今週のお題…………「私がシビれた異種格闘技戦」
文◎ターザン山本(元『週刊プロレス』編集長)………金曜日担当
A・猪木がライフワークの一つにして来た異種格闘技戦とは何か? それを定義しようとしたら次の言い方ができる。それはプロレスファンにとって最大のファンタジーだった。だってそうだろ? 猪木が自分のホームグラウンドである新日本プロレスのリングで格闘家と闘い結果として試合に勝つ。そういう構造だったからだ。
プロレスファンのプライドをこれほどくすぐるものはない。異種格闘技戦という概念を考え出した人は相当な知恵者だ。いや悪知恵といってもいい。最初から格闘家を猪木の噛ませ犬、もしくはプロレスの噛ませ犬にしているのだ。えげつないよなあ。そりゃ格闘技の関係者からするとアタマにきただろう。きて当然だ。プロレスとプロレスラーの優位性を証明するための装置。それが異種格闘技戦だった。こんなファンタジーはない。
ところで私は1977年2月、関西で唯一の全国紙だっだった「週刊ファイト」の記者になった。その時、すでに30歳。よくそんなロートルを社員として採用したよな。これについては「週刊ファイト」の井上編集長に感謝するしかない。一生の恩人である。「週刊ファイト」は東京に支社があり、そこにはベテランの松下記者がいた。関東地区での取材はその松下記者が担当。ビッグマッチがあると私は応援部隊として東京に出張出来た。
めったにないことなので非常に嬉しい。入社して8ヶ月、10月25日、日本武道館で異種格闘技戦が開催された。生で猪木さんの異種格闘技戦を観戦する最初のチャンス。その頃、「週刊ファイト」では突撃取材が至上命令だった。試合リポートよりもサイドストーリー。その舞台裏の真実をえぐり出す。そのネタをもとに読者のハートをわしづかみにしていくという戦略のことだ。そのためには外国人レスラーや格闘家が宿泊しているホテルに乱入。突撃取材を敢行する。当時は団体に取材申請するルールがなかった。やりたい放題。
その時の猪木の相手はチャック・ウェップナー。2年前の1975年3月24日、あのモハメッド・アリの初防衛戦で闘い大いに善戦。ウェップナーは全くの無名だったからだ。この試合を見ていたシルベスター・スタローンはウェップナーのファイトに感動。後に彼をモデルにして映画「ロッキー」を作り世界的大ヒットとなった。私はウェップナーが泊まっていた新宿の京王プラザホテルに通訳の女性を伴って行った。フロントからウェップナーの部屋に電話する。らちがあかない。インタビューを受ける気配がないのだ。ようしそれなら部屋まで押しかけてやれだ。ノックする。根負けしたのか我々を部屋に入れてくれた。
おおおおおおお、なんというスイートルームだ。奥が広い。あれ、女性の姿がチラッと見えた。奥さんか? 違う。彼女のように映った。しかし初めて目にしたウェップナーにはアスリートとしての雰囲気はゼロ。そこらへんにいる単なるアメリカ人のおっさんではないか。こりゃダメだと思った。まるで物見雄山で日本に来た。そんな感じなのだ。ああ、こういう取材はしてはいけないのだ。まずいよな。全ての裏が見えてしまう。そう直感した。異種格闘技戦の現実を目の当たりにしてしまったのだ。
だからといって私は失望したりはしない。幻滅もしない。ブロレスへの情熱も冷めない。そこが私の不思議なところなのだ。人と違う変なところなのだ。武道館の会場に行っても私は冷静だった。どんな試合になるのだろう。どんな試合を作るのか? そっちの方に興味がいった。作り方だ。見るとリングに上がったウェップナーはやっぱりただのおっさんだった。セミリタイヤもいうところ。猪木さんはそんなウェップナーを逆エビ固めで決めて勝った。そうかこういう時は逆エビなんだと変に納得。これがプロレスだよな。猪木が勝てば何事もファンにとってはファンタジーになる。見事な世界だ。私はあらためて異種格闘技戦=ファンタジー説に確信を持った。
猪木についてあるいはプロレスについて考えることは喜びである。それ以上、何を求める、望むというのかである。押忍!
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