「おとめ妖怪ざくろ」を観てきた。
気が付いたことがあったので公演中だけど感想を書くことにした。
原作の物語の主役は、ざくろなんだから舞台の主役もざくろだろう、と思っていたら違ってた。
お客がたくさん来そうだからと言って、総角を主役にするなんて、この舞台ではありえない。
遊馬くんのファンは何も遊馬くんが主役でなければ観に来てくれないなんて、
そんなファンはいないに違いない。
だって「ハイキュー‼」では彼は主役ではなかったでしょう、
でも彼のファンはほとんど芝居のなかった「ハイキュー‼」でも、
あの立ち姿の美しさにリピートしたでしょう。
営業サイドが勝手に思い違いをして、しかも原作を守るべき人たちまで見過ごしてか、
君を主役にしてしまった。
しかも原作のタイトルロールの「ざくろ」を主役の座から引きずりおろしてまでだ。
遊馬くんを主役にする=主役を総角にするのだったら、
原作を脚色して、総角視点の物語を作ればそれは成立するし、そういう作り方もある。
でもこの舞台、ほぼ原作をそのまま踏襲していて、
多少の端折りはあったがそれはコミックス6巻分ぐらいを2時間に詰めるので、
その意味では脚本は良くできていると思うのだが、何せ、主役は誰がどう見てもざくろだ。
原作準拠だからだろう、ざくろの心理に思い入れて観ていればずーっと舞台についていけるし、
面白い。
女心の揺れにも乙女心の恥じらいにも娘の母への想いにも同意できる。
それをざくろ役の野田和佳子さんがタイトルロールへの責任感からだろうか、
必死になって頑張って全力でざくろに立ち向かって演じている。
そこが伝わってくる。そこでこの舞台が成立している。
歌も上手だから拍手したくなるのではない、誠実に歌っている姿が美しいからだ、と思う。
こういう営業的な目線で原作の捻じ曲げが許されるなんて、あってはならない。
そのプレッシャーがどれだけ遊馬くんに重くのしかかったか、
彼の舞台上の動き見ていると、時々視線が舞台空間を彷徨い泳いでいる、立ち姿も揺らいでいる、
どこか気持ちが落ち着かないように見える。
自分が主役と、プロデューサーも原作出版社もOKしてる。
宣伝でも主役だった、
カーテンコールでも自分はラストの登場でセンターだ。
自分は主役なんだ、座長何だと言い聞かせて、稽古場でも舞台にも立っただろう、
その責任を引き受け、それを感じる気持ちの分だけ彼は頑張ったに違いない。
その頑張りが彼の体の動きを束縛し、自由に動き回れる余裕をなくさせたに違いない。
しかも舞台の物語は自分が主役の物語にはなっていない、
周囲の俳優たちの目も、それは違うと言っている。
なんでなんだ、責任感と彼の頑張りが、現場でずれを感じる分だけ、
こころの落ち着かない気分満載にさせたのだろう。
それも彼の舞台上の演技に影を落としたに違いない。
何が違うんだろう、違ってあたりまえなんだよ、
舞台上で演技に集中するには全く余計な問題に心奪われるなんて、しなくていいんだよ。
遊馬くん、舞台の物語は原作通り、ざくろが主役だ。
君は主役のざくろの一番の相手役という役どころなんだ、
主役だからとか座長だからとか、
そんなこと忘れてただの主役の相手役の立場でざくろの芝居を受けるつもりで、立てばいいんだ。
思い荷物しょっていただろうけどそんなものほっぽり出して
君はただざくろを見ていればいいんだ。
この脚本は二人の関係がざくろ視点で丁寧に書かれているから、
ざくろの心理を君が受け止めればそれで舞台はもっと深く成立する。
願わくばあと何回かの公演の間にこのことに君が気が付いて、
君の心の中を整理して吹っ切った芝居を見せてほしい。
そうすれば普通にはできている舞台がもっと面白くなるだろう。
コメント
コメントを書く