ゆとり世代は、単に若者だから社会から違和感を持たれているわけではない。彼らは、ここ100年――いや日本の歴史を見渡しても、かなり特殊な世代であるというのがぼくの分析である。
このことは、ぜひゆとり世代の人々に知っておいてほしいと思ったので、今日はそのことについて書きたい。
ゆとり世代の特徴のうち、他の世代と特に違うところの一つに「親と仲がいい」というのがある。以前、こんなことがあった。
事務所でアルバイトの学生を募集したところ、応募してきた人がいた。面接し、採用となったので、その旨を伝えようと事務所のスタッフがメールをすると、このような返信があったのである。
「家に帰って親に相談したところ
ここから先は有料になります
ニコニコポイントで購入する
チャンネルに入会して購読する
- この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。
コメント
(著者)
>>1
ぼくが確認したところ、そういうコミュニケーションの形態に何か重大な変化が起こったわけではなく、むしろ意識の中で、個人の感情や思いはより尊重されるべきだという思想面での変化が大きいようです。
そこでは個人の感情が何より優先されるので、例えば、「嫌」といえば何でも許されると思っていて、「嫌」ということが許されない場面への想像力が、著しく欠如されることになるのです。
これはさすがに牽強付会なのでは?ゆとり世代が特殊なのはそうでしょうが、それは我々のタイムスパンの問題(どの世代もそれぞれ特殊でしょう)であって、だからどうなの?という気がします。別の次元で生きる能力的な話はあるかもしれませんが。個人的には「勉強するな」というのはエリート主義だと思っています。なぜならエリートは勝手に勉強するので社会が階級化するからです。むしろ自由に勉強できるので先端は伸びるかもしれません。だから肯定するというのはまた別ですけど。
(著者)
>>3
歴史を勉強すると分かるのは、長いスパンのマクロな視点で見ると、「どの世代もそれぞれ特殊」とはいえないと言うことです。歴史が動くときと、歴史が動かないときとがある。
ただし、ミクロな視点で見ると、それぞれの世代や、あるいは個人の人生がそれぞれ特殊というのはその通りかと思います。ぼくがここで話しているのは、あくまでもマクロな視点のことです。
(ID:1168733)
たとえば英文法には「完了形」という「話し手が聞き手に、原因から結果を想像させる伝え方」があり、現在の日本語ではこれが 失われながらも文脈や暗黙知としては残っているのですが、「ゆとり世代の子とその親の関係性」の中では「原因から結果を想像することを半ば強制する暗黙の了解(ダブルバインド的なものも含め)」さえも失われつつあるということでしょうか。