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小説『神神化身』第二部 四十四話  「虹の裏側、月の果て」

2022/03/18 19:00 投稿

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小説『神神化身』第二部 
第四十四話 

虹の裏側、月の果て


 原則的には全力食堂はデリバリーをやっていない。比鷺(ひさぎ)や七生千陽(ななみちはる)のように三言(みこと)が個人的に持って行く相手はいるものの、基本的には来店してもらう形になっている。
 だが、例外もいくつかあって、それが今回のような大規模なケータリングサービスをやる時だ。今日は町内会のフリーマーケットに合わせて、大鍋に入れたシーフードカレーやら揚げ物やらの提供を担うことになっていた。フリーマーケットの参加者は、これらのものを好きに食べられるのである。
「カレーこっちにはまだありますよ!」
 全力食堂特製のシーフードカレーを皿に盛りながら、集まった人々に大声で声を掛ける。こういう時に、よく通る三言の声はとても重宝されるのだ。ケータリングの仕事は忙しいけれど楽しい。祭が大好きな小平(こだいら)さんも、とても嬉しそうに働いている。
 そうしてテキパキと場を回していると、カレーを食べている中年の女性の一人が話しかけてきた。
「本当に三言くんってば頼りになるわよねえ。小平さんもさぞかし鼻が高いんじゃない?」
「俺なんかまだまだですよ! これくらいで褒められたら、逆に恥ずかしいです!」
「謙遜しちゃって。昔の三言くんは手ぇつけらんないやんちゃ坊主だったのにねえ。見る影もないじゃない。やっぱり、小平さんと暮らして一生懸命働いて覡(げき)もやってってなると、しっかりするもんなのかね」
 しみじみとそう言われ、三言は思わず尋ねた。
「今の俺だと駄目ですか?」
「駄目ってことはないわよぉ。でも、人間ってこんなに変わるんだねって話」
 三言は交通事故に遭う前の記憶を失っている。自分には両親と妹がいたらしいが、写真を見たところで、彼らはまるで他人のようにしか思えない。三言は失ってしまった記憶と一緒に、目の前の女性に惜しまれている部分を失ってしまったのかもしれなかった。それは、あんまりいいことでは無いような気もする。
「じゃあ、前の俺は──」
 そうしてなおも話を続けようとしたものの、女性はさっさと次のおしゃべりの相手を見つけてしまっていた。興味の移り変わりがやや早い女性だったらしい。
「どうしたんですか、呆けてしまって。三言くんらしくないですね」
 声のした方を向くと、そこには背の高い女性が立っていた。よく知っている、三言の大好きな相手だ。
「千陽さん! いらっしゃってたんですね!」
「はい、千陽です。三言くんがお手伝いしてると聞いて、来ちゃいました」
 七生千陽は三言の家の隣──家族がまだ存命だった頃、共に暮らしていた生家の隣──に住んでいる、所謂お隣さんだ。三言が小さい頃から、家族ぐるみの付き合いがある。尤(もっと)も、その頃の記憶は三言には残っておらず、千陽との思い出は事故の後のものになってしまうのだが。
「千陽さんに会えて嬉しいです! もし来るのが分かっていたら、また甘い物を用意してきたんですけど……」
「わあ、嬉しいですね。なら先にお知らせしておけばよかったかもしれないです」
 そう言って、千陽が嬉しそうにカレーを受け取る。丁度三言も休憩の時間なので、二人で並んで食べることにした。
 海を眺めながらカレーを口に運ぶ。流石全力食堂というべきか、カレーはとてもいい塩梅に仕上がっていた。
「美味しいですね。流石は全力食堂さんです」
 千陽もとても嬉しそうだ。幸せだな、と三言は自然と思う。
 その時ふと、三言の脳内にさっきの疑問が戻って来た。
「俺って、前とはやっぱり変わったんでしょうか。小さい頃と」
「うん? 小さい頃とですか? それは……確かに変わった気がしますけれど……成長したんじゃないかな、と私は思います」
「成長……」
「だから、三言くんが変わったとしても、それはいいことばかりの変化だと思いますよ」
 千陽が笑顔で言ってくれるので、三言はなんだか安心した。
「俺は事故で記憶を失っているので、そこで大切なことも失っているような気がして……」
「その気持ちもわからなくはありません。私もたまに、同じような気持ちになることがありますから」
 千陽がカレーとご飯を混ぜながら、どこか寂しそうに言う。
「三言くんに言っていなかったことがあるんですけど」
「はい。……なんですか?」
「私、三言くんを引き取らせて頂こうかと思ったことがあるんです」
 そう言われ、三言は思わず呆気にとられてしまった。そんな話は、今まで聞いたことがなかったからだ。
「三言くんは私にとって、子供同然ですから。三言くんの力になれたら、と思ったことがあります。けれど、今の三言くんの変化を見ていると、やはり小平さんのところで、よかったんだなと思うんです」
「……でも、嬉しいです。ありがとうございます」
「三言くんは確かに変わりましたけど……それはとても良い変化だと思います。それに、友達思いのところは変わりません。だから、何も心配しなくていいと思いますよ」
「千陽さんにそう言ってもらえると……嬉しいです」
「だから、大丈夫ですからね」
 千陽に繰り返しそう言われ、三言はなんだか言葉にならない気持ちになった。本当に、何か甘い物を作ってくればよかった、と三言は思う。そうしたら、きっと千陽にまた意見をもらえただろう。


 仕事を終えた遠流(とおる)が稽古場にやって来ると、三言が出し抜けに質問をしてきた。
「俺はどこか変わったように見えるか」
 じっと見つめられながら三言にそう尋ねられると、やや気まずい気分になった。変わったかと尋ねられればその通りだと答えざるをえない。何しろ、遠流は三言がこういう性格になる前の三言を知っているのだから。少し悩んだ末に、遠流は言う。
「変わった……とは思うけど。そんなこと言ったら、僕達はみんな変わったんじゃないかな」
「そうなのか? 遠流もか? 比鷺も?」
「それは……そう思うよ。僕だって、前の比にならないくらい変わった自覚はあるし。前の僕なら……アイドルなんて疲れるようなことはしなかった。そんなことしてる暇があったら寝てたいって、そう思ってただろうし」
 昔の自分に今の状況を説明したら、きっと鼻で笑われることだろう。そのくらい、アイドルになるというのは遠流にとってありえない選択肢だった。
 今だって──もし合同舞奏披(ごうどうまいかなずひらき)がなくて、あの全てを舐め腐っているような享楽的な男に言いくるめられなければ、遠流は自分の選択に悩み苦しんでいただろう。彼に言われてから、遠流はなんだか悩むことすら嫌になってしまったのだ。
 もし遠流のやっていることが不当であれば、彼は嬉々としてそれを壊しにくるだろう。その点については信頼している。恐らくは──感謝もしている。
「だから、三言が変わってしまったこと自体は、気にしなくていいのかもしれないって、僕は思う……何か気になることがあったの?」
 三言はそれには答えず、笑顔で言った。
「そうなのか。遠流は寛大だな!」
「こういうのを寛大っていうのかはわからないけど……」
「でも、遠流はまるでアイドルになる為に睡眠時間を奪われたみたいで、そこが少し心配だぞ」
 三言がなにげなく言う。言われてみれば、遠流が今奪われているのは『睡眠時間』という得難い宝物なのかもしれない。
「でも、心配しなくても大丈夫だよ。その……移動中とか、空いた時間とか、そういう時に最近は眠るようになってるから……。その所為で、眠り王子だとかなんとかの変なキャラ付けがされかけてて、ちょっと怖いんだけど。……あんまり、無理しないように、してる」
「それを聞いて安心したぞ! 遠流はいつでも頑張り屋さんだからな。たまには前みたいに沢山眠ってほしいぞ!」
「ありがとう」
 遠流はそう言って、三言に微笑み掛ける。今日の三言はなんだか妙な感じがするけれど──こうして優しい言葉を掛けられると、遠流の知っている三言だ、と安心する。
 その時ふと、三言の手の甲にある化身(けしん)に目が吸い寄せられた。
「三言の化身、変化してからは余計に目立つね」
「ああ、そうだな! みんなにもよく見てもらえるようになって、なんだか嬉しいんだ」
「確かに、これがあると三言が凄い覡だってみんなが分かるもんね。……僕はそういう場所じゃないから、あれだけど……」
「そうか? 俺は遠流の化身が好きだぞ!」
「でも、腰って……正直込められている意味もよくわからないし」
 それ自体はずっと思っていたことだ。化身はその人の優れた部分に現れるという。けれど、遠流は腰だ。何を表しているのか、正直なところよくわからない。自分は生まれながらに持っているものじゃなく、後から与えられた化身だからなのかもしれないが、それでも気になるところだった。
 すると、三言は先生よろしく人差し指を立てながら言った。
「化身はその人の価値のある部分に発現するんだけど、それだけじゃないんだ。正確には縁深い場所に出るんだよ」
「縁深い場所……?」
 神楽鈴を持つ三言の手が、カミと縁深いというのは分かる。あるいは、言葉によって名探偵の役割を果たしていた皋所縁(さつきゆかり)の化身は縁深いというよりは才そのものなのだろうが──。他は、どうなのだろう?
 聞いてはいけないような気がした。きっとろくなことにはならない。でも、聞かずにはいられなかった。
「比鷺は? ……比鷺の化身は、うなじにあるけど。あれには……一体どんな意味が?」
「ああ、比鷺の化身だな。ずっと正されないなと思っていたんだが、あれはうなじの化身じゃないぞ」
「それって……どういう意味……?」
「そのままの意味だよ。比鷺の化身は頸椎(けいつい)の化身なんだ」
 頸椎が何かというのは分かる。首と頭を繋ぐ、とても重要な骨のことだ。言われてみれば、うなじの下には頸椎があるわけだし、化身がどっちを指し示しているかを知る機会は自分達には無かったわけだ。
「比鷺はその才もそうだが、真に価値あるのはその思考能力だよ。それが比鷺の舞奏(まいかなず)をより素晴らしいものにしている。頭と身体を繋ぐものにこそ、比鷺の真価があるんだ。だから、首にこそ最も密接に結びついているんだよな。首輪というものが発明されたのは、首が人間にとって急所だからだ。そこに枷を嵌められれば逃げられない。鎖骨とはまた違った隷属の場所だね」
 三言はその言葉を一息で言った。背筋の震えが止まらなかった。三言の声は明瞭だし、普段から滑舌がいい。けれどこれは──なんだろうか?
 三言の顔をした三言ではない何かが喋っているような気がする。けれど、それを言うなら今の遠流も、遠流ではない何かに喋らされているような気がしながら、遠流は尋ねた。
「僕の化身は腰にある」
「ああ、そうだな」
「これは、どうして?」
 それを聞いた瞬間、三言がにっこりと笑った。背筋が更に寒くなる。気づけば遠流は三言に背を向けて駆け出していた。その瞬間、丁度腰の辺りを掴まれる感触があった。そうだ。あの時もこうして逃げだそうとして、遠流は肝心なところで逃げだそうとしてしまって、それで、だからこうして──。
 
「うわああああっ!」
 自分らしからぬ絶叫と共に、遠流は目を醒ました。
「大丈夫か? どうしたんだ?」
 慌てた様子の三言が駆け寄ってくる。震えながら辺りを見回すと、そこは相模國舞奏社(さがみのくにまいかなずのやしろ)の稽古場だった。いつもの場所だ。恐ろしいことなんて何一つないところだ。
 それでも、遠流の震えは収まらなかった。がくがくと全身が震え、汗だくになった身体が冷えていく。三言はそんな遠流の背を優しくさすってくれていた。
「……怖い夢でも見たのか?」
 そう尋ねてくる三言のことを見る。三言は何も変わらない、遠流の大好きな三言だった。夢の中とは全然違う、自分の幼馴染である三言だ。それを見ていると、涙が出てきた。こんなんじゃ三言に心配を掛けてしまう。そう思うのに、涙はどんどん溢れてきて止まらない。
「大丈夫だぞ、遠流。俺はここにいるからな」
 涙を流し続ける遠流の背を、三言はなおもさすってくれていた。その手の感触が、遠流を辛うじて安心させてくれている。涙が止まらなくて、駄目だと思いながらも遠流は袖で目を拭った。
 あんなのはただの夢だ。あれは三言じゃない。三言は──遠流が好きな三言は、ここにいる三言だ。あんなのは三言であっていいはずがない。
 けれど、確信したこともあった。
 遠流はあの時、逃げ出したのだ。そして、この場所をカミに掴まれた。才の証ではなく、過去の証だ。自分の化身は、他の覡とは根本的に意味合いが違う。
 遠流がなおも泣いていると、三言が稽古用に持って来たのであろう綺麗なタオルを差し出された。顔を押しつけた時に感じる柔軟剤の臭いが、辛うじて遠流を繋ぎ留めてくれているようだった。
 
  *
 
 昏見有貴(くらみありたか)は回想しない。
 
 眼下にホテルを見下ろしながら、怪盗ウェスペルこと昏見有貴は計画の最終確認をしていた。今日狙うのは、十八世紀に作られた美しい懐中時計だ。この時代に生み出された機構は、現代のラグジュアリーウォッチに繋がるような素晴らしいもので、部品数も多い。歴史的な価値も高いが、デザイン面でもかなり質のいい物だ。
 予告状は出したものの、最近の昏見は手早く全てを終わらせることをモットーにしている。怪盗ウェスペルの傾向が明らかになった今、人々の間には既に『怪盗ウェスペルに狙われる時点で、その相手には問題がある』という認識が生まれるようになっていたからだ。
 だとすれば、もう派手なパフォーマンスは必要がない。ターゲットリストの二つ目に差し掛かる頃には、昏見はすっかり勤勉になっていた。あるべきものを、あるべき場所に。昏見がやるべきはそれだけだ。
 こう考えると、怪盗稼業とは随分地に足の着いたものだったのだと苦笑せざるを得ない。小説や映画の中の怪盗を夢見ていたわけではないが、それにしてもこの生真面目なこと! けれど、怪盗が存在するからといってお誂え向きに名探偵が現れることもないし、昏見はまだ飛行艇の主ではない。人工知能のパートナーも見つけられていない。何とも堅実な毎日である。
 だが、これはこれで昏見の本懐だ。ある意味で天命だったのかもしれない。世の中には物の価値が分かっていない人間が多すぎる。なら、自分が適切にそれを管理してやらなければならない。
 この稼業を始めてからというもの、昏見は人間というものに呆れ果てている節がある。人間は愛おしいけれど、それなりに愚かだ。もしかすると、世界をよりよくしていく活動には限界があり、昏見の腕はそれほど広がらないのかもしれない。
 だが、それがどうしたというのだろう。昏見は裁定者となって、自分の思うままに手を伸ばし、救える範囲の価値のみを救えばいい。分かる人間にだけ伝わればいい。それだけだ。
 さて、今夜の犯行だが──あまりよくないタイミングだったかもしれない、と昏見は思う。このホテルで平行して催されているのは、かの有名な萬燈夜帳(まんどうよばり)の講演会だ。いや、サイン会もやっているんだっけ? 何にせよ、盛況であることには変わりない。
 問題なのは、この大騒ぎの所為で人の出入りも警備の数も、普段とは比にならないということだ。昏見が単体で予告状を出した時よりもずっと盛り上がっているのが悔しく思えるほどだ。人が多い分紛れ込める場所も多いのだが、熱に浮かされた人間は往々にして昏見の計画を狂わせる。
 この間、萬燈夜帳はかなり大きな文学賞を受賞した──というより、国内のめぼしい賞を取り終えた、といった方が正しいだろうか。質の高い小説をコンスタントに発表し続けることの出来る彼は、まさに天才小説家の肩書に相応しいだろう。昏見も何冊か小説を読んだことがある。どれも面白かった。特に七作目の『昼夜(ちゅうや)の言(げん)』が好きだ。
 一方で、最近の萬燈作品は何だか雰囲気が変わってきたような気もしていた。得てして面白いのは変わらない。彼の作品の大半はエンターテインメントに徹していて、読者を喜ばせることに終始している。
 だが発表された一部の小説には言語表現へ延々と挑戦しているようなものだったり、読者の理解を拒むようなものもあった。これは明らかに萬燈夜帳作品の原則──小説は人を楽しませるものであるという頑ななまでの意思──には反している。
 それですら世界をざわめかせ、様々な考察や憶測で人々を賑わせているのだから、新種のエンターテインメントと言えなくもないが。そう考えると、萬燈夜帳は何も変わらず一貫性を保っているのかもしれない。
 けれど、昏見にとってそれらの作品群は、全く別の意味を持っているように見えている。
 さて。少しだけ親しみのある小説家が近くにいたところで、怪盗ウェスペルのやるべきことは変わらない。獲物は今、昏見の手を待っている。
 
 そして、昏見の嫌な予感は当たった。こうした熱気溢れる場所では、絶対に何かしらのイレギュラーが起こる。
 興味深かったのは、そのイレギュラーが人の形を取っていたことだ。ホテルのバルコニーから早々に帰ろうとしていた昏見を、彼が楽しそうに呼び止めてきた。
「お前の方も首尾良くいったみてえだな」
 振り返らなくても声だけで分かった。彼ほど雄弁な声を持った人間はいない。服の中に忍ばせている時計の感触を確かめながら、昏見は言った。
「隣を騒がしくしてしまってすいません。今夜は貴方の独擅場(どくせんじょう)だったのに、私が話題を頂いてしまって」
「構わねえよ。怪盗と見(まみ)える舞台と見えねえ舞台じゃ、エンターテインメントの強度が違う。お前だってこの冴えた夜の立役者だ」
 なるほど、こういうタイプか、と昏見は思う。どこまでも余裕があり、才知と機知に富んでいる。名声を一手に集めているのに、生まれながらに『持っている者』だから驕らない。昏見の好きではないタイプだ。だって、単純にいけ好かない。
「それで? 私を見つけて勝ったおつもりですか? 萬燈夜帳先生。言っておきますが、私にとっての敗北とは捕まり蹲(うずくま)るその瞬間です。チェックメイトだけでの勝利宣言は頂けませんね」
「俺はそもそも勝利しようとも出来るとも思ってねえよ。この世での勝利とは楽しみ尽くすこと、それ一点だけだろう。俺がお前を確保したところで、何の益もねえ」
「捕まりませんけどね、私」
 勘違いされそうだったので、先んじてそう言っておく。たとえ相手が天才であろうとも、こちらは怪盗ウェスペルだ。怪盗が小説家に負ける展開なんて、誰も望んでいないだろう。
「ですが、それを勝利条件とするのなら、貴方は既に勝者でしょうね。出す小説出す小説ベストセラーで、小説家としての栄冠を全てその頭に戴いたのですから」
 目の前の男が満たされていないことを知っていてなお、昏見は敢えて言った。案の定、萬燈が微かに面白そうな笑みを浮かべる。
「そうだな。人生を面白おかしく過ごしてそうな怪盗ウェスペルに言われると、なおのことその光栄を噛みしめるな」
「そうでしょう? 素晴らしいですよね。私も怪盗を引退した後は、小説家の方を目指すことにします」
「なかなか悪くない進路だ。相応の人間がやらねえ限りは、人生を空費することになる稼業だが」
 今夜は月が出ていないので、萬燈の表情はよく見えない。いや、よく見えたところで意味がないのかもしれない。萬燈には何を隠す気もないのだから。彼のことを理解出来る人間がいないから、萬燈はそのままでいても全てを明かさぬことが出来る。ややあって、昏見は言った。
「貴方の中では、私も七十八億人の中の一人ですか」
 萬燈は答えなかった。沈黙が何より雄弁だった。
 彼はおよそ他人というものに興味が無い。いや──人間そのものには興味を持っているのかもしれないが、それは個人に目を向けているのとは、まるで話が別だ。彼にとっての人間とは、偏に楽しませるべき読者である。魅せるべき観客である。
「さぞかし孤独なことでしょうね。貴方の世界は貴方一人きりだ。理解されない小説を書いているのは、波長が合う人間を探しているからですか? けれど、貴方のその願いは今のところ、叶っていないようですね。まるで仲間を探して鳴く鯨のようです」
 萬燈のあの小説は、彼の為だけに書かれた小説なのだろう。だが、その小説は理解を得たことはない。そうであれば、彼はこれほどつまらない生き方をしていない。
「けれど、才無く孤独な人間より、萬燈先生は恵まれています。貴方の小説、私結構好きですよ」
 だからこそ、萬燈が自分に対してそう期待を持っていないことが悔しい。第一印象から決めてました、とそう思われるくらいじゃなきゃ満足出来ない。
 あるいは、怪盗稼業を始めたばかりの自分だったら、もっと萬燈の興味を退けただろうか? と愚にも付かない想定をする。あの頃の自分と今の自分の違いは、自負があるかだけなのだが。
 すると、お誂え向きに萬燈が言った。
「お前もお前で傲慢さが出てるな。この世全てがお前の獲物か?」
「ええ、そうですね。最近になって、自分の宝物庫が思ったより広いことに気がついてしまいました。世の中には物の価値を知らない人間が多すぎます。私はそれをあるべき場所に戻すだけ。然るべき場所に無ければ、翡翠だって石ころですよ」
「なら、お前も俺もそう変わらねえな」
 なかなか耳の痛い指摘だ。そうなのかもしれないが、肯定するのは癪に障る。昏見はフェイスベールの向こう側で、にっこりと笑った。
「なら、私だったら、貴方の他人になれるかも。そんなことをしてあげる暇なんてないんですけどね」
「ああ。お前にはお前の目的があるんだろう。俺は精々、その活躍を拝覧することにしよう」
「ええ。楽しませてあげますよ。それなりにはね」
 けれど、この世にはとかく役者が足りない。昏見の心に漣(さざなみ)を立てる相手も、人間のことを信じさせてくれる出来事も、何も無い。これは使命を果たせという神の思し召しなのだろうか? だったら随分と温い設定だ。折角なら、縛りプレイの一つでも楽しませて頂きたい。
「……萬燈先生」
 去り際に、昏見はにこやかに彼のことを呼んだ。今や昏見は、萬燈に対して多少の親しみを覚えていた。
「これからも小説をお書きになるんですか」
「そのつもりだ。生憎と、俺にはまだ書くべき物語があるからな」
「萬燈先生のご健筆を心からお祈りしています」
 その言葉に嘘はなかったが、果たして小説だけを突き詰めていく中に、彼の求めるものはあるのだろうか? とふと疑問に思ったのだ。
 それでも萬燈夜帳の小説は面白く、これからも多くの人間を楽しませていくだろう。彼の作品で救われる人間も沢山いるはずだ。
 その時、不意に昏見の肩甲骨の辺りが熱を持ったように疼いた。昏見の肩甲骨には、生まれながらに奇妙な痣がある。これは化身と呼ばれるもので、舞奏の才の証明となるものだった。敬愛する祖母が、昏見の身体の中で唯一愛せなかった部位だ。
 昏見は舞奏の道ではなく、怪盗としての道を選ぶことに決めた。そのことには一分の後悔もない。
 これからも、昏見は自分の為すべきことを果たすだろう。
 
 *
 
 萬燈夜帳の新作の発売が決まると、書店周りは俄に祭りの雰囲気に活気づく。皋は元から小説というものが好きなので、こうして盛り上がっているのを見るのが好きだ。この熱気を引き起こしているのが、自分のチームメイトだと思うと、改めてその凄さに感動し、やや気後れしてしまう。
 常々思うことだが、闇夜衆(くらやみしゅう)のメンバーは凄い。認めたくはないが昏見の実力は凄いし、萬燈に関しては言わずもがなだ。皋と二人を比べると、未だに差は大きい。自分が二人に何かいい影響を与えられているんだろうか? と、しばしば考え込んでしまうくらいだ。自分がいなくても、二人は闇夜衆として活躍するだろう。
 でも、そうなってほしい……とは思わない。大祝宴に到達して願いを叶えるという目的があるのも当然だが、そうでなくとも──皋は二人と共に大祝宴(だいしゅくえん)の景色を見たい。
 そろそろ、次の舞奏競が始まる頃合いだ。櫛魂衆との戦いに敗れた闇夜衆は、次こそ勝たなければならない。
「はあ……今日も稽古やるかぁ……」
 誰に聞かせるでもなく一人ごちて、皋は洗面台の鏡に向き直る。初めて化身が発現した時も、この鏡で自分の姿を見た。
 皋は改めて舌を出して、そこに巣食う化身を見る。相変わらず目立つ位置だ。赤黒く存在を主張し、皋を願いから逃さない。
 ──その瞬間、化身が不意にその姿を消した。
「は……?」
 思わず、鏡に手を付いてまじまじと見てしまう。すると、そこには変わらず化身があった。
 見間違いか、幻覚だろうか。疲れているのかもしれないが、何にせよ不吉だ。自分に化身が無かったら──と思うとぞっとする。今の自分は様々な奇跡の上に成り立っていて、支柱となっているのが化身であるというのに。
「出た時は何だこれって思ってたのに、今となってはこれ頼りだもんな……」
 思わず乾いた笑いが出る。果たして、化身が無くなったら昏見と萬燈はどんな反応を示すだろうか。
 皋はそのまま長い間、自分の舌を眺めていた。確かめるように。繋ぎ留めるように。





著:斜線堂有紀

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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