小説『神神化身』第二部
第四十五話
「藍の反照、そして一縁」
七生千慧(ななみちさと)の大切なものは、友達と甘いもの。
七生千慧(ななみちさと)の大切なものは、友達と甘いもの。
一番大切なものを差し出したから、一番叶えたい願いを叶えてくれた。七生から失われたものは、友達と甘いもの。誰とも触れ合えないのも、甘いものが食べられないのも苦しいから、七生は絶対に『返しに』行かなければいけないはずだった。
その論理には納得していたけれど、わかってないなぁとも思う。確かにそれらは大切だけど、そんなものの為に、七生は大祝宴(だいしゅくえん)を目指したりはしない。七生はたった一つの目的の為に、遙かなる舞台を目指した。
けれど、そうして旅をしている最中に、七生は他に大切なものを増やしてしまった。体温が無くても触れ合えて、味覚が無くても味わえると教えてもらえて、居場所が出来た。
それは七生の旅にとっては重荷に他ならないのだけれど、それでも七生はあの舞台を、水鵠衆(みずまとしゅう)と見た世界を宝物にしてしまった。
*
阿城木(あしろぎ)が見る限り、七生は最近よく眠っている。
それも、別にうなされているとか、体調が悪くてというわけではない。普通に眠っている。恐らく、急激に血糖値を上げる食生活をしているので、すぐに眠くなってしまうのだろう。
今日も用事があって七生の住まう屋根裏部屋に行くと、七生は机の前で座布団を枕にし、毛布に包まって眠っていた。きっと何かをしようとして、睡魔に負けてしまったのだ。阿城木は最近いよいよ七生が動物のように見えている。なんだこいつは、と心の中で思ってしまう。
だが、悪夢を見ていなさそうなことには安心した。七生の寝顔が苦しそうだったり悲しそうだったりすると、阿城木はどうしていいかわからなくなる。現実ではまだどうにかしてやれるけれど、夢の中ではどうしてやることも出来ないからだ。
間抜けな寝言の一つでも言ってくれたら、なお安心出来るだろう。だが、阿城木の見つめている七生は、何も言葉を発さなかった。
仕方なく出直そうとすると、ふと机の上に載っているノートに目が向いた。昔、七生がここに来たばかりの時に、阿城木が覗いてしまったスイーツ王国建国日記だ。
あれから長い時間が過ぎて、阿城木は色々なものを七生に作った。最初は仕方ないと思って作ってやっていたものだったが、それは次第に阿城木の生活の一部となった。認めたくないけれど、楽しみの一部でもある。
前は思わずツッコミを入れてしまったノートではあるが、今はそこまでアホらしく思っているものでもない。むしろ、この家にあるものの中でも気になるものの上位に食い込むものだ。……読んでいいだろうか? 阿城木の中で、天使と悪魔がしばし戦う。
人のノートを盗み読むのはいけないことだ。いくら七生が迂闊だからといって、そんなことはしてはいけない。しかも、阿城木がこうして犯行を重ねるのは二度目なのである。でも見たい。この間作ってやったフォンダンショコラの評価が知りたい。あれは阿城木の想定よりも柔らか過ぎる出来になっていたのだが、それでもスイーツ破壊神である七生は満足だったのか。
その時、ふと阿城木はとあることを思い出した。先日、みたらし団子を買っていった時の話だ。
団子はもちもちとした食感が楽しめる為、七生が特にお気に入りのおやつである。阿城木と去記(いぬき)と七生、ついでに母である魚媛(うおめ)の分を考え、念の為に四本買っていったのだ。これがよくなかった。
「我これかなり好きかも」
七生に次ぐ甘い物好きである去記が、爛々と目を輝かせながらそう言ったのだ。去記は基本的に何でも美味しく食べるのだが、みたらし団子は特にお気に召したらしい。そんな去記の様子が珍しく、阿城木は禁断の一言を口にしてしまった。
「じゃあ、もう一本お前が食えば? それ予備だし」
魚媛は丁度外出していた為、彼女の分の団子を去記にやろうと提案してしまったのだ。
「本当にぃ? いいのぉ?」
「いいよ。固くなる前に食っちまった方がいいと思うし」
それに、修祓(しゅばつ)の儀(ぎ)や舞奏競(まいかなずくらべ)前は去記にかなり迷惑を掛けてしまった。どこかでその埋め合わせをしてやりたいと考えていたのである。廃神社の片付けやフェイクファーの手入れなどを考えていたが、まず目の前の団子をやろうと思ったのだ。
だが、それに明らかにショックを受けていたのが七生であった。
七生は阿城木と去記のやりとりを呆然とした顔で見ていた。さながら、魂が抜け落ちてしまったかのような顔だ。暗く澱んだその目を見た瞬間、不本意ながら七生の考えていることがわかってしまった。
自分ももう一本食べたい。お団子が好き。でも去記があんなに喜んでいるんだから、ずるいとは言いたくない。でも食べたい。悔しい。どうしたらいいのかわからない──そうした思いが、瞬時に阿城木に伝わってきた。その瞬間、阿城木は全てを天秤に掛け、最良の選択を口にした。
「……お前ももう一本食うか? 俺、今腹一杯だか」
「いいの!? やった! 阿城木ありがとう!」
最後まで言い終わる前に、食い気味に七生が言った。そして、目にも止まらぬ速さで阿城木の団子を奪い去っていく。まるで前言撤回される前に胃の中に収めなければいけないと思っているかのようだった。
もちもちと団子を食みながら、七生は笑顔で言った。
「ありがとう阿城木、ありがとう! この恩は絶対返すからね。僕に出来ることなら何でもするから! 何でも!」
「…………本当かー?」
「うん! お団子の恩は忘れないよ! でも、次からはお団子もっと沢山買ってきてほしいな!」
「お前、これが俺の財布から出た金で賄われてるってこと知ってるよな?」
七生はそれに答えず、ただもちもちとするだけだった。
……あの時、七生は何でもと言った。団子の恩は忘れない、とも。だったら、このノートを見せてもらうくらい良いんじゃないのか? 相手は寝てるし、そもそもやってもらうことでもないけれど、恩を返してもらえるなら今だ。
頭の中で正当化が完了すると、阿城木はゆっくりと机に忍び寄って行った。そして、七生のノートを手に取る。大丈夫。これはみたらし団子を介した正当な取引である。自分は何もやましいことをしていない。
ページを捲ると、以前と変わらないスイーツレビューに迎えられた。だが、内容はかなり充実している。阿城木の作ったものや、買ってきたものが隙間無く網羅され、それぞれ七生の独特の表現で褒めそやされていた。
問題のフォンダンショコラも概ね美味しいと書かれており、阿城木は少し安心する。その下に添えられた『でも、正直ちょっとやわらかすぎかも。ドロドロしい~』という素直なコメントには、こいつ何様のつもりなんだと思わなくもなかったのだが。
この間七生に食べさせたみたらし団子や、例の地元で有名な店で購入した水色のケーキもちゃんと記録されていることに、阿城木は何だか泣きそうな気持ちになった。どうしてこんな気持ちになるのかは、上手く説明がつかなかった。
よかった。七生の日々はここにあるのだ。
七生に関しては知らないことが多い。相模國(さがみのくに)の浪磯(ろういそ)に縁深いことは分かっているが、六原三言(むつはらみこと)とどう関わっていたのかが分からない。相模國の舞奏(まいかなず)を舞ってきたはずなのに、調べたところ七生千慧が相模國舞奏社(まいかなずのやしろ)に所属していた履歴は無かった。覡としてもノノウとしてもないのだ。これはどういうことだろうか?
九条鵺雲(くじょうやくも)の言っていたことも気になる。七生は一体、何を為そうとしているのだろう。
どうして、阿城木が選ばれたのだろうか?
今七生がいるのはこの場所だし、自分達が水鵠衆であることは変わらない。だからこそ、それらのことを極力気にしないでいられるのだが──このノートのように、七生を繋ぎ留めるよすがのようなものがないと、時折不安になる。
七生はいずれ、来た時と同じようにフッといなくなってしまうのではないか、と。
「これだけ食い意地張ってりゃ、そんなこともないだろうけどな……」
そう考えると、阿城木が七生に好きなだけ甘い物を食べさせているのは、七生がここからいなくならないように繋ぎ留める為なのかもしれなかった。
そうしてノートを閉じようとした、その時だった。
スイーツ王国建国ノートは何の変哲も無く、左から書き込まれていっている。当然、後ろの方は白紙のはずだ。だが、その後ろの方のページに──書き込みがある。
阿城木はおもむろにそのページを捲った。なるべく音を立てないよう、それでいて何気ないように。
そこに書かれていたのは、各國の舞奏に対する覚え書きのようなものだった。文章というにはあまりにとりとめがなく、単語などを繋ぎ合わせた素っ気ない塊の印象が強い。いくつかは阿城木の知っているものだったが、全く知らない情報もあった。
これは……研究ノートだろうか? 他國の舞奏を研究することで、自らの舞奏を高めようとするような? いや、違う。これにはもっと別の──別の意図が、あるような気がする。
他に何か情報は無いかと目を走らせていくと、今度は阿城木にも馴染み深い……いや、馴染み深いだけの文章があった。
『拝島(はいじま)事件→解決されず? ニュースになってない』
ニュースになってない? そんなはずがない。拝島綜賢(そうけん)が逮捕されたことによって、事件は大々的に明らかになったはずだ。そうでなければ、七生と阿城木が知ることもなかっただろう。
「どういうことだ……」
他にも『五感。目はない。聴覚もない。嗅覚?→あるかも』や『鵺雲→目を付けてた?いつ?』『栄柴? よく知らない。出てなかった』『鵺雲の目的がわからない』などの、謎のメモが残されている。どういう意味だ?
その終わりに『もう一回』という走り書きがあった。
別に不穏でもなんでもない言葉だ。だが、阿城木はその言葉にこそ総毛立った。
もう一回……というのは、もう一度舞奏競に出たいということだろうか。水鵠衆は確かに御斯葉衆(みしばしゅう)に敗れてしまったが、別に次の機会が無いわけじゃない。わざわざここで決意を表明するようなことでもない。第一、リベンジマッチを望んでいるなら、もう少し『次は勝つ』などの前向きな言葉が出ていいのでは?
じゃあ、これは何を指しているのだろう?
屋根裏部屋の窓からは、ガラスを通して輝かしき太陽の光が差し込んできていた。今日の光は少し奇妙な差し方をしていて、向こう側から差し込んでいるようにも、こちらから差し込んでいるようにも、どちらにも見えた。
七生千慧は回想する。
「憐れなことだね」
化身(けしん)の出るネックレスなるものが巷で流行り、舞奏社がとうとう注意喚起を出したのである。七生はてっきり、鵺雲が詐欺師側に対して憤るのだろうと思っていた。だが、鵺雲が注意を向けているのは、それに騙されるノノウ達だった。
「相応の才が無いのにも拘わらず、不遜にも求める憐れな人間が、堕ちるべき穴で藻掻いているみたいで」
「……僕はこういう気持ちわかりますけど」
「七生くんは想像力が強くて共感性が高いんだね」
鵺雲は笑顔で言ったが、少しも嬉しくなかった。これから、自分達は舞奏披(まいかなずひらき)に出る。観囃子(みはやし)達は相模國舞奏社(さがみのくにまいかなずのやしろ)を大いに賑わせていた。盛況だ。
七生はいつも通り、やるべきことをやる為に──決して二人の足を引っ張らないように、と神楽鈴を取った。舞台の上から見る観囃子の目は、期待と喜びに満ちていた。
その中に一人、異質な人間がいた。
彼の緋色の目は舞奏を楽しもうという期待ではなく、別のもので滾っていた。舞い始めて分かった。──彼の中にあるのは、悔しさだ。七生達が化身持ちであることへの悔しさ。それ以上に、実力のある舞い手であることへの嫉妬。
彼は覡ではないはずだ。舞奏社に所属している覡だとしたら、七生はきっとどこかで会っているはずである。これで七生は割合記憶力が良い方なのだ。
だったら、彼はノノウなのだろう。舞奏競に出られる立場じゃない。それなのに、当代最高の舞奏衆と名高い自分達に、敵愾心(てきがいしん)剥き出しの目を向けている。
彼の名前は後から知った。上野國(こうずけのくに)の有名人。地元の名士の息子。
──阿城木入彦のことが好きなわけじゃなかった。最初は可哀想な奴なんだな、と思った。
舞えればいいだけの人間じゃないのに。覡になりたくて仕方がないのに、その舞奏で競いたいと思っているのに、化身が無いだけで覡にもなれず、愛によって上野國に閉じ込められたまま燻っている。
だから、七生はここに来たのだ。
*
九条鵺雲がやって来た夜、佐久夜(さくや)はなかなか寝付けなかった。
九条家といえば、舞奏の世界において知らぬもののいないほどの名家である。その嫡男が、何故か遠江國(とおとうみのくに)にやって来たと聞けば、これは一大事だ。彼はどうやら、遠江國舞奏社への所属を希望しているらしい。一体何故だろうか? 遠江國は舞奏の歴史の長い土地であるが、相模國も同じように舞奏の歴史の長い國である。それに、鵺雲は相模國を厭っているわけでもないようだ。
理由がどうあれ、遠江國舞奏社は鵺雲のことを歓迎している。巡(めぐり)が指導している現御斯葉衆は、舞奏競では到底通用しない力量しかない覡ばかりだ。九条鵺雲の存在は、遠江國の光だった。
だが、佐久夜の気分は晴れなかった。鵺雲の存在は、まさしく雲間を裂く雷鳴であった。鳴り響けば最後、もう元には戻ることが出来ない。遠江の伝承では、雷は豊穣をもたらすものだという。
だが、栄柴巡ではない御斯葉衆を成立させてしまう彼は──巡が舞台に立つ機会を永遠に奪ってしまうかもしれない彼は──少なくとも佐久夜の恵みではないはずだ。そんなことが、あっていいはずがない。
布団に入りながら、ぼんやりと天井を眺める。佐久夜の寝ている部屋は畳敷きの和室で、広さは八畳あるが殆ど物が置かれていない。扉は障子になっているので、今夜のような月明かりの煌々と輝く夜は部屋全体が仄明るく照らされていた。
その部屋の中に、影が差した。
誰かが障子の前に居る。その横顔は、影であろうと分かるくらい見知った人間のものだった。
「……巡か?」
佐久夜は上体を起こし、影に向かって尋ねた。すると、影は答えた。
「入ってもいい?」
それはやはり、栄柴(さかしば)巡の声だった。こんな夜中に自分の部屋を尋ねてくる人間なんか、巡一人しかいないのだから当然だ。佐久夜は溜息を吐き、再び尋ねた。
「どうしてそんなところにいるんだ」
「入ってもいい?」
巡はそれには答えず、もう一度同じ問いを繰り返した。
答える気のない巡に、佐久夜はもう一度深い溜息を吐く。こうして巡が一緒に寝ようと言ってくることや、夜中にも拘わらず佐久夜に愚痴を聞かせようとしてくることは何度もあった。特に珍しくもない。佐久夜は巡のしたいようにさせてやるのが勤めである。「入っていい」と言いかけたところで、佐久夜は異変に気がついた。
巡が佐久夜に許可を求めることはない。いつもなら、佐久夜が寝ていても構わずに中に入ってくるはずだ。許可を与えるのは主である巡の方で、佐久夜ではない。
影はやはり巡に見えた。巡らしき人影が、彼の声で尋ねる。
「入ってもいい?」
今夜の巡は、一度も佐久夜のことを呼ばなかった。『佐久夜』とも『佐久(さく)ちゃん』とも呼ばない。だからこそ、佐久夜は障子を開かずに言った。
「どうして開けないんだ? お前はいつもそうしているだろう」
巡は答えなかった。佐久夜の喉が異常なほど渇いていた。ややあって、彼が言う。
「入ってもいい?」
違う、と佐久夜は直感する。これは──佐久夜の知っている栄柴巡じゃない。何かもっと別のものだ。どうして巡の姿をしているのかは分からないが、これを中に入れてはいけないような気がした。佐久夜は身動ぎすらせず、影に相対する。
「入ってもいい?」
「駄目だ。……お前はここには入れられない」
「入ってもいい?」
押し問答が続く。これは一体何だ。一体これはいつになったら終わるのだろうか。もしや、これは朝まで巡の真似事を続けるつもりなのか。むしろ、佐久夜は自分からこの障子を開けてしまうべきなのだろうか?
そうしている内に、影の形が変化した。それが何かを理解した瞬間、佐久夜は息を吞んだ。
巡であることには変わりがない。だが、もっと大きな部分が違う。
障子の向こうの巡は、苦しげに背を折りながら車椅子に乗っていた。佐久夜の動悸が治まらなくなっていく。それは、佐久夜が最も厭わしく思う悪夢だった。──もう舞えず、そうであるのに幸福ではない巡の姿だ。どうしてこんなものを、と佐久夜は知らず知らずの内に口にしていた。
「入ってもいい?」
車椅子に乗った巡は、なおも同じ言葉を繰り返した。それしか言葉を知らぬかのように、ただ一心に求めている。影がこちらを見ていた。──その姿を認めてしまった以上、佐久夜には選択肢が無かった。
「…………ああ、構わない。お前が望むなら」
それは巡であって巡ではないものだ。自分の主の姿を借りた紛い物である。だが、自分の救えぬ栄柴巡の姿を──この世で一番恐ろしいものを目の当たりにさせられて、佐久夜が拒絶など出来るはずがなかった。
揺れていた影がぴたりと止まった。その刹那、佐久夜の腹が火で炙られたかのように痛んだ。臓腑でも抉り出されたのではないかという鮮烈な痛みを受けて、佐久夜は自らの腹を検めた。
そこには、──巡のものとよく似た化身が浮かんでいた。
栄柴巡は深く息を吸って吐き、集まった親族や有力な観囃子達を見回す。誰も彼もが以前とは違う目で巡を見ている。巡は以前と何も変わらず、彼らが蔑んでいた放蕩息子のままであるのに。人の移り気とは恐ろしいものだ。だが、扱いやすくもある。
巡は彼らの求める栄柴家次期当主の顔をして、朗々と言った。
「栄柴家嫡男、栄柴巡。皆様に舞奏競星鳥(せいちょう)における御斯葉衆の勝利をご報告致します」
台本通りの拍手が巡に送られる。彼らにとっては、巡が覡になったことだけで感涙ものなのだ。それに加えての勝利は、まさに夢のような話だろう。喝采を送られるに足る存在に、栄柴巡はようやくなれたのだった。
そんな自分が、遠江國も栄柴家も捨てていくことを目標に舞奏競に挑んでいるとは、ここにいる誰一人として想像していないだろう。それだけで、巡は少しばかり愉快な気分になるのだった。そこは巡の心の中にあり、誰にも侵されぬ安らぎの場所だ。ここにいる全員に、舞奏の終わりを見せてやる。栄柴巡が、栄柴巡として生きる為に。
拍手を送っている中には、父親の姿もあった。顔を合わせるのは随分久しぶりだった。
父親の栄柴循(さかしば・じゅん)は、かつては将来を嘱望された覡であった。栄柴の夜叉憑(やしゃつ)きを継ぐものとして期待され、彼自身も一心に舞奏に打ち込んでいたらしい。秘上(ひめがみ)佐久夜の父である和津見(かずみ)は、循に従者として仕えていたという。
だが、栄柴循が覡(げき)で居られた期間はそう長いものではなかった。身体の弱かった彼は度々体調を壊した上に、膝に重い怪我を負った。すぐの治療が功を奏し、後遺症が残ることはなかったが、舞奏を続けることは出来なかった。そのまま舞い続けていれば、彼はまともに歩けなくなっていただろう。
そして栄柴循は、自分に果たせるもう一つの役目に注力した。後継ぎを作ることである。循は他國の名家筋の女性を妻に迎え、栄柴巡の父親となった。生まれた息子には化身があった。
循は巡に相応の期待を懸け、相応の役割を求めた。怪我の一つすらしていない巡が舞奏を辞めると言った時に、強く抵抗したのも循だ。
だが、中学に上がる頃になると、巡は彼のそういった行為に何の熱も入っていないことに気がついた。
彼は栄柴家の人間に求められることを、そのままやっているに過ぎなかった。責任感が強く、自らが継いできた血に誇りを持っているだけの、ただの人間だ。栄柴循と栄柴巡はよく似ていた。結局遠江國から離れずにいた巡と同等の真面目さを備えている男だ。
巡が大きくなるにつれ、循はあまり家に寄りつかなくなった。舞奏に関連する事業に勤しみ、栄柴家と遠江國舞奏社が体面を保てるよう、資金調達に駆け回っていた。どこまでも、彼は遠江國の舞奏の為に生きているのだった。
あるいは、自らの従者の為に生きているのかもしれない、と今の巡は思う。秘上家に仕えられている以上、彼は栄柴家の当主なのだ。
報告会が解散になると、巡は珍しく自分から循のところへと向かった。自分が歳を取ったらそのままこうなるだろうというくらい、巡と循はよく似ている。母親の遺伝子どうなってんだよ、と巡は心の中で嗤った。
「……久しぶりだな、巡」
「どうよ。そっちも納得いく結果なんじゃないの? ドナドナしようとしてた息子に突然良い値がついちゃってさ」
「口を慎め。まだ大祝宴に到達したわけでもなく、口さがない奴らに九条の長男の力が大きかったのだと誹られている状態で、そう大きいことは言えないだろう」
「でも、それが持たざる者達の嫉妬でしかないと、他ならぬあんたなら分かるはずだろう」
巡が言うと、循は皮肉げに笑った。こういう態度も、自分とよく似ていて癪だった。だが、それが単なる処世術の一環であることも、巡はよく知っている。
「……まさか、秘上の当代があれほど舞えるとはな。思ってもいなかった」
「いいでしょ。俺の佐久夜は化身持ちだから」
巡の言葉に対し、循は何も言わなかった。その顔には、どこか寂しさや憐れみの片鱗すら浮かんでいるようで、巡は息を吞む。栄柴循は巡の映し鏡であり、だからこそ宿命を強いる対象であったはずなのに。
「一体どうして秘上の息子は化身を授かるに至ったのだろうな。俺の知る限り、秘上家の人間に化身が顕れたことはない。あれは舞い踊るものではない。人に憑く鬼だ」
「鬼が踊ることだってあるかもよ。何しろあれは欲深いから」
「欲深さで手の届くものであるなら──……」
そう言って、循は言葉を切った。何を思いだしているのか、目を細めている。ややあって、循は続けた。
「お前はもう覡になってしまった。これもカミの思し召しだろう。結局、俺は器ではなかった。そういうことだ」
「……あんたに言われずとも、何もかも全部分かってる」
巡は一瞬、循が何もかもを察しているんじゃないかと思った。巡が遠江國も栄柴の血も捨てようとしていることを。大祝宴に懸ける望みこそが、最早それになっていることを。
だからといって、循は巡を止めないだろう。栄柴家の血が継がれていくことを、最も望んでいるだろう男のくせに。そういうところも、巡はあまり好きではなかった。
「御斯葉衆は素晴らしい舞奏衆だ。必ずや栄柴家と秘上家の名に恥じない舞奏を奉じ、大祝宴に辿り着くだろう」
「審美眼だけは衰えてないみたいだな。舞奏の一線から退いた親父殿の代わりに、放蕩息子が親孝行してやるよ」
「口が減らないな。およそ栄柴に相応しくない」
そう言いながらも、循の口調は以前よりずっと柔らかく感じた。循はそれきり何も言わず、ただ黙って去って行った。
「そういえばさ、佐久ちゃん。佐久ちゃんってどうやって化身を手に入れたわけ?」
きのこバター醤油のパスタを食べながら、巡は目の前の佐久夜に尋ねた。黙々と煮込みハンバーグを食べていた佐久夜の動きがぴたりと止まる。食べるのに集中すると巡をおろそかにするのが、佐久夜の悪いところだ。
二人の間にはサラダとピザもある。そんなに急いで消化するようなメニューでもない。どうせ頼んだ物の大半は佐久夜の胃に収まるのだ。焦る必要はないだろう。佐久夜はスプーンを置き、少し間を置いてから答えた。
「……化身は……寝て起きたら出ていた」
「……佐久ちゃーん。いくらなんでもそれはあんまりじゃない?」
「適当に言っているつもりはない。朝、異変を感じて確認し、検めてみると本物の化身だったというわけだ」
「はーあ、まあそんなもんなのかもしんないよね。こんな鬱陶しいもんはさ。これじゃあ何の参考にもならないわ」
「秘上家に化身持ちが現れたのは初めてだったそうで、俺も何度も質問を受けた。だが、有益なことは答えられていない印象がある」
「まあそうだよね。佐久ちゃんの例が全国に広がったら、再現しようっていうマッドサイエンティスト達が佐久ちゃんのことを解剖しちゃうかもしれないし」
「そうはならないだろう」
佐久夜は真面目くさった顔でそう答える。こういうやり取りもなんだか懐かしい。
「でも、なんかあったでしょ。化身が出る予感とか、そういうのもないの? ……まさか、鵺雲さんがきっかけとか? そういうのは?」
「あの方が来た夜に化身が顕れたのは確かだが」
事実とはいえ鼻持ちならないことを言われ、巡は少し機嫌を損ねる。だが、そんな佐久夜が次に言ったことは、思いがけないことだった。
「……あの夜、お前が部屋に来た、ような気がした」
「は? え?」
「よく来るだろう、眠れないだとか暇だとかで」
「や、確かに行くけど。でもあの日そんなことしてないし。え、俺っぽい他の誰か連れ込んでたとかないよね? うわー、佐久ちゃんってばやるぅ」
「そういうわけではない。あれは確かにお前だった。だが──お前ではないものだった」
「ちょっと待ってよ、今度は禅問答じゃん。謎すぎ」
巡は冗談めかして言ったが、佐久夜はまるで表情を崩さなかった。……一体、どういうことだろうか。佐久夜が巡の夢を見て、そうして化身が顕れたのなら、何だか筋道として納得がいかなくもないのだが。
「じゃあ、お前の化身は俺に与えられたものなの?」
「そう、なのかもしれない。俺は、それを受け容れた」
「へー、じゃあ俺が佐久ちゃんを巻き込んだ感じなんだ。俺からしたら、こっちが巻き込まれたみたいな感じなんだけど」
「縁が……」
ぽつりと佐久夜が言った。店内の喧噪の中で、佐久夜の声は妙に際立って聞こえた。
「繋がった、と言われた。それまでは、たった一言しか発せられなかったのに」
「何それ、こわー……お昼時に急に怪談話すのやめてよね」
「お前がどうやって化身が顕れたかを尋ねたんだろう。だから、答えたまでだ」
そう言って、佐久夜はハンバーグの咀嚼に戻ってしまった。結局、何の参考にもならない。巡がきっかけだと言っておけば、こっちが満足するだろうと思ったのだろうか。
だが、それで少しばかり機嫌が良くなってしまったのも事実である。巡はくるくるとスパゲティを巻きながら、俺って健気かも、と思う。
縁か。確かに、この世は縁で回っているような気がする。巡り巡って奇縁が繋がり、それが思わぬ出来事を引き起こしている。尤(もっと)も、巡を縛り付けている縁の糸を辿れば、全てが佐久夜に繋がってしまっているのだけれど。これは自分達だけの特例だ。
「結構多めに頼んじゃったけど、鵺雲さんは呼ばないからね」
「……俺はこのくらい食べられる」
「あと、このお店は鵺雲さん連れて来ないで。どうしてもって時は俺もいる時じゃないと許さない」
「…………わかった」
「本当にわかってんのかなー」
言いながら、巡は自分の手綱を握らせてしまっている相手に、軽く笑いかけた。その腹には、確かに化身が相応しい。カミもいい目の付け所をしている。
「ま、佐久ちゃんのことにはこれからも目を光らせておくとして──」
手を握り込んでも、手首にまで延びた化身は隠れない。巡は浅く息を吐いて、続けた。
「俺達に出来るのは勝つことだけだからね」
掌から這い出た化身は、糸に似ていた。
巡と何かを繋ぐ、縁の糸だ。
著:斜線堂有紀
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