小説『神神化身』第二部
第六話
探偵を辞めてからも、皋(さつき)の家には妙な手紙が届いたり、あるいは記者に追い回されたり、あることないことを雑誌に書き立てられたりした。それは探偵なんてものをやっていた自分の払うべきツケであると思っている。
なんなら現役時代もこうだった。追い回されることで業務に支障が出る度に住居を変え、最終的には事務所に寝泊まりするようになったくらいだ。
だから、その手紙が届いた時も、皋は前と似たような誹謗中傷だろうと思った。覡(げき)として有名になってしまったが故に、またこうしたものが届くようになったのかもしれない、と。
だが中身を検めてみると、そうではなかった。几帳面な文字で綴られたその手紙をどうするか迷ったまま、皋は舞奏社(まいかなずのやしろ)に向かう。
社に着くと、稽古場には萬燈(まんどう)の姿しかなかった。萬燈は独演舞奏(どくえんまいかなず)の最終調整に注力しているらしく、小さな声で音程を取っている。この間聴かせてもらったものより少し違った曲に聴こえることに驚いた。この期に及んでもまだ、萬燈の曲は変わるのだ。ややあって、萬燈が振り向く。
「おう、皋。調子はどうだ?」
「そこそこってとこだな。お疲れ。昏見(くらみ)のやつがまだ来てないの珍しいな」
「あいつは今日、クレプスクルムの取材で遅れるんだと。あの店が瞠目(どうもく)に値すると広まるのはいいことだな」
萬燈がどこか嬉しそうに呟く。なんだかんだで、あの場所が一番好きなのは萬燈なのではないかと思うような表情だ。きっと、あの店が好きなのだろう。皋にはよく分からない、あの意匠を凝らした店内のルーツやオマージュ元を、萬燈が的確に指摘して褒めているのを見るし、あそこにやって来る萬燈は楽しそうだ。
そういうことが傍目から見て分かるくらいには、萬燈夜帳(まんどうよばり)と仲良くなったのかもしれない。
そんなことを考えていると、急に萬燈が距離を詰めてきた。まじまじと見つめられた後、不意に彼の口が開いた。
「お前、なんかあったか?」
「え、いや」
思わず口ごもると、萬燈が茶化すように笑った。
「そんな警戒すんなよ。お前が話したくねえことなら、ずけずけ踏み込んだりはしねえさ」
「圧が強いの自覚してんなら、ちょっとは気を付けろよな」
そう軽口で返してやる。出会ったばかりの頃は、油断すれば取って食われるような緊張感があったが、今は得体の知れない天才ではなく、ある程度の修羅場をくぐり抜けたチームメイトだ。
少し悩んでから、皋はゆっくりと口を開いた。
「なんか……手紙を受け取ってさ」
「手紙?」
「誹謗中傷とかじゃないんだけどさ、俺が探偵やってた頃に関わってた『拝島(はいじま)事件』についての本を書きたいから協力してほしいって依頼の手紙で。それが事件の被害者からの申し出だから断りづらいんだよ。や、協力とかはしないけどさ……」
今の皋は一介の覡で、探偵じゃない。探偵から見たあの事件の解決を、と言われても返答に困るのだ。探偵というものに失格してしまった以上、何を言う資格もない。
「その拝島事件っつうのがどんな事件なのか、聞いてもいいか?」
「詐欺だよ、詐欺。首謀者が拝島綜賢(そうけん)ってやつだったから、拝島事件。先祖の恨みを鎮めるって触れ込みの石とか、霊験あらたかな水なんかがメインの、スタンダードな霊感商法だったんだけど」
それでも、個人単位で行われたものにしては類を見ないほど巨額の詐欺だった。被害者も大勢いる上に、その中には拝島綜賢の売っていた商品を今でも信じている人間がいるくらいだ。その点、今でも根深い事件であるとも言える。
「その口振りだと、どうにも引っかかりのある事件のようだが」
「そうなんだよな。基本は拝島綜賢の起こした事件ではあるんだけど……その、拝島綜賢の甥っ子の……確か、拝島去記(いぬき)っていう……そいつが共犯扱いされてて。結構問題になったんだ。実際、拝島綜賢が詐欺を働く時、そいつをダシにしてたみたいで」
「ダシにする、か。あんまり気分のいい話じゃねえが。具体的にはどういうことなんだ?」
「拝島去記っていうのが、カリスマの化物みたいなやつだったんだよ。見た目も人間とは思えないくらい綺麗だったし。詐欺師ってさ、ある程度人間を騙す為の魅力がなきゃ成立しないんだよ。拝島綜賢には一流の詐欺師になれるようなオーラとかカリスマは全然無かった。そして、拝島去記にはそれらが十二分にあった」
初めて拝島去記の姿を見た時、これなら確かにどんな人間であろうと騙せるだろう、と思った。その姿には全く邪気が無い。こちらを害する予感など全く感じられない。カリスマ性という点では萬燈夜帳が群を抜いているだろうが、拝島去記のそれには他者を包み込むような温かさがあった。
この愛すべき人間を信じてみたい、と思わせることこそ詐欺師に必要なことであり、彼にはその資質があった。
「拝島綜賢も、去記を共犯だって言い張ってたしな。でも、俺はそうは思わなかった」
「ほう、理由は?」
「理由は無かった。なんか……いい人間だろうなって思ったから。あの時俺もまだ高校生だからさ、今ならもっと根拠があって見抜けたりしたんだろうけど」
でも、あの当時の皋は、拝島去記が共犯ではないと信じた。その独特な存在感が故に、誰もが詐欺師だと疑っていた彼のことを、何も知らない善人だと言い切った。
すると、周りの人間があっさりと掌を返した。拝島去記は巻き込まれただけの可哀想な被害者だということになり、拝島事件は一旦の幕を下ろした。
探偵である自分の発言の重さを、現実をある程度書き換えられてしまうことの恐ろしさを、思い知ったのもその時だった。
「でも、俺は絶対間違えない……間違えなかったから。裁判で実際に追及したら、拝島綜賢の単独犯でほぼ決まりって感じだったし」
「お前の判断は間違っちゃいねえよ」
萬燈が真剣な顔で言った。
「間違ってるかもよ? 駆け出し探偵の勇み足だったかも」
「自ら判断を背負ってる人間が間違ってるとは言えねえだろう」
そう言われると、返す言葉も無かった。萬燈夜帳に指摘されて納得しない方が難しい。
「……この感じを浴びてると、萬燈さんがいい人でよかったって感じがするわ。全人類にとってありがたい」
「おっと、いい人かどうかを決めるのは早計じゃねえか? 特に全人類にとってはな」
「これも俺の判断だからな」
皋がそう言ったところで、稽古場の戸が開いた。
「ごきげんよう! 全世界待望、登場するだけで全米が泣いてスタンディングオベーションともっぱらの噂である私ですよ!」
「挨拶の自己肯定感がたけえー……」
「所縁(ゆかり)くんの卑屈さをカバーする為に、いつもより高めに仕上げてあります! チームで助け合いながら平均高度を保っていこうと思いまして。萬燈先生もお元気そうで。一緒に高度一万メートルを目指しましょうね」
昏見が笑顔で言う。この明るさに救われた場面が無くもないので、何とも言えない。
「高度一万メートルっつうことは飛行機と張ることになるな」
「夢がありますねえ」
「あっという間に稽古場を摩訶不思議空間にするなよ」
「時に昏見。お前、拝島事件って知ってるか?」
萬燈がそう尋ねる。
「ああ、所縁くんが犯人を千切っては投げ千切っては投げして大立ち回りを演じたあの大事件ですね。覚えていますよ」
「ぜってー覚えてねーだろそれ! 大立ち回りをやったのなんかお前相手しかいねーよ。登場五秒から今に至るまでよくもまあ与太話で回せるな」
「えーっ、私が与太話をしなくなったら、ただの顔と声と頭と性格の良いこの若さで店を持っている『人生の勝者』になってしまいますけど、それでもいいんですか?」
「そろそろお前の自己肯定感でバベルの塔が建つぞ」
「言語を分かたれたくらいでは惑いませんよ。覡ですからね」
そう言って、昏見が稽古の準備をし始める。
「過去の事件に思いを馳せたいお年頃ですか?」
「そういうわけでもないけど」
勘が良い昏見は、拝島事件の名前が出ただけでも何かしらを察しているだろう。だから、事情を説明するより先に聞いた。
「お前ってさ、自分のやってたことに何の疑問も後悔も無いの?」
「過去の選択を後悔しない為に、今動き続けるんですよ、私は。過去の選択は変えられませんが、その選択がもたらす結果だけは、動き続けている限り変えられます。海の近くに土地を買い、農作をやろうとして失敗した人間がいるとしましょう。ですが、その場所に海を求める誰かを迎えるコテージを建てれば、その場所を買ったことを間違いとは呼べなくなるでしょう?」
「詭弁(きべん)だろ、それ」
「ええ、詭弁です。その詭弁に人生を懸けることこそ、夢を見ることじゃありませんか?」
どことなく意味ありげに昏見が言う。その言葉はやけに血が通っているような響きがした。
今、拝島去記はどうなっているのだろう、と皋は思う。出来れば、心穏やかに過ごせていればいいと思う。あの調子だと、どこに行っても注目されるだろうが。
ただ、拝島綜賢が最後に言った言葉が忘れられない。
拝島の血筋は詐欺師の血だ、という負け惜しみが。
*
互いに覡になってしまえば、変わらずにはいられない。今までのように佐久夜(さくや)と時間を過ごすことは二度と出来ない。巡(めぐり)はそう思っていた。
だが、いつものように佐久夜は、巡の向かいの席で黙々と食事をしている。ハンバーグとステーキがセットで載った鉄板は、佐久夜の前には二枚あった。ご飯を含めれば総重量が八百グラムはあるセットを、佐久夜は表情も変えずに胃に収めていく。
「ねー、佐久ちゃんって稽古の後にお腹空くタイプ? 運動するとお腹減るよね」
「俺は普段からこのくらい食べるだろう」
「ということは逆にカロリー足りてなくない? 普段の業務に加えて舞奏(まいかなず)の稽古も始めたってのにさー! 俺の佐久ちゃんが痩せ細っちゃったらどーしよー!」
「筋肉量が落ちないよう調整はしている。毎朝体重は量っているしな」
「そういうことじゃなくてさー! もー、佐久ちゃんギャグで言ってんのかマジなのかわかんないって! 佐久ちゃんのことだからマジなんだろうけどさあ!」
巡がけらけらと笑うと、佐久夜は一つ大きく頷いた。どういう意味かはわからないが、納得してもらったならいいことだ。
「それにしても、久しぶりの俺の舞奏どうだった? ブランクありまくりだからマジでキツかったんですけど!」
今日が覡としての初めての稽古だった。鵺雲(やくも)が所用で来ていなかったから、あまり本格的な始まりという感じがしなかったが。
久しぶりの舞奏はあまり身体に馴染まず、手の先が震えた。鵺雲がおらず、佐久夜と二人きりだったことが幸運だったのか不運だったのかはわからない。
窺うように佐久夜の方を見ると、彼は静かに言った。
「……素晴らしかったと、俺は思う」
顔はいつもの無表情だ。だが、嘘は言っていないだろう。少なくとも、及第点は貰える出来だったらしい。ひとまずそのことに安心する。
「尤(もっと)も、離れていた年月分足りないところはある。身体が硬くなりすぎだ。体力の低下も著しい。だが、お前が真面目に稽古をすれば、他國の覡には負けない舞奏が奉じられるようになるだろう」
「ちょっとちょっとー! 褒める時は褒めるだけでいいじゃん! 佐久ちゃんのいじわる!」
「事実を述べたまでだ」
佐久夜はしらっとした顔で、再び白米の山を崩しにかかった。
「でもまー安心したよ。佐久ちゃんが覡になって、俺も覡になっちゃって、今までみたいな大親友じゃなくなっちゃったらどーしよーって思ってたから」
「変わるはずないだろう。どれだけ長い間一緒にいると思ってるんだ」
「あはは、そーだよねー」
巡は笑って、自分も白米に箸をつけた。そして思う。
恐れていた通りだ。変わらずにはいられなかった。
こうして何も変わっていない振りをして、前と同じように食事をしていても、心が変わってしまっている。
自分は本当に素晴らしい覡だろうか? 御斯葉衆(みしばしゅう)に忠節を誓うと言った佐久夜の期待に応えられるだろうか? 今までにはなかった焦燥(しょうそう)が、巡のことを焼いている。
佐久夜の食事量がいつもと変わらないことが安らぎだった。自分以外の人間と先に食事を取っていないことがわかるから。
「そういえばさ、あれから鵺雲さんと二人で話した? 俺のことなんか言われてそうで怖いんだけど!」
「話はしたが……お前が御斯葉衆に入ることを喜んでいた。感謝もしていたぞ。……お前に」
「へえ、九条(くじょう)家の跡取りにそんなに喜んでもらえるなんて嬉しーわ」
ホテルで交わした会話を思い出す。あの目は、巡の焦燥に気がついていない目じゃなかった。全てを見通した上で、こちらに選ばせた目だ。あれを喜んでいると呼ぶのは、ちょっと好意的が過ぎる。それでも、そのことを直接佐久夜には言わないだけの分別があった。代わりに、笑顔で続ける。
「ブランクありまくりな俺を励ますための社交辞令じゃなきゃいいけど」
「社交辞令なんかじゃない」
きっぱりと佐久夜が言う。その後、まるでそのことが失言であるような顔をして続ける。
「…………社交辞令のはずがないだろう。こと舞奏に関しては、……厳しい方だ」
「あはは、確かにあの人はガチだわ。じゃあ、佐久ちゃんは?」
「俺がどうかしたか」
「佐久ちゃんも喜んでる? なーんて」
冗談めかしてそう尋ねてみる。だが、返答なんて要らなかった。佐久夜が社人らしい模範解答を口にする前に、話題を変える。
「そもそも、あの人何で相模國(さがみのくに)じゃなくて遠江國(とおとうみのくに)に来たの? もしかして、あんま出来がよくないっていう弟くんに覡の座を譲る為? だったら怖すぎ」
「まだ、そのことについては話して頂いていない」
「えー、マジで? あの人、何を目的としてんのかがわかんないのが怖いんだよなー」
「だが、目的なら聞いている」
佐久夜はそう言いながら、静かに目を伏せた。
「鵺雲さんが求めていることは、素晴らしい舞奏を奉じ、舞奏に豊穣をもたらすことだ」
「はは、九条家らしい模範解答で笑うわ」
それに、雷を連想するあの男にも似合っている。雷は豊穣(ほうじょう)と結びつけられやすい。雷は豊かな雨を連れてくるからだ。だが、雷は畏怖(いふ)すべき厄災としての一面も持っている。むしろ命を一瞬で焼き焦がす熱こそが雷の本質かもしれない。その熱に怯え、寄り集まり、生き残りたいと思って死に物狂いで繁る哀れな作物もいるのではないか。
「ま、俺はそんなご大層なこと全然思わないけどねー! 俺は、適度に舞奏を頑張って、栄柴(さかしば)ってやるじゃーん、巡くんかっこいい! って言われることを目標にするから」
「お前も少しくらい建前を使え」
「いいじゃん二人っきりなんだし! みんなの前ではちゃーんと栄柴っぽいこと言うからさあ!」
そうして、巡は目を細めながら続けた。
「ね、佐久ちゃん。今度の稽古の後は俺の舞奏のいいとこを教えてよ」
「ああ。いいところがあったらな」
佐久夜がつれなく言う。社人としての義務感から覡になった真面目な佐久夜は、巡が外に出しても恥ずかしくない程度の舞奏が出来ればいいと思っているのだろう。
だが、それだけでは終わらせない。舞奏の隆盛を願うお綺麗で模範的な九条家の血に、栄柴が勝たなければ。
「ドライすぎんだろ! じゃ、まー、巡くんの本気出しちゃおっかなー」
本音と建前が錯綜(さくそう)している中でも、傍から見れば凪いでいる。舞奏衆(まいかなずしゅう)を組んでも何にも変わらなかったね、と鵺雲から言われたらどうしよう、と巡は思う。
著:斜線堂有紀
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©神神化身/ⅡⅤ