせない。俺は貴方を遠江國のものにする。御斯葉衆には、貴方が必要だ。栄柴巡と並び立てるのは──舞車のもう一方に立てるのは、貴方だけだ」
もうどこへも帰らせはしない。貪欲さを煽るのなら、呑み込んでみせるまでだ。そこで腹を食い破られようと、後にこの二人が残ればそれでいい。
振り払われると思ったのに、鵺雲は何故か嬉しそうに目を細めた。だが、彼は肯定も否定もしない。喉の奥で、彼が言っている。
出来るものなら、と。
天気に恵まれず小雨すら降ってくるような状況だというのに、舞奏披は盛況だった。老若男女を問わず、多くの観囃子(みはやし)達が御斯葉衆の為に作られた特設の舞台に足を運んだ。
三台の舞車は丁度三角形を描くように配置されており、その三角形の中に観囃子席があるという一風変わった舞台になっていた。観囃子は身体の向きを変え、覡主の座を争う三人の覡を自由に観ることが出来る。尤も、御斯葉衆が覡主の座を争っていることは、観囃子には知らされていなかった。
黒色の舞奏装束を着込んで舞車の上に立つ佐久夜は、自分を見つめる観囃子ではなく、斜め前にそれぞれ配置された舞車を──九条鵺雲と栄柴巡を観ていた。
彼らは至極落ち着いているように見えた。身が竦んでもおかしくないような高さにありながら、通常の舞台と変わらない顔をしている。
巡の姿を見るのはなんだか久しぶりに感じられた。数日口を利かなかっただけなのに、と思ったが、すぐにそうじゃないことに気がつく。
あそこに立っている栄柴巡は、十数年前に生き別れた栄柴巡なのだ。
佐久夜が不用意な一言で葬り去ってしまった、栄柴家の夜叉憑きがそこに居た。これは再会の儀であるのだ。佐久夜がずっと探し求め、舞車で再びまみえたもの。
現在の背丈に合わせて仕立て直された舞奏装束は、震えるほど巡によく似合っていた。この装束が、本質的には彼のものでしかないのだと理解せしめるようだった。その耳には、何かの抵抗なのか、それとも楔の一種なのか、普段通りの派手なピアスが着けられていた。
巡は佐久夜の方に視線を向けなかった。巡の目線は、ただ一人──九条鵺雲に向けられていた。巡の為に誂えられた遠江國の舞奏装束を着て、遠江國の觸鈴を持っている男に。
彼はここにいるべき人間じゃない。そうであるはずなのに。こんな立ち姿を見せられては、遠江國に彼がいなくなる日が信じられなくなってしまう。遠江國の舞奏装束には雷の意匠があしらわれているのだが、彼はまさに雷を纏う鵺(ぬえ)そのものだった。人々が雷を解釈する為に、姿を与えた化生の鵺。
当の鵺雲は巡でも佐久夜でもなく、灰色の空に目を向けていた。そして、優雅に笑ってみせる。
その瞬間、遠雷が響いた。
天気がこれからもっと悪化することを示すかのような雷だった。社人(やしろびと)が舞奏披の開始を──少しばかり早く、宣言する。なるべく早く終わらせて、観囃子を帰さなければならないと考えたのだろう。この状況にあっても舞奏を優先し、舞奏披を完遂しようとする貪欲さに、佐久夜は感謝すべきなのかもしれなかった。
観囃子の視線を感じる。やがて、音楽が流れ始めた。
佐久夜の手にある觸鈴は、練習用のものではない。振れば音の鳴る本物の觸鈴だ。佐久夜は稽古をしていた通り、最初の一音を鳴らす。
低く深く鳴るその音は、雷鳴に似ていた。
御斯葉衆の舞奏披が──覡主を決める為の戦いが始まる。
著:斜線堂有紀
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