2016/07/11
3:15 pm
相葉裕樹くんの「グレイト・ギャツビー」をサンシャイン劇場で観てきた。
面白かった。
原作のスコット・フィッツジエラルドの小説は学生時代に読んで好きになり、
その後村上春樹が翻訳したので改めて読み直し目から鱗の翻訳の違いに驚いた。
昔見た映画もロバート・レッドフォードのかっこよさと虚しさにしびれた記憶がある。
そんな人物像が頭に入ってる物語、
どんなふうに錦織一清さんが演出するのだろうと思ったら、
たぶん演出家としては小説の通りを心掛けたのだろうと思うが、
その部分は成功していたと思う。
でもいかんせん人物の姿にロバート・レッドフォードの姿がかぶってしまい、
目の前の舞台上にどうしても1920年代のどん底から這い上がり
金銭的に何不自由しない域に達した、
アメリカ社会そのものの人物像が焦点を結ばなかった。
ロバート・レッドフォードは幸運だったのかもしれない。
彼の時代は疾風怒涛の1960年代、社会の空気を一身に体現していた天才役者が、
1920年代初頭の空気を、
時代と役者の関係を熟知していただろう彼が渾身の演技で表現したこの映画、
時代の空気がどこにあるかが分かりにくい現代に生きている限り、
時代の空気を背負う、という感覚は不可解だろう。
とても丁寧な芝居しようとこころがける主役の努力は見え好感は持てたけど、
時代が生んだ世紀の天才の演技、
これを超えるのは常人では不可能ではないか、ということを痛感させられた。
1920年代のアメリカ、資本主義社会の怒涛の成長期、
あらゆることが可能な時代、あらゆる可能性から落ちこぼれた人々、
這い上がってから見えたのはそこには何もない、
ひとびとは彼の邸宅に集い引き潮のように消えてゆく、
目の前のものは見えていても彼の見たいものは見えない、
ただ一つ彼が普通の人であった時に出会った人、をほしい、
時間を巻き戻せないことはわかっていた、
一緒に這い上がって来ていたなら愛は完結しただろう、
共有できない時間が過ぎていったあいだに二人はすれ違う、
たぶん再会した愛が実ったとしても
その愛は砂上の楼閣のように崩れて消えていくのだろう。
社会の正義はお金を稼ぐことにある時代、
社会的に成功するという目的を実現しても人は虚しさから逃れることはできない、
本当の目的はお金を稼ぐところには無い、どうしたらよいのか、というメッセージも虚無的だ。
こんな空気が舞台上に観たかった。
でもそれはほとんどなかったけど、舞台は舞台で楽しめた。
さすが原作小説のちから、羽原大介の脚本が原作の物語の激しい部分をうまく繋ぎ合わせ、
演出も上手に客観の説明を取り入れ、
転換のシャマクの前で事件のあらましをうまく観客に伝えてくれた。
説明は饒舌でいらないんじゃないというところもあったが
たぶん転換か衣装替えの時間稼ぎもあったのだろう、
許容範囲に入れておこう。
この人たちこれから一体どうなるのよ、
という劇の引きは次第に強くなり、意識は集中された。よくできていたと思う。
相葉裕樹くんは彼のまじめに見えて、もともとまじめです、
ちょっとひよわにも見える、というキャラクターが役にとても似合った。
楽屋に入り、素直な芝居をほめたのだけど、
ほめるだけではいけないと思い、ちょっとしたダメ出し。
長い脚ときれいな体の線をもっと意識しなさい、
一瞬でも集中を抜くとほんの少し体が前かがみになる、
って癖ですね、これ損だよ、と伝えた。
言うことが伝わったのかは不明、素直にそうか、と言ってたけど。
また飲もうねとパチリ。
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