今週のお題…………「私がシビれた異種格闘技戦」
文◎田中正志(『週刊ファイト』編集長)…………木曜日担当
お題を貰って、真っ先に思い浮かべたのは1980年2月27日に蔵前国技館で行われた、アントニオ猪木対ウィリー・ウィリアムスの「異種格闘技戦」である。新日本プロレスで新間寿営業本部長が敏腕を振るった大躍進期、後世の歴史からは黄金期の象徴であり、ライバルの全日本プロレス、あるいは海外との比較においても、プロレスというジャンル内での差別化戦略の切り札だった。その実験の積み重ねがあるからこそ、同じ1993年にU系プロレスから派生したパンクラス、柔術最強を証明するためにグレイシー一族が主催者を兼ねたUFCが日米で始まった。宿命だったとしか、偶然では説明できない歴史の転換期である。記者は以前から、1993年をシュート革命元年だと定義してきた。
MMA総合格闘技という、ケツを決めないで見込み大会をプロモートしていく新種のプロ興行。今でこそ普通に継続しているため問われなくなったが、必ずしもHappy Endingにならないスポーツ・エンタテインメントが、お金を払って入場券を買って下さるお客様に広く支持されるものなのかどうか。少なくとも80年代では、そうは思われてなかったと留意して欲しいのだ。
猪木ウィリーは、今週のお題で谷川貞治さんが同じカードについて書かれている。補足的な部分を軸に「昭和プロレス」とは何であったのか、当時の時代背景を解き明かしたい。すでに大阪のタブロイド紙「週刊ファイト」を愛読するような意識的なプロレスファンの間では、「予定調和になり過ぎてもどうたら」の議論が出始めていた頃だ。異種格闘技戦の興奮は、第一に本人たちにすらダブルクロスされる恐怖の付きまとう、リスクファクター認識が注意事項のアトラクションであること。さらに、よくわかってないままセコンドに付いていた両陣営の殺気もまたスリリングの肝だった。
1978年末にロードショー公開されたのが梶原一騎総指揮のドキュメンタリー映画『四角いジャングル 格闘技世界一』である。新日本プロレスと極真空手を軸に、猪木、怪鳥ことベニー"ザ・ジェット"ユキーデ、ザ・モンスターマンらは少年・青年たちを熱狂させるに十分な迫力だった。エンディングのバラード曲「エバーモア」が妙にせつなかった。英語版まで製作されたこのシリーズは翌79年の『激突!格闘技』、80年の『最終章 格闘技オリンピック』の三部作へと続く。
1979年4月6日、日本テレビ『全日本プロレス中継』の時間帯が土曜夜8時枠から土曜夕方5時半開始に移動する。8月26日の武道館にて、東京スポーツ20周年記念『夢のオールスター戦』が開催。BI砲が8年ぶりに復活して、ブッチャー&シン組に快勝した。ここでもダブルクロスがあった。ファンタジー活字だと、予定になかった猪木の「馬場さん、次に同じリングに上がるのは闘う時だ!」のマイクが馬場の態度を硬化させたことにされているが、真相は違う。プロレス界には序列が存在する。新日ブームが到来する80年代ならともかく、この時代の格は誰が見ても馬場が上だ。その馬場が腹心のブッチャーをフォールして勝ち名乗りを上げるのがフィニッシュ自然の流れなのだ。にもかかわらず、猪木がすでに話をつけておいたシンを丸め込んだ。
目立ちたがりの猪木が新間寿と「シンとは話をつけたから」と、馬場にこのフィニッシュのお願いに上がったともいう。先輩の特権をさしおいて勝ち名乗りコールを受けたのは猪木。馬場の猪木に対する不信感と怨念は決定的なものとなり、テレビ朝日からの1億円オファーにもかかわらず、「馬場対猪木」は永遠に実現しなかった。
東スポはファン投票でBI砲の相手を公募したが、ガチンコ集計では凶悪コンビではなく、ファンクスが一位だった。また、「当初は引き分けの約束だった」との噂がまことしやかに流れたこともあったが、これもありえない。自分が作る側にいればとの想像力を働かせれば、「引き分け話」は広報記者用に意図的に流されたものと察しがつくだろう。
そんな時代の専門メディアは「活字プロレス」の創始者=井上義啓先生(I編集長)率いる週刊ファイトの黄金時代だった。翌80年には村松友視の作家デビューとなる『私、プロレスの味方です』が出版され、自称他称問わずインテリがプロレス好きをカミングアウトする契機となって一般読者にも相当数が売れた。村松氏はのちに直木賞を受賞、専業作家となってヒット作を連発する。
元アイドルというフジテレビの売り出し戦略によって"セクシー・パンサー"ミミ萩原がデビューしたのは78年だ。「87連敗」というお仕事の記録は、当時の興行日程を鑑みても不滅の大偉業である。これはルー・テーズの「936連勝」、ヒクソン・グレイシーの「400戦無敗」ギミックと違い、正真正銘の本物だ。プロレス芸術の底なし沼は果てしなく深い。
梶原一騎プロデュースの「異種格闘技戦」最高の興奮度だったのが、ウィリー・ウィリアムス戦である。両陣営のセコンドたちは台本を知らされておらず、取り巻きたちの鬼気迫る熱気が、ある意味で主役だった。この試合を観た予備軍たる青少年たちへの影響を考えれば、大山倍達の武勇伝を劇画にした『空手バカ一代』の極真空手と、新日本プロレスのふたつが果たした格闘技界への貢献は計り知れない。
私自身は大学生。同志社プロレス同盟(DWA)の試合を作る側にして、同人誌『WRESTLING DIGEST』を主宰していた。異種格闘技戦はどうしたら面白くなるのか、京都・日本正武館の亡くなられた鈴木正文館長(異種格闘技戦のレフェリー役)と知恵を出し合っていた頃だ。すでにアルバイト待遇ながら週刊ファイトにも執筆を始めている。
ボイコットに揺れた「モスクワ五輪」の1980年は世界の王貞治がバットを置いた年だ。芸能界では山口百恵が引退、松田聖子やたのきんトリオがデビューするなど"交代の年"と説明されることが多い。さらに年末、ジョン・レノンが射殺され波乱のディケイドを予感させた。
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