2016/02/13
3:19 pm
「DNA SHARAKU」を新国立中劇場で観た.
豪華な舞台で楽しませてもらった。
とは言いつつも、お芝居の中身はかなり残念。
何が言いたいのかが分からなかった。
物語は、写楽が日本を代表するクリエーターで、
そこを殺せばなぜか日本から想像力と好奇心が無くなってしまう、
何か僕に見落としがあるかもしれないが、
写楽を殺せばAIが人間を思うがままに操れる社会になる、
だからAIが時代をさかのぼり写楽を殺して、今の世の中を操ろうって、話に見えた。
でもこの物語、作り手が勝手にそう言う設定を作っただけに見える。
想像力と好奇心が無くなるとそれはつまらない社会が出来るだろう、
だから写楽を殺させてはいけないって、そうですね、どうぞ頑張ってやってください、
みたいな気分で舞台に同化して物語を楽しむには至らなかった。
これがテーマだとしたらこのテーマがなぜこの舞台上で必要なのか、
もっと何か材料をくれないと舞台全部の意味が分からない。
何かしらの今の日本に対する暗喩だとしたら、
暗喩の「暗」が暗すぎて本質の姿が見えなかった。
具体的なストーリーは、主人公二人がいて、
この二人はそのAIの意図を察知して写楽を探し出し助けなければならないと
タイムマシンに乗って江戸時代に出かける。
ただこの二人の写楽を探す必然的な動機と、
その動機を持つにいたったその人なりのちょっとした性格とか人格が具体的な場面なり、
会話のやり取りでは何も語られていない。
単に設定としてこういうお絵かきの得意な人と音楽が得意な人がいて
その人の好きなことが失われてしまうから、
写楽がAI(人工知能)に殺されてしまう前に探しだして彼を救わなければならない、
として物語を始めただけ。
何でその人が音楽なりお絵かきなりがその人になくてはならないものになったか、
その動機があって何が何でも写楽を探し出し争いを止めなければならない使命感が出るし、
熱量も発生する。
ここは物語の重要な要素なのでほんの少しの言葉だけではなく
,エピソードが無くてはならない場所だと思う。
物語の中の人間は設定を作り、こういう人で、こういう役割を持たせました、
動機はこう作りましただけでは生きてこない。
それらの設定を舞台に中で小さなepisodeでいいから語って作り上げなければならない、
オリジナルの舞台脚本はそこが難しい。
その人がなんでその人なのか、
何でそのような人間になったかが客席を含めた舞台空間の中で共感できなければ、
作中人物はただの作り手の自己満足の人形にしかならず舞台空間に共感の輪は広がらない。
舞台を分かりにくくしていることの一つに、
時代をいくつにもまたがって物語を作っていることがある。
今回は、何で2016年と2045年と2116年(?)が出てくるのか、良く分からない。
主人公たちが時間軸の中を動いていつの時代のどこに行ったのか戻ったのか、
江戸時代にいる時だけは分かるが、そこ以外、どの時代で何が起こったのかも含め混乱した。
小説や漫画等印刷物で表現される物語は、
時間軸がどんなに移動して混乱して理解しにくくなっても、
ページを戻って確かめれば理解できる。
時間表現としての舞台では、時間軸を動かして一つの舞台の上でいくつもの時代が登場すると、
今はどの時代の話だったか分かりにくく、受け手は混乱する。
一度、混乱し始めると確認する術がなく混乱のまま不可解な気分が残る。
だからもしそのように時間を動かすのだったら簡単に理解できるような仕掛けを作らなければならない。
具体的な物語も1幕の始まりからエンディングにまでストーリーが終始一貫した物語として流れず,
特に2幕の途中から、
江戸時代のキーパーソンの花魁が愛する人だろう若者を殺されてから自身の着物を脱ぎ棄て、
レオタードと思しき衣装に脱皮しダンスを踊り始め、
やがてそのダンスに多くの登場人物が参加し群舞に移るあたりからは
理解不能のままエンディングとなってしまった。
花魁の悲しみは深くなかったのだろうか、
悲しみを表すことをなぜ続けなかったのだろうか、
絶望のなせるダンスだったのだろうか、
それにしても振付の問題かもしれないが僕にはこのダンスに悲しみの表現は感じなかった。
また花魁が着物を脱ぎ棄て白い現代風?未来風衣装に身を包む場面以降は、
時代も時間も空間も無視してしまっていて、それがいつのどこなのかは表現されていない。
この無視が何を意味するのか、理解不能だった。
このくだり以降は、物語全体を結論付ける部分だろうと思うのだが、
そこがそれまでの物語と通じていないので、
僕の感情は宙ぶらりんのまま放り出されてしまった。
この部分以降のお話は、
演出家も脚本家も物語を論理的にも感覚的にも納得できる結論のつけ方を見つけられず、
何かしら風変りに目先を変えて結論を緩やかな比喩的表現で逃げようとしたか、
ごまかしてしまおうとした、としか僕には見えなかった。
歴史的に見ると今の日本の漫画アニメ文化の源は
少なくとも「鳥獣戯画」まではさかのぼれるだろう。
浮世絵もそこから流れ出たある時代の一つの表現で、
今の日本の漫画もアニメも「鳥羽僧正」に負うところが大きいのは常識だろう。
フィクションだから歴史的事実を無視するのは何も問題ない。
ただし、それをするなら舞台の始まりのところで、今の日本の出来事ではない、
同じように見えるけど別世界の出来事だとか、
設定として歴史的事実は無視して物語を進めますよ、とか大きな嘘を公言してほしい。
この舞台には紫式部も尾形光琳も出ていたし、
「絵」としては「鳥獣戯画」のウサギとカエルも出ていたし、
河鍋暁斎の絵と思われる動物たちも出ていたので、
作り手の方たちは、何が日本のこの種の歴史の始まりで
どういう流れで、今に至り、
今後どのように社会の変化があっても、
この舞台で言っていた日本の文化の底辺には
「鳥獣戯画」があると分かって作っていたことは間違いない。
そこから抽象化表現として抽出したであろう、
この舞台で言う「好奇心」と「想像力」が
その後の日本のいまにいたる文化の底辺を成していたことには異論はない。
でもその象徴がなぜ「写楽」で「鳥羽僧正」でなはないのかは何の言い訳もなかった。
映像は、素晴らしかった。
舞台映像では、舞台空間に日常世界のリアリティを持ち込んではいけない、というのが僕の持論だ。
元々舞台は誇張と省略表現で成り立っている。
その日常世界の現実ではない舞台空間に、
日常世界のリアリティあふれる映像が投映されると、
舞台空間の虚構がばれてしまい、
観客が働かせている想像力を奪ってしまうという作用をもたらす、というのが僕の理屈だ。
今回はそれをとても上手に回避しながら、
日常世界の具象の映像を抽象化しデザイン化して使っていて、
映像の持つ伝える力と人の目を奪うビジュアルショックを持っていて、
観客の想像力を奪わずに楽しませることに成功していてとても好感が持てた。
舞台の映像の使い方、舞台で投映する映像の作り方についてはとてもセンスがあるスタッフだと思う。
このセンスがあるのだったら、
何で人間の造形とストーリーの説得力に注力しなかったんだろう、もったいない。
歌が凄い。聞き惚れる歌唱力。中川晃教・新妻聖子・藤岡正明さんいう事ない。
歌に入ると救われる、聴いていれば気持いいから。
映像が映ると救われる、ただ観ていれば気持いいから。
終演後、楽屋に藤岡正明さんを訪ねた。
あのいつもはエネルギーに満ち溢れている彼が疲れていた。
お酒が好きな彼なので本番中でも行こう、と誘ったけど、
別件の仕事が入っていてすぐ出なければいけないと言われ、残念だ、
ぜひ飲みたいので機会作ってと言われた。
たぶん言いたいことが在るんだろうと感じた。
機会を作るね、と言って別れた。