その時には、音が聴こえていた。
いや、音じゃない。
声――
鳥のさえずるような声だ。
ちゅ ちゅちゅちゅ
くけっ くけけ くけけ
ちいっ
ちいっ
チチチチチチチチチチ……
ちゅちゅちゅちゅ
ひとつの口から出る声ではない。
幾つもの口から出る声。
それが、どんどん大きくなってくる。
そいつが、急速に近づいてくるからだ。
上から、地上に向かって――
地上にいる牛に向かって。
見える。
そいつの身体から、無数の頸(くび)のようなものが突き出ているのが。
蜥蜴のような首。
鰐(わに)のような顎(あぎと)。
虎のような頭部。
そういうものが、数えきれないほど、そいつの胴から生えているのである。
そして、無数の腕。
その腕の途中から、獣の顎が次々に出現してさえずるのである。
ちいっ、
ちいっ、
ちいっ、
ちゅ、ちゅ、ちゅ、ちゅ。
ぐげっ、
げぐっ、
ぎる。
ぎぎるるるる。
一本の腕そのものが、顎に変ずるのも見える。
牛に近づくにつれて、顎の数が次々に増えてゆく。
眼も、鼻もない。口と顎だけの頭部。その顎の中に、幾つもの肉食獣の牙が見える。
その牙の間に、赤い舌が躍る。
舌の先から、大量の涎(よだれ)が落ちてくるのが見える。
遠く離れているはずなのに、菊地にはそれが見えた。
久鬼だ。
あの久鬼麗一だ。
あの久鬼がこんなにおぞましい獣になって、あそこにいる。
「久鬼いっ!!」
菊地は叫んだ。
叫んだ時には、その獣が真上から牛に襲いかかっていた。
激しい声で、牛が鳴いた。
しかし、その声も、キマイラ化した久鬼の、無数の獣のさえずりや、唸り声、喉を鳴らす声でさえぎられた。
巨大な爪で、そいつは、牛の背を抱え込むようにしてつかんだ。爪が、二〇センチも牛の肉の中に喰い込んだ。牛が立っていられたのは、ほんのわずかの時間であった。
牛は、横倒しに倒れていた。
その上に、そいつがのしかかっている。
牛の二倍は大きさがあった。
無数の顎が、同時に牛を啖(くら)いはじめた。
ぞぶり、
ぞぶり、
と、巨大な顎が、牛の肉を喰いちぎってゆく。
小さな首が、長く伸びて、牛の腹の中へ潜り込みながら、牛の肉を喰ってゆく。細い頸が、蛇がえものを呑み込む時のようにふくらんで、そのふくらみが、そいつの胴の方へ移動してゆく。
そいつの身体の間から突き出ている牛の脚が、まだ動いている。
牛はまだ、生きていた。
生きながら、牛は、その獣に啖(くら)われているのである。
「まだだ――」
菊地の横で言ったのは、久鬼玄造であった。
無線で、ライフルを持った男たちに、連絡しているのである。
「久鬼……」
唸るように、低く呻いたのは、九十九三蔵であった。
「くふ……」
微かに、嗤うような声をあげたのは、宇名月典善であった。
この異様な光景に、典善は、悦びを覚えているらしい。
その時――
牛の背で、そいつの中で、一番大きな頭部が持ちあがった。
そいつは、喉を天に向かって垂直に立てた。
大きく口をあけた。
巨大な牙が見える。
その牙が、月光に光る。
月光が、その口の中にまで差し込む。
「あひいる!」
吼えた。
「あひいるっ!!」
叫んだ。
そいつは、天に向かって吼えた。
その口から、月光の中に、血と涎の混じったしぶきがほとばしる。
その叫びに合わせて、無数の口が、顎を天に向かって開き、吼えた。
ちいいいいいっ!
ちゅちゅちゅっ!
ひいいいいいっ!
ヂヂヂヂヂヂッ!
ちいいいっ!!
ちいいいっ!!
ちいいいっ!!
ぐげっ!!
ぐげっ!!
ちいいいいいいいっ!!
そして、その巨大な獣は、月の天に向かってさらにひしりあげたのである。
あ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
る~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
るうううううううううううううううううううううううううううううううう
い~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~いいいいいいいいいいいい
それは、血と肉を、思うさま貪ることができることを自ら寿(ことほ)ぐ、歓喜の叫びであった。
人間と自分とをつなぐ鎖(くさり)がひきちぎられたことに対する、悦びの雄叫びであった。
その時――
たあん、
と、音がした。
たあん、
続いて、もう一発。
びくん、
びくん、
と、獣は、二度、身体を震わせた。
獣から、声が消えた。
獣の首が動いた。
こちらを見た。
静寂がおとずれた。
森の梢を揺らす風の音だけが聴こえている。
点々と光る無数の眸(め)がこちらを見ている。
牛の脚は、もう動いていない。
「おぎゃあっ!」
獣が、ふいに吼えた。
「おぎゃあああああああああああああっ!!」
吼えて、疾(はし)り出した。
疾い。
疾い。
こちらへ向かって、そいつが疾駆してくるのである。
もう、距離が、半分になっていた。
たあん!
また、銃声がした。
その途端、
びくん、
と獣の身体が跳ねあがり、転がった。
「馬鹿!」
久鬼玄造が声をあげた。
「まだ、撃てと言ってない」
三三口径の、狩猟用のライフルから、弾丸が発射されたのだ。
転がっていた獣が、ふわりと宙に舞いあがっていた。
おそろしく巨大な翼がふたつ、生えていた。
いつ、生えたのか。
さっきまであった羽根が、ふいに変化したのか。
こんなに早く、生き物がその姿を変えることができるのか。
ばさり、
と、その巨大な翼が打ち振られた。
ぐうっと、獣の巨体が浮きあがる。
ばさり、
ばさり、
と、翼が打ち振られるたびに、獣の身体が浮きあがってゆく。
その翼が、風をとらえた。
高く、さらに高く。
「麻酔が効いていないのか!?」
言ったのは、谷津島長安であった。
その時には、獣は、さらに高い風の中にいた。
舞いながら、獣は、右手奥の森の上に飛び去ってゆく。
「まだだ、二発目は撃つな。麻酔が、いずれ効いてくるはずだ。効けば、落ちる」
久鬼玄造が、無線に向かって言っている。
麻酔弾一発で、象二頭を眠らせることができる。
それが二発――象四頭を眠らせることができる麻酔を身体の中に注ぎ込まれて、まだ獣は動いているのである。
夜の天に舞いあがってゆくのである。
信じられない光景であった。
草の上に倒れた牛は、その身体から、半分の肉が失くなっていた。
「落ちるぞ……」
言ったのは、宇名月典善であった。
その言葉通り、獣は、高い風の中から、ゆっくり、その高度を下げはじめているようであった。
風に流されるように、獣の姿が小さくなってゆく。
「ゆくぞ……」
宇名月典善が、静かに走りはじめた。
コメント
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これは気になる・・・
(ID:25903)
九十九三蔵の空気っぷり
(ID:12350495)
大帝の剣の二の舞にならないことを祈りつつ、応援してます。