国際プロレスの崩壊を見届け、全日本プロレスではウルトラセブンに変身して、伝説のインディ団体パイオニア戦志やオリエンタルプロレスでは剛竜馬の片腕だった男高杉正彦が登場! プロレス界の歴史から封印されかかっているセブンや剛竜馬の秘話についてたっぷり語っていただきました! 剛竜馬とSWS田中八郎のタッグの金銭感覚が尋常じゃないんです……!! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!
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――高杉さんは前田日明さんに新生UWF入団を掛けあったり、インディの先駆けとなったパイオニア戦志をパンクラスのようなシュートスタイルでやろうとしたりと、ガチンコ方面の意識が強いのはやっぱり腕に自信があったからなんですか?
――Dropkickメルマガの読者はガチンコ系の話が大好きなんです!
高杉 俺が入った国際プロレスの吉原(功)社長は力道山時代の日本プロレス道場の師範代だったでしょ。力道山先生は忙しくて道場にあまり来られなかったから、吉原社長が現場を任せられたんだよ。あの人は早稲田のレスリング部の出身だからね。
――競技志向だったんですね。
高杉 プロレスの創成期は柔道や相撲からの転向が多かったから、みんなレスリングのブリッジができなかったんだよね。社会人だった吉原さんが力道山道場へ練習に行ったときに「レスリングを教えてやってくれ」ということで。それだから吉原さんはガチンコにはうるさかった。
高杉 そうですね。あの頃が大学に行く・行かないじゃ給料や役職も違ったでしょ。だから親が「大学だけは行ってくれ」ということでね。俺は勉強もできたから(笑)。
高杉 日大のアメリカンフットボールか、東海大のレスリング部。どちらかを推薦で入れることになったんですよ。ボクは神奈川県の秦野高校という田舎の学校に通ってて、東海大だとまた4年間田舎で過ごさないといけないのがイヤだったんですよね。だから日大で(笑)。
――でも、プロレス志望だったらレスリング部を選ぶじゃないんですか?
高杉 レスリングもやりたかったんだけど、あの当時ってフットボール上がりで有名なプロレスラーがいっぱいいたでしょ。デストロイヤーとか。
――アメフトもプロレスへの道のひとつではあったんですね。大学在籍中に元日プロの金子武雄さんのボディビルジムに通いだしたんですよね。
高杉 アメリカのフットボーラーは冬場に身体を鍛えて、夏場にプレイするって感じなんだけど。日本の場合はあまりウエイトトレーニングをやらないから。フットボール部は1年でやめて、身体を鍛えるために金子さんのところに行ったんですよ。あそこにはボディビルダーやキックボクサーとか力自慢がいっぱい来てて。マットやバーベルもあっていろんな練習をさせられましたよ。シュートの練習もやりましたし。
――プロレス団体ならどこでもよかったんですか?
高杉 ホントは新日本プロレスに入りたかったんですよ。
――高杉さんは山本小鉄さんの私設ファンクラブ『豆タンク』を作るくらいですもんね。
――どうして小鉄さんのファンクラブなんですか?
高杉 自分がプロレスラーになったときに山本さんや星野勘太郎さんのような選手になりたいと憧れてたんです。
――かなり渋い高校生ですね(笑)。
高杉 普通だったら猪木さんや坂口(征二)さんでしょ? ボクの場合はヤマハブラザースが好きだったんです(笑)。前座や中堅レスラーの試合が好きだったんですよ。それでファンクラブの会報を作ってたりしてね、山本さんが「新日本の事務所に遊びに来なさい」ってことで会員みんなで押しかけたこともあったし。山本さんは凄くいい人でしたよ。
――新日本に入るために何かアクションは起こしたんですか?
高杉 新日本の事務所にお願いしに行ったこともありますよ。「入門させてくれ」と頼んだんだけど、応対してくれた新間(寿)さんが「ダメだ」と。
高杉 とくに言ってくれなかったし、よくわかんなかったね(苦笑)。ガッカリしたままジムに戻ったら先輩方が「高杉、今日は元気がないな」って声をかけられて、事情を説明したら「会長に話を通したのか?」と。断られた話が会長の耳に入ったら「馬鹿野郎! ホントにプロレス団体に入りたいなら話をつけてやるから、ちゃんと練習してろ!」と。
――金子さんは業界に顔が利くわけですもんね。
高杉 それで吉原社長に紹介してくれたんですよ。あの当時の金子ジムの人間はだいたい国際。吉原さんと金子さんは力道山道場のときに仲が良かったから。
――高杉さんは国際でもよかったんですか?
高杉 こうなったらどこでもいいなって(笑)。
――当時は簡単に入門できないですもんね。
高杉 なれない、なれない。あの当時は東大に入るより難しいんだから。東大なんか試験があるんだからさ、勉強すれば入れるでしょ。プロレスは試験がないんだもん。何かしらツテがないと合宿所に入れないから。
――金子さんの紹介で国際には簡単に入れたんですか?
高杉 横浜文化体育館で国際の興行があったときに会長と一緒に行ったんですよ。会長が吉原さんに話をしてくれたんだけど、「もう選手がいっぱい。大学の柔道部やレスリングからも入れてくれって頼まれてる」ってことで断られたんだよね。当時は就職先がないからプロレスに入りたい奴がいっぱいたんですよ。
――相撲や柔道に成り手はたくさんいて。
高杉 日プロの若手も凄かったでしょ。東京五輪のマサ斉藤、ラクビーからグレート草津さん、大相撲のラッシャー木村さん。まあ凄いのばっかだよ。
――無理やりだったんですね(笑)。当時の合宿所には誰がいたんですか?
高杉 あんときは田中(忠治)さん、デビル紫さん、鶴見五郎に剛竜馬、若松(市松)さん。5人くらいかな。
――合宿所はどんな建物なんですか?
高杉 プレハブだったね。渋谷にあったときはビルだったんだけど。ボクが入ったのは昭和52年だから、ちょうど国際の経営が傾いてきたときで大宮にあったんですよ。都落ちだよね。プレハブの1階が道場で2階が寮。
――練習は厳しかったですか?
――まず体力の壁があるんですね(笑)。
高杉 ほとんどの奴はすぐに逃げちゃうね。1日2日は耐えられるけど、「これがずっと続くのか……」って考えたらね。
――絶望的になりますよねぇ。シュートの練習では誰が強かったんですか?
高杉 鶴見さんが強かったですね。レスリングをやっていたし、動きが柔らかくてふわっと真綿みたいに極めてくるんだよね。剛とか力任せだから「あ、これは1年もすれば勝てるな」って思ったよ(笑)。
――ハハハハハハハハ! 新人ながら見切ってましたか(笑)。
高杉 感覚でわかるんですよ。あと鶴見さんは汚い極め方をやらないから。
――汚い極め方ですか?
高杉 カール・ゴッチがやるようなやつ。普通にやって極まらないと、目に指を入れたりとか汚い手を使うんだよ。
――ああ、尻の穴に指を突っ込むってやつですね。
高杉 吉原さんもそういうのは嫌ってたから。日プロはみんなそういう汚いことばっかやってたから(笑)。
――日プロって前座の試合からメチャクチャだったんですよね。
高杉 だってケンカだもん、ケンカ。平気で腕を折ってくるからね。
――力道山vs木村政彦のセメントマッチじゃないですけど、「やれるときはやっちまえ!」という。
高杉 でも、吉原さんはそんなのは嫌ったね。そこは大卒の方だから。
――あ、学歴の問題ですか(笑)。
高杉 そういうもんですよ(笑)。国際の前座もケンカみたいな試合になったよ。無法地帯。
――油断はできないんですね。
高杉 もうメチャクチャですよ。若いと血気盛んだからそういう試合になっちゃうんだけど、後味が悪いんだよねぇ。だから頭のいい人はやらなくなるんだよ。
――そこは学歴があるかどうかなんですね(笑)。
高杉 負けたほうは頭に来るから仕返しを考えるでしょ。力道山先生が木村政彦のことをやっちゃったときなんて、木村政彦の地元・九州を巡業するときは力道山先生のことを●●●が取り囲んでボディガードとして守っていたというからね。
――命懸けだったんですねぇ……。
高杉 あの頃は戦争あがりで「いつ死んでもいい」という連中がいっぱいいたかたね。
――だからこそリング上でもいつ仕掛けられてもいいように腕を磨いて。
高杉 国際は今日はボクシング、次の日はレスリング、3日目は相撲ってやらされるんだから。それに試合もコレで決めていたからね(シュートサイン)。
――えっ、どういうことですか? 凄く興味があります!(笑)。
高杉 道場のコレの強さで決めてたんだよ。吉原さんが「この子は強くなってきたから上で使おう!」と。
――セメントが強くないと上にはいけない。ロマンがありますね!
高杉 国際はね、そういう部分があったよ。だからみんなコレのやる気があったんだよ。いまのプロレスとは違いますよ。
――形は違いますけど、全日本女子プロレスの前座も「押さえこみルール」の完全実力主義で。
高杉 そうだったみたいね。
――男子レスラーのあいだでも、あの「押さえこみルール」は知れ渡っていたんですか?
高杉 知ってたよ。冬木や阿修羅がしょっちゅう女子プロを見に行ってたんだよ。「なんでそんなの見に行くんだよ」って聞いたら「面白いんですよ。時間は決めてるんですけど、それを過ぎたらコレなんですよ」って。ビックリしちゃってさ。話によると、やっぱり女は最後をどうするかで揉めるんだって。だったら全女の社長が「ある程度やったらあとは好きにしろ!」と。
――実力で決めろ!という。
高杉 だから押さえこみのブリッジのやりとりは凄かったじゃない。見てて面白いもんね。
――道場の強さが反映されていた国際も凄いですね。
高杉 上の人間はそうでもないけど、下の人間はそうですよ。メインの人間でも最近は不甲斐ないと感じたら、社長は「道場で稽古しろ!」って命令してね。
――いないですか?
高杉 木戸(修)さんくらいじゃない。あと長州(力)か。
――藤原(喜明)さんは?
高杉 藤原は強くないでしょ。藤原は若手やぺーぺーには強いけど、上の人間には勝てないでしょ。長州が新日本に入ったとき藤原に勝てなかったそうだけど、長州がいろいろとおぼえたら全然みたいだし。
――長州さんはオリンピックレスラーですもんね。
高杉 藤原と浜さん(アニマル浜口)の試合も見たけど、藤原はまったく通用しなかった。藤原は身体が細いし、地力がある選手には勝てないんだよ。木戸さんなんて太ももが凄いじゃん。
――フィジカルは強そうですよね。ラッシャー木村もやったら凄かったという話ですよね。
高杉 木村さんは……強くなかったんじゃないかあって。相撲は強かったのかもしれないけど。やっぱりリングでやらせたら草津さんが一番だったよ。運動神経もよかったし、コレは草津さんも凄かった。息子もK−1をやったでしょ。
――草津さんはラクビー日本代表ですから身体能力をハンパじゃなかったんですね。原さんもラクビー日本代表でしたけど。
高杉 阿修羅は力があったね。でも、闘争心がない。優しすぎたねぇ。逆に草津さんは闘争心が凄かった。日プロのときに生意気だってことで試合中に腕を折られたことがありますからね。
――ところで、高杉さんが入門した頃の国際の客入りはどうだったんですか?
高杉 いや、入ってたよ。健闘はしてたね。年間で7〜8シリーズで150試合くらいやって、外国人も呼んでいたでしょ。そりゃあ新日本・全日本のほうが強かったけど、国際もけっこう入ってたんですよ。
――給料も遅れることはなく。
高杉 俺は入ったときはもう遅れてたね。まともに出たのは1回だけ。
――1回だけですか!?
高杉 まともに全額もらったことはない。それでもサラリーマンの倍くらいはもらえるんですよ。
――当時のプロレスは稼げるんですねぇ。
高杉 ボクが入った頃はそれでもお客はいたけど、全日本と対抗戦をやってから本当にダメになったね。木村さんや草津さんが全日本のレスラーに負けるでしょ。ファンは負けた選手の団体を見に来ないでしょ。そこは顕著だよね。ガクッと入らなくなる。
――潰れるんじゃないかと思いました?
高杉 潰れるとは思わなかったけどね。12チャンネル(テレビ東京)もついてたし、試合内容も良かったからいけると思ってたよ。
――のちにパイオニア戦志を一緒に立ち上げる剛さんも、斜陽の国際を離脱して新日本に移りますよね。
高杉 剛はギャラに不満があったんですよ。彼は俺と同い歳だから22歳。ほかの先輩は30歳を越えてて所帯を持ってたでしょ。国際って所帯持ちを優遇するんだけど、剛からすればメインでもやってるのにギャラがなんで少ないんだって不満があるわけですよ。そこでちょっとでもギャラを上げてやればいいのに、そこは吉原さんってヘタだったね。俺なんかも全然上がらなかったから。
――それだと、やりがいは出てこないですよね。
高杉 1年間やったら査定してあげないと。プロなんだから。だって5000円10000円のギャラを上げたってたいしたことないでしょ。外国人には俺たちの3倍くらいのギャラを出してるんですから。
――国際を離れる剛さんが人情なしの悪者になった風潮はありましたよね。
高杉 うーん、そこは半々だね。先輩方は怒ってたけどね。「八木(剛竜馬の本名)、みんな苦労してきたんだぞ。おまえだけじゃねえんだ!」って説教されてましたよ。
――というと、剛さんは先輩の前でも不満を漏らしてたんですか?
高杉 剛はよくグチるから。酒を飲むとグチばっかだから(笑)。それに阿修羅が国際に入ってきたでしょ。阿修羅のほうが素材はいいから、剛は次期IWAチャンピオン候補だったけど、阿修羅にその座を取られちゃった。その焦りも剛にはあったんですよ。
――それだったら、ほかの団体で……という。
高杉 そうそう。
――高杉さんは、経営が苦しくなっていった国際プロレスの最期を見届けますね。
高杉 潰れる年の3月に12チャンネルとの契約が切れたでしょ。そのあとフジテレビと交渉してたんですよ。あの当時のプロレス団体ってテレビ中継がないとやっていけないから。国際は最初に放映していたTBSとの契約が切れたけど、12チャンがついたからやっていけたんだよね。
――多くの所属選手に給料払って、外国人レスラーを呼ぶにはテレビ局からの放映権料がないと無理ってことですね。
高杉 フジテレビは女子プロ(全日本女子プロレス)を放送してたし、社長が「決まりそうだから頑張ってくれ」と期待をもたせてたんだけど、7月の頃にはダメだとわかって。その頃、草津さんはケガが理由で営業に回ってたけど、巡業コースも切れないという状態になってね。もうこれで国際も終わりだなって。
――北海道シリーズの羅臼町大会を最後に幕を閉じたんですね。最終興行は感慨深いものがありました?
高杉 いやあ、あんまり……。
――感慨なし(笑)。
高杉 俺は前々からメキシコから呼ばれてたから。内心「早く潰れてくれ」って思ってたんだよね(苦笑)。
――ハハハハハハハハ!
高杉 早くメキシコに行きたくてね(笑)。国際の最後ねぇ……羅臼もお客さんは入ってましたよ。地方だと新日本も全日本も変わらないんだよね。みんなプロレスが見たいから、ポスターを張って宣伝カーを回してちゃんと営業をやれば、田舎の人は見に来る。国際には金網デスマッチという看板があるから、金網をやれば客は来るから。
――当時のメキシコに日本人レスラーはいたんですか?
高杉 俺が呼ばれたエンプレッサ(EMLL)には日本人はいなかった。UWAには小林邦昭、グラン浜田、ヒロ斉藤、栗栖正伸の4人かな。会場に行ったらUWAとエンプレッサの対抗戦をやってたんだよね。控室に行ったらグラン浜田と小林邦昭がいて、邦昭が「なんでいるんですか?」ってビックリしちゃって。
――面識はあったんですか?
高杉 うん。邦昭から「どこに泊まってるんですか?」と聞かれたから「ホテルに泊まってる」って言ったら、邦昭が住んでる日本人のアパートが一室空いてるからってことで誘われて。邦昭にはいろいろとケアをしてもらいましたよね。
――小林さんはメキシコでかなり稼いでいたけど、ペソが暴落したことで国外退去したんですよね。
高杉 そうそう。向こうは変動相場でね、日本円が半分になっちゃうんだもん。邦昭も最初の半年間で1000万円貯めたというんだけど、それが半分になっちゃったということで。メキシコに住んでるぶんには問題ないんだけどね。
――それくらい稼げるということは現地のプロレス人気は高かったんですね。
高杉 凄かった。トップは年間で3000万くらい稼いでたから。
――そのメキシコ遠征の途中に全日本プロレスでのウルトラセブン変身計画が浮上したんですよね。
高杉 全日本の人間から連絡があって「馬場さんが会いたがってる」と。あのときタイガーマスクが新日本で凄い人気だったけど、全日本のジュニアはそうでもなかったでしょ。大仁田はまだまだだったし、そこで俺に白羽の矢が立ったんじゃない。山田隆さんっていたでしょ。
――全日本中継の解説をやってた東スポのデスク。
高杉 山田さんが俺のことを馬場さんに言ってくれたみたい。「元・国際でこういう選手がいるから、馬場ちゃん取ったほうがいいよ」と。
――ウルトラセブンのマスクマンに変身するアイデアは誰が出したんですか?
高杉 それは俺が売り込んだの。新日本でタイガーマスクの人気が凄かったじゃん。それに対抗するにはマスクマンのほうがいいんじゃないかなって。それに俺は身体が小さいから、トップを取るにはマスクマンしかないから。
――当時は身体が大きくないとトップは張れなかったですね。ウルトラセブンのほかに候補はあったんですか?
高杉 いろいろと考えたんだよ。ライオン丸とかさ(笑)。メキシコにいたヒロ斉藤が言うにはさ、ウルトラマンが新日本に来日したとき凄い人気だったんだって。
――円谷プロの許可を取らずに勝手にウルトラマンを名乗ったルチャドールですね(笑)。
高杉 試合はしょっぱかったけど、地方に行くと子供たちはウルトラマンに群がるんだって。その話を聞いて「これだ!」と思ってね。でも、ウルトラマンは先にやられてるでしょ。だったら「ウルトラセブンだ!」ってそういう話ですよ(笑)。
――ウルトラマンの後追いだったんですね(笑)。
高杉 それで日本の弟に「ウルトラセブンの本を送ってくれ」って連絡したんだよ。写真がないとマスクが作れないから。でも、あの当時は昭和57年頃か、世間的にはウルトラシリーズの人気がまるでなかったんだよね。人気がないから本も売ってないんだって(笑)。
――ちょうどテレビ番組のウルトラシリーズが打ち切られた年なんですよね。
高杉 本屋を3〜4軒歩いてようやく「ウルトラシリーズ入門」という小さい本を見つけて、それを送ってもらったんですよね。その本をマスク屋に持ちこんでセブンのマスクを作ってもらったんだよね。
――メキシコではセブンのマスクを被って試合はしたんですか?
高杉 メキシコでは被ってないです。とりあえず帰国したけど、秋頃のシリーズから出ようかなって考えていたら、全日本から「夏のシリーズから出てくれ」って。そのシリーズにはマスカラスやチャボ・ゲレロが来るんだよ。そんなところに出たら、せっかくのセブンが死んじゃうのに。
――マスカラスと一緒だとセブンは埋もれちゃいますねぇ。
――馬場さんにセブンのマスクは見せたんですか?
高杉 見せてないね。
――ということはセブンの動きも見てない。ウルトラセブンというコンセプトだけで馬場さんはGOサインを出したということですね。
高杉 そうそう。それで大宮スケートセンターで興行があったときに「明日、大仁田への挑戦状を持って来てくれ」って言われてね。こっちは青森で知り合いと飲んでたのに大宮まで行くのが大変だったよ。
――けっこう行き当たりばったりですね(笑)。
高杉 そのあと全日本の道場で練習をさせられたんだよ。佐藤昭雄さんから「高杉、若い選手とやってくれないか」ってことで。あの頃の若手は三沢光晴、越中(詩郎)、(ターザン)後藤あたりか。冬木はもともと国際にいたから知ってたけど。5分一本勝負で4人とやったのかな。夏の暑いときでさ。
――どうして馬場さんはそんなに慌ててたんですかね。
高杉 そこはわからない。こっちもどういうファイトスタイルにするか固まってなかったし、もうちょっと準備期間がほしかったよね。大仁田とジュニア選手権をやるという計画だったんだけど、こっちは大仁田と手を合わせたことないんだから。佐山は邦昭と前座の頃から何度もやってるでしょ。だから相手の動きもわかるし、タイガーマスクと邦昭はいい試合になったんでしょ。
――ところでウルトラセブンは円谷プロに許可を取ったんですか?
高杉 取ったんですよ。最初は円谷プロからクレームが来たんですけど。
――「最初は」って勝手にやったんですね(笑)
高杉 日本テレビか全日本のどちらかにクレームが来たんですよ。そんときの全日本は馬場さんが会長で、日本テレビの松根(光雄)さんが出向社長。その松根さんが何度も円谷プロと交渉したらしいですよ。ウルトラマンとか勝手にやられてイメージを壊されたけど、松根さんは「今度は大丈夫だから」と。それで後楽園ホールに見に来たんですよ、円谷プロの人間が7人くらいで。
――もうデビューしてるのに確認するって、昭和のいい加減さが出てますね(笑)。
高杉 そんときはチャボ・ゲレロと組んで大仁田&佐藤昭雄とタッグマッチだったんだけど。それがいい試合でねぇ、後楽園ホールがひっくり返るような盛り上がりで。これは自分の中でも最高の試合だったよ。客が沸いて沸いて!
――査定試合としては最高の出来。
高杉 円谷プロの人間が松根さんに「今回はいいですよ!」ということで。だから許可はもらってるんですよ。
――でも、円谷プロの歴史上、公認したプロレスラーはウルトラマンロビンだけということなんですよ。
高杉 ウルトラマンロビンなんてレスラーじゃねえべ(笑)。
――高杉正彦非認定レスラー、ウルトラマンロビン(笑)。いや、円谷プロが公認したレスラーという話で。
高杉 そうなの?
――円谷プロとのあいだに契約書はあったんですか?
高杉 どうなんだろうね?
――全日本から円谷プロに使用料などのお金は払っていたんですか?
高杉 払ってないでしょうね。
――払ってない!
高杉 そこは俺と全日本のあいだにも契約書はなかったから。口約束だけ。あんときさ、ウルトラセブンのTシャツを売ったりしたらかなり儲かったと思うよ。元子さん、やればよかったのに。
――そういうサイドビジネスがあってもいいはずですよね。
高杉 だってファンが押し寄せて「セブンのマスクを売ってください!」って凄かったんだもん。でも、こっちはメキシコで10枚しか作ってないから売るわけにはいかないでしょ。あの頃は客が入ってたから、Tシャツやマスクを作ったら凄く売れたと思うよ。
――お話を聞くかぎり、全日本の戦略性をまるで感じないですね。もっとうまくプロデュースすればいいのに!(笑)。
高杉 だって第5戦で若手だった越中詩郎にピンフォール負けしたんだよ。来週熊本で大仁田とのジュニアヘビー級選手権が決まってるのにさ。
――そんなバカな!!(笑)。
藤波辰爾vs剛竜馬「敗者追放マッチ」の真相、SWS選手全員反対でご破算になったパイオニア軍団のSWS入り、メガネスーパー田中八郎と剛竜馬の狂った金銭感覚コンビ、剛竜馬の最期……インタビューはまだまだ続く!
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