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小説『神神化身』第二部 二十六話  「水鵠レジスタンス」

2021/11/12 19:00 投稿

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小説『神神化身』第二部 
二十六話

水鵠レジスタンス

 上手くいっていると思った時の方が危ない、とはよく耳にするアドバイスだ。上手くいっていると思い込んだが故の気の緩みがミスに繋がり、驕りに足を掬われるからだ。
 だが、水鵠衆(みずまとしゅう)の失敗に関しては、そうではなかった。
 上手くいっていると思ってはいたが、気は抜いていなかった。一回一回の舞奏(まいかなず)に対して真摯に向き合い、自分達の許に来てくれた観囃子(みはやし)を楽しませるよう全力を尽くした。自分達を観に来てくれる観囃子の歓心が存分に得られている、その手応えがあった。水鵠衆という名前を認知してくれる人間も増えた。当初の目的は順調に達成出来たのではないかと思う。それを受けて、阿城木(あしろぎ)達は一層華やかに舞ってみせた。一人一人が楽しめるよう、きめ細やかに対応した。

 思えばそれが良くなかった。
 水鵠衆の評判は瞬く間に広まり、観囃子を生み出した。今まで実態の無かった水鵠衆が、突然世界に波紋を広げていく様は鮮烈だった。だからだろう。水鵠衆は、舞奏披(まいかなずひらき)という本番を前に名を高め過ぎてしまったのだ。もし本当に計画を成功させようと思うのならば、水鵠衆は水面のギリギリに触れるべきだったのだ。大きな波を立たせるにはまだ早すぎた。

 阿城木がそのことに気がついたのは、泡の弾ける当日だった。

 その日の朝食は何度目かになるフレンチトーストだった。朝から甘くて重いものを食べることにも慣れた阿城木が淡々と自分の分を平らげていると、向かいに座っている七生(ななみ)が目敏く口を開いた。
「あれ、阿城木が食べてるやつ、なんか焦げてない?」
「ああ。ちょっと焦がしちまったんだよ」
 七生が気に入ったからという理由で、阿城木は定期的に朝食にフレンチトーストを出していた。卵液の配合や焼き加減の調整などは、初めて作った時よりもずっと進歩しているように思う。下手したら、カフェなんかで出せるんじゃないか……と自分の才能が恐ろしくなってしまったくらいだ。
 そんなことを考えていたからか、最初の一枚を焦がしてしまったのである。これは明確に慢心が故の失敗だ。少し苦みの強いフレンチトーストを噛みしめながら、阿城木は反省する。
「ふうん、焦がしたんだ。ふふん、気が緩んでるね」
「俺は菓子職人じゃねーんだわ。気の緩みもクソもあるかよ。自分で食ってんだからいいだろ。お前のは全部無事なはず」
「……別に、僕に焦げたところ渡しても怒んないんだけど……」
「嘘つけ」
 阿城木がそう言っても、七生はじっと阿城木のフレンチトーストを見つめている。まさか、焦げててもいいからこっちも寄越せということだろうか。七生の食欲はどんどん肥大しているのかもしれない。これ以上こいつをブラックホールにするわけにもいかないよな、と考えていると、不意に七生が口を開いた。
「なんか、上手くいきすぎてる気がしてたんだよね」
「は? 何が」
「阿城木のフレンチトーストはカリカリとふわふわの塩梅がどんどん絶妙になってるし、香りもふわっとしてて幸せな気持ちになるし、食卓にはメイプルシロップが常備されるようになったし、水鵠衆はどんどん有名になってるし」
「フレンチトーストと水鵠が三対一の割合になってんじゃねーか」
「だから、なんかちょっと怖い……。上手くいきすぎたことで、なんか……」
「そんなこと言うなら明日から和食一本にするからな」
「あーもうそういうことじゃないんだってば!
 七生が不服そうに言うのを聞き流し、食事に戻る。つまり、上手くいきすぎて怖いっていうのは、その後のしっぺ返しを恐れてでもいるってことか? この自信満々空元気の七生が? トラブルがあったらあったで不安そうにする癖に、フレンチトーストを暢気(のんき)に頬張っている状況でもシュンとするとはどういうことだろうか。
「別にいいだろ、上手くいってんならよ」
 そう言ったものの、阿城木にも得も言われぬ不安があった。自分の面前にある、全然完璧ではないフレンチトーストをじっと見る。焦げたフレンチトーストに今後を重ね合わせるなんて馬鹿げている。俺達はちゃんとやってるだろ、と子供のように言ってやりたくなった。
 その反論自体が的外れであることに気がついたのは、拝島(はいじま)の住む廃神社に辿り着いてからだった。


 

 廃神社近くの駐車場に車を停めようとした時点で、違和感はあった。普段より明らかに車が多く、人があちこちに散見される。今までも拝島のところに参りに来る『人の子』と会うことは多かったし、非公式の舞奏披を始めてからは、それを求めに来る人々にもよく会うようになった。だが、それにしてもこの数は何だ?
「もしかして、人気大爆発ってことなのかな……」
「だったらまあ……いいんだけどな」
 七生の言葉に対し、阿城木がそう応じる。この状況に戸惑っているのは廃神社の九尾の狐も同じなようだった。廃神社の中に入ってきた阿城木達の姿を認めるなり、拝島が勢いよく走り寄ってくる。
「入彦(いりひこ)~、千慧(ちさと)~! よく来てくれたぞ」
 精神安定の為なのか、拝島が七生をぎゅうとクッションのように抱きしめる。そして言った。
「廃神社の周りに人の子が集まりすぎているのだ。このままだと密集の上に路駐、人の子みんな我に夢中みたいな感じで心配だぞ」
「韻を踏むな」
「うーん、やっぱりそうだよね……。今までとは人の集まり方が違うよ。誰かが頑張って集めたとしか思えない……それか、知らない間にタウン誌に取り上げられたとか」
「七生、お前の考えるタウン誌の影響デカすぎるぞ」
「でもでも、我らを好きな観囃子が増えることは、いいことなのではないのか?」
 拝島が明るく言う通りではある。結局のところ、そうして支持を集めようというのが計画の趣旨だ。だとすれば、これは笑ってしまうほど予定通りの成果なはずである。
「……とにかく、舞奏の準備しようぜ」
 阿城木が言うと、二人も頷いて廃神社の奥に向かう。これから自分達は衣装に着替えて長刀を持ち、水鵠衆の舞奏を奉じる。普段なら心が沸き立つ時間なのに、何故か気分が晴れなかった。どういうことだ? と、阿城木はわざわざ口に出して呟く。思えば、阿城木はここで、何か対策を講じておくべきだったのかもしれない。だが、もう水は溢れ出してしまっていたのだ。

 

 舞台上に立つと、一際観囃子の多さが目に付いた。彼ら彼女らは一心に期待の目を向けており、そのことが阿城木の心を多少解してくれる。協力してくれる『人の子』の一人が舞台袖で頷いた。これで、合図すればちゃんと音楽が流れるだろう。
 七生が音楽を流すべく、手を挙げかけた。その瞬間だった。
「そこまでです。ここにいる皆さんも、舞台上にいる貴方達も、動かぬように。不要な声も上げぬよう」
 廃神社中に響くような、凜とした大声だった。集まっていた観囃子も、舞台上の阿城木も一斉に声のする方を見る。
 そこに立っていたのは、一分の隙も無い社人(やしろびと)装束に身を包んだ、背の高い老女だった。長く伸ばした髪は太く結われており、上野國(こうずけのくに)の文様のついた帯で縛られていた。顔には深い皺が刻まれており、彼女がかなりの歳を重ねていることが見た目から分かるようになっているが、声の張りも目の鋭さも老人とは思えなかった。
「噂は本当だったのですね。いやはや、それでもここまで歓心を集める様には一定の敬意を払いますよ」
 老女がくつくつと低い声で笑う。この間も、誰一人として声を上げなかった。場は静まり返っている。毅然とした調子で命令されると、人は自然と従ってしまうものだ。
 その中で、阿城木は思わず老女の名前を口にしていた。
「……横瀬(よこせ)さん……」
 彼女の名前は横瀬貞千代(さだちよ)。
 上野國舞奏社(まいかなずのやしろ)で一番力を持っている社人の家系──横瀬家の家督だ。実質的に上野國舞奏社の全ての決定権を握っている、阿城木が幼い頃から色々な意味で世話になっている相手だった。
「ああ、その不格好な仮面の奥はやはり阿城木家の入彦くんか。そんなものはもう意味が無いから」
 横瀬に促されるまま、阿城木は今まで着けていた狐の面を外す。ここまでバレてしまっているのだ。同じように七生も、狐の面を外した。
「入彦くん……」
 横瀬の隣に立っていた社人の筒賀嶺(つつがみね)が申し訳無さそうな顔で呟く。それを掻き消すように、横瀬が朗々とした声で言った。
「お集まり頂いた皆様には申し訳ありません。こうして水を差すような形となってしまって。ですが、こちらで大きな誤解が生まれていると知り、私どもとしてもそれを正さずにはおれなくなりました」
 観囃子が許可を得たと言わんばかりにざわつき始める。上野國の伝統や舞奏衆(まいかなずしゅう)としての正当性について正しく理解している観囃子だけじゃなくとも、目の前のこの威厳のある人物が『悪いこと』を正しに来たことだけは察せられてしまうからだろう。明らかに空気が変わっていた。楽しみに来たところに、こんな手入れのようなことをされれば、こうもなる。
「私は上野國舞奏社総掌(そうしょう)、横瀬貞千代と申します。この横瀬が上野國舞奏社を代表して申し上げましょう。ここにいる水鵠衆は、上野國舞奏社の承認を受けた正式な舞奏衆ではありません。本来ならば水鵠衆と名乗る権利は無いのです。勿論、彼らが好きで舞奏を奉じているのならば止める理由もありませんが、水鵠衆を騙(かた)り人を謀(たばか)るような真似を看過することは出来ません」
 ざわめきが一層大きくなる。それがどれだけ悪いことかは分からずとも、『騙る』や『謀る』という言葉の強さには戸惑いを隠せないようだ。いつもより人が多い分、その不安の伝播は強い。
 これが目的だったのか、と阿城木は今更ながらに思う。
 水鵠衆は名を広めすぎたのだ。そして、予想よりも早く、その名前が知られてしまった。そうして横瀬は──というより上野國舞奏社は、策を講じたのだろう。自分達が出張っていく時に、最も観囃子の数が多くなるように。そうして、この宣言がより効果的に波紋を広げるように。
 次に、横瀬は舞台上の阿城木達に視線を向けた。
「貴方達の考えていることは分かっています。水鵠衆の評判には驚かされますし、事実、貴方達を水鵠衆として見做(みな)す観囃子達の多いこと。上野國に舞奏衆が誕生したことを寿(ことほ)ぐ無邪気な皆さんには大変心を痛めている次第です」
「だったら……認めた方がいいんじゃないの?」
 そう言い返したのは七生だった。
「僕は七生千慧。れっきとした化身(けしん)持ちで、水鵠衆の覡主(げきしゅ)だ。舞奏社に認められるだけの舞奏を、僕らなら奉じられる」
 すると、横瀬はどこまでも冷静な声で言った。
「ここで化身伺をするつもりはありません。そうまで言い切るからには、貴方は化身持ちなのでしょう。様々な理由から他國を出てやって来る覡(げき)の例は歴史を見ても無くはない。ごく自然なことです。貴方がどんな来歴を持つ覡なのかは、上野國舞奏社でお聞かせくださいな。然るべき手続きの後に、上野國に所属して頂くこともあるでしょう」
 思いがけない申し出だったからなのか、それとも別の部分が引っかかったのか、七生がぐっと押し黙る。その隙に、横瀬が言葉を続けた。
「ところで、その目──貴方は拝島家の血筋ですね。化身を偽った者が舞奏衆を偽るとは、血は争えないものと見えます。相応の醜聞もあったようですし」
 その点は調べがついているのだろう。横瀬が溜息混じりに言った。
「……いかにも、我は拝島家の──……いや、我は九尾の狐で……この、その目は……」
 どういうスタンスで行くか迷っているのか、拝島がしどろもどろに言う。そんな拝島に対し、横瀬は意外にも微笑んでみせた。
「そうまで恐縮させようとは思っていません。貴方の先祖は確かに赦されないことをしましたが、私はカミがその化身をお与えになったことに注目しています。拝島家に対する舞奏社の抵抗は根強いですが、貴方が覡となる道は絶たれたわけではないと思いますよ」
「え……?」
 拝島はいよいよ何を言われているのか分からないようで、目をパチパチとさせている。
 戸惑っていたのは阿城木もだ。横瀬が極めて伝統に厳しい社人であることを、阿城木は誰より知っている。その彼女の口振りがこうであるということは……──まさか、水鵠衆をこれから認める心づもりがあるのだろうか? 思わず息を吞む。そんなことを考えていると、横瀬が最後に阿城木の方へと目を向けた。
「そう。問題となるのは貴方だけですよ。阿城木家の入彦くん」
「…………は?」
「そこの彼と拝島家の子孫には化身があります。ですが、貴方は? 貴方には化身が発現しましたか?」
「それは……──」
「なら、残念ですが……上野國舞奏社が貴方を覡として認めることは出来ません。水鵠衆を騙ることも許せません。貴方が、水鵠衆の結成を阻んでいると言わざるを得ません」
 肺に氷の刃でも差し込まれたようだった。上手く息が出来なくなる。横瀬の目が、獲物を見つけた獣のように輝いていた。
「ちょっと、それって……」
 七生の言葉を無視して、横瀬が続ける。
「阿城木入彦くん。貴方の存在が水鵠衆の成立を阻んでいるんです。貴方がいないのであれば、こちらとしても対応のしようがありました。貴方が事態をややこしくしているんですよ。それに、これは貴方自身にとってもよくありません。こういったことをされると、貴方をノノウとして舞奏披に出すわけにもいかなくなりますから。それどころか、上野國舞奏社に立ち入ることすら許されなくなってしまうでしょう」
 そこで、横瀬はわざわざ言葉を切った。
「他の二人の為を思うなら、少なくとも貴方は退きなさい」
「入彦に抜けろというのか!」
「この状態の水鵠衆を出来る限り残したいならば、という話になりますがね」
「そんなの出来るはずないでしょ!? 僕達は三人で水鵠衆なんだよ!?」
 拝島と七生が信じられないと言わんばかりに噛みついていく。
 自分が話題の争点になっているというのに、阿城木は何だか一人だけ放り出されたような気分になった。冷静に考えれば分かる。横瀬は恐らく、阿城木さえ外れればこの結束が解かれると思っているのだ。阿城木抜きの水鵠衆を二人が良しとしないだろうから、敢えてこう出てきたのだろう。
 頭では狡いやり口だと思っているのに、別の考えが脳を満たす。──もしかして、自分がいなければ水鵠衆は上手くいくんじゃないのか? 七生と拝島の二人の水鵠衆を、自分は邪魔してしまうのではないか? 化身を持っていない──カミに認められていない自分が、全てを台無しにしてしまっているのではないか?
「ふざけるのも大概にしろ!」
 阿城木の意識を引き戻したのは、殆ど絶叫に近い拝島の声だった。
「我は忘れておらぬぞ! 主らが我の目をどう扱ったかを、この目を呪いの証だと蔑んできた歴史を! だから我らは背を丸め、陽を避けるように舞奏を避けてきたのだ!」
「拝島……」
「だがよい! 主らの考えていることも理解が出来る。我らは呪われし拝島家だものな! 追われるが華であろう! だが、此度の流れは納得がいかぬぞ! 拝島家に生まれた我を受け容れるくらいなら、化身は無いが罪も無き入彦の方を受け容れれば良かったではないか! そうでなければあんまりであろう! 此度の入彦への扱いは、今まで拝島家に生まれた化身持ちへの侮辱ですらある! 持たないことは呪いよりも忌まれることなのか!? 入彦を斥けるが為に赦されるほど、我らが罪は温いものであったのか?」
 拝島が怒りに任せて叫ぶほどに、阿城木の身体がじわじわと解れていくのが分かる。自分のことで自分よりも怒ってくれる人間の存在が、これほど救いになるだなんて思わなかった。うっかりすれば、こっちが泣いてしまいそうだ。
「どうして理解出来ぬのだ! 主らは入彦の舞奏の素晴らしさを一番知っているはずではないか!」
 がなるように叫び立てたからだろう。拝島が咳き込む。そして再び、辺りは静まり返った。ややあって、横瀬が言った。
「ここで結論を急ぐことはありません。私達はここでの『騙り』を止めに来ただけですからね。それでは」
 横瀬はそう言うと、筒賀嶺を伴って去って行った。
 だが、空気は元に戻らなかった。偽物の烙印を押された舞奏衆が、今更ここで舞奏を披露出来るはずがない。阿城木が何とかここに集まった人々に説明し、今日の場は解散になった。


 

 廃神社に残った三人の空気も相当に冷え切ったものだった。特に、真っ赤に腫れた目をした拝島なんかは沈みきっている。
「もう泣くなよ……」
「くぅん、だって我……なんか……いっぱいいっぱいになって……」
 くぅんまでいくと、もう狐っていうより犬じゃねえの、と阿城木は思ったが、流石に口には出さなかった。拝島がどんな気持ちでああ言ってくれたのかを思えば、野暮なことを言えるはずがなかった。
 息が止まりそうな絶望に呑み込まれるより早く、傍らの二人は怒ってくれた。そのお陰で、阿城木は折れずに済んだのだ。冷静に状況を見る余裕も出来た。頼んでもいないのにもたらされた救いがどれだけ大きかったか、言葉を尽くしたって伝わらないだろう。だから、代わりに阿城木は静かに言った。
「悪いな。キツいことさせて」
「構わぬ。我は……我だって、好きでこう生まれたわけではない。拝島家の子孫になど……。入彦だって、化身があれば……」
「……去記(いぬき)、けど、……僕……ごめん、上手く、去記のこと守れなくて」
 七生が小さく呟く。それに対し、拝島がずび、と鼻を啜った。
「千慧ぉ……」
「まあ、その……お前の啖呵は格好良かったよ、拝──」
 そこで、拝島が軽く身を震わせたような気がした。少しだけ間を置いて、阿城木は改めて言った。
「……去記。あれは、俺も救われた」
「そうか? なら……良かった」
 そう言って、去記が微笑む。そのまま、背後のクッションにぽとりと倒れ込んだ。
「駄目だ……大泣きしたら眠くなってきたぞ。我、ちょっと寝たい……」
「ガキかよ」
「まあまあ、ちょっとくらい寝た方がいいかもよ。去記も大変だったんだから……」
 七生が言うと、許可されたと思ったのか、去記がすうすうと寝息を立て始めた。早すぎるが、それだけ気疲れしていたのだろう。
「ていうか阿城木さ、去記のこと去記って呼んだね」
「んだよ、いきなり」
「今まで拝島って呼んでたのに」
「それがどうかしたか」
 こんなことで、去記が拝島家に生まれ疎まれてきた過去が無くなるわけじゃない。だが、阿城木はこうして呼んでやりたかったのだ。
「どうも? どうもしないけど? 何せ僕はずっと去記のこと去記って呼んでたから。もう最初から最後までチョコたっぷりみたいな感じで、最初から最後まで去記だから!」
 七生がふふんと得意げに頬を膨らませる。どうやら、先に呼んでいたことを主張したいらしい。ネズミにも一丁前に縄張り意識があるんだな、と思う。
「おーおー、千慧くんはご立派ですこと」
 敢えて皮肉げにそう言うと、七生が驚いたように阿城木を見た。
「ねえ、今、僕のことも下の名前で呼んだ?」
「あ? お前まさか、俺がお前の下の名前覚えてないと思ってたのかよ。流石にそれはねーだろ、千慧で合ってるよな? 千慧」
「……もう一回、ちゃんと呼んでみてくれる?」
 そう言う七生の目は、何かを確かめているようで──そのささやかな〝確認〟の中に、阿城木入彦という人間がまるでいないことが分かってしまうようなもので──阿城木は一瞬だけ言葉に詰まる。こんなにも相手が自分を見ていないことが分かることも無いだろう。舞奏に精通している人間は、自分の内面を身体を通して表に出すことに長けるのだろうか。
 お前、どっから来て何を見てんの。何がお前にそうさせてんの。七生千慧の下半分、その名前の響きには何があんの。
 そう言うべきか迷っている内に、七生が首を振った。
「ごめん。やっぱりいいや。変なこと言ったね」
「いや、そこまで変なことってわけじゃ……」
「……にしても、これからどうしよう。阿城木の舞奏披に合わせて水鵠衆として打って出るっていうのも、これじゃあ厳しそうだし……」
 強引に話を変えられたが、切り替えられた先が重要な話だったから無下にすることも出来なかった。阿城木は浅く息を吐いてから言った。
「俺を切るって手もあるけどな」
「そんな手は無い。阿城木がいての水鵠衆でしょ」
 すかさず七生が言う。けれど、阿城木だって自棄を起こしてこんなことを言っているわけじゃない。さっきの一件で冷静さを取り戻したからこそ、敢えて言った。
「お前がそう言うと思って言ってんだよ、横瀬の婆さんはな。なら、俺は意地を張り通してもいい。廃神社で舞う、このままの水鵠衆もでさ。俺は上野國舞奏社からは追い出されるだろうが、社に所属してなくても舞奏が出来ねーわけじゃねえし。公の場で舞えなくなるのは惜しいけどな」
 七生が言葉に詰まる。その逡巡を掬い取るように、阿城木が続けた。
「でも、お前は駄目なんだろ。お前は、どうしても舞奏競(まいかなずくらべ)に出たいんだろ。ただ舞奏が出来ればいいってわけじゃないみたいだよな」
 以前同じような話になった時に、七生が見せた躊躇いを思い出す。恐らく、七生はただ舞奏が出来ればいい、というわけじゃないのだ。七生は明確に舞奏競を──大祝宴(だいしゅくえん)を目指しているのだろう。
「だったらお前だけでも、他國の舞奏社に行けよ。ほら、横瀬さんも言ってただろ。化身持ちが他國の舞奏社に身を寄せる例は無くはねーみたいだし、上野國の水鵠衆にこだわんなきゃ、どっかが出してくれんじゃねえの」
 ここで諦めるのは癪だし、阿城木は水鵠衆での舞奏を覚えてしまった。これを失うのは身を切られるように辛い。
 だが、それに七生を付き合わせるわけにはいかない、とも思う。七生に譲れない目的があるのなら、それを諦めさせてまで水鵠衆に引き留めたくはない。
 あの日、七生が蔵で阿城木にくれたのは希望だ。自分の舞奏には価値があると、七生千慧は教えてくれた。なら、阿城木はそれだけで十分だ。これからも舞奏のことを──愛してやれる。
「……今更何言ってんの? 確かに、僕は……舞奏競に出たいし、大祝宴にも辿り着きたい。でも、それは阿城木と去記の水鵠衆だから……だから、辿り着けるって思ってたのに」
「お前の言ってることも分かるけどさ。ここは意地張る場面じゃねえだろ」
「それに、来歴不明の、どこから来たのかも分からない覡を受け容れてくれるところなんてない。だって、僕なんか本当は存在しないんだから──」
 その言葉の続きを言われる前に、阿城木は思わず七生の手首を掴んでいた。心の準備無しでは怯んでしまいそうな冷たさがそこにある。こちらまで凍らせてしまいそうな、人を拒絶させる温度だ。けれど、ちゃんと掴める。
「お前、いるだろ」
「…………何」
「お前はここにいるだろ。上野國に、俺の前に」
 存在しないというのがどういう意味かは分からない。何らかの比喩なのか、本当の意味でそうなのか。もしこの言葉が何らかの真理であるのなら、阿城木の蔵に現れる前の七生千慧はどうなっていたんだ? もしかして、あの夜の出会いは七生にとっても賭けだったのか。そう思うと、何故か血の気が引いた。
「……そういうことを言ってるんじゃないってば!」
 七生が荒々しく阿城木の手を振り払う。
「今回のことは見通しが甘かった僕のせいだ。他の誰のせいでもない。僕の失態で大祝宴に辿り着けないなら、……──僕の責任だ。だから、僕だけ余所に行けなんて……言わないでよ」
「別に、お前のことを追い出そうとしてるわけじゃ……」
「もういい。ちょっと頭冷やしてくる。僕、今は冷静になれそうにないから」
 そう言って、七生が廃神社をふらりと出ていく。どこにも行き場所の無いような、寂しい背だった。この状況になっても、七生は何も語らないし、阿城木に助けも求めない。
 だから、結局何も出来ないんだろうか?
 そうじゃないはずだ。
 阿城木はしばらく七生の出ていった方を見つめてから、背後で眠る去記を揺り起こす。
「んう、まだ我四十二分くらいしか寝てない……」
「去記。まだ諦めねえぞ」
 阿城木がそう言うと、去記は急に目をぱっちりとさせて阿城木のことを見つめ返した。赤く光る化身の中に、阿城木がいる。
 お願いされれば断らないのが阿城木家だ。そして、目の前にいるのは願われれば与えんとする九尾の狐である。
 けれど、今だけはそのポリシーも建前も擲(なげう)ってやる。七生の為に、去記の為に、そして何より自分の為に──まだやれることはあるはずだ。
「俺達は水鵠衆だ。誰が認めなくてもな。そうだろ?」
「……ああ、そうかもしれぬな。入彦と千慧が認めてくれるなら、そうであろう?」
 事情なんかまだ把握していない、説明すらされていない去記がにんまりと笑う。目にはまだ涙の跡が残っていたが、そんなものは拭えば済む。
 まだやれることはある。舞奏披に出られなくても、舞奏社に認められなくても。足掻くことくらいは出来る。
 その為にも、阿城木はひとまず──日曜大工から始めなければならないだろう。




著:斜線堂有紀

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。



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