弱いなら弱いままで。

差別ってほんとうに悪いことですか?

2014/03/26 16:53 投稿

コメント:7

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 きょうの朝、ペトロニウスさんと話していて(じっさいしょっちゅう話しているのですね)、ちょっと記事のネタが浮かんだので、きょう3本目の記事を書いてみます。

 いや、じっさい、書こうと思ったら1日に5本だろうが7本だろうが、書けないことはないんですよね。書かないでいるとめんどくさくなってしまうんだけれど、書き始めるといくらでも書ける。ぼくはそういう人のようです。

 ただ、まあ、あまり書きすぎてしまうと1本1本の内容が薄くなってしまうので、そこは考えないといけないところですね。きょうのこれ移行の記事はあしたに回そうと思います。

 で、何の話だっけ? そうそう、ペトロニウスさんと話していて浮かんだ話。「差別」と「仲間意識」の話ですね。

 これはおそらく賛成してもらえることだろうと思うのですが、差別という言葉には、紛れもなくネガティヴな意味が存在しています。少なくとも現代社会で差別は良いことだ、と語るひとはあまりいない。

 じっさい、嫌韓やらなんやら、差別的な行動に走っているとしか思えないひとにしても、自分は差別をしている!と大声で叫ぶことはしません。

 むしろ、自分がやっていることはあくまで「区別」であり、それは差別とは本質的に異なることなのだ、というエクスキューズを用意していることがほとんどであるように思います。

 それくらい、現代社会において差別は悪いことだ!というのは常識と化しているのだと思うのです。しかし、まあ、それなら差別をしないでいられるかと云うと、そういうわけでは決してないんですよね。

 むしろ差別が忌まれるのは、ひとの心が差別を大好きにできているからに違いありません。放っておくとひとは差別をするものなのです。だからこそ、人為的に「差別はいけない!」と触れまわらなければならない。それがまあ、ほんとうのところだと思います。

 で、ぼくは、差別はすべて一様に悪いことだ、すべてのひとを平等に愛せるようにならなければならないなんて戯言を、ひとかけらも信じてはいないのです。

 いやまあ、たしかにそれはひとつの理想ではあるのかもしれませんが、あえて云うなら非人間的な理想です。決して現実にはならないであろう夢です。現実には、仲間を大切にすれば、「それ以外」のことを切り捨てることにつながります。

 その「仲間」とは、たとえば地域の友人たちのことであったり、あるいはもっと広く同じスポーツを楽しんでいるファンのことであったり、あるいは日本人全体のことであったりするのですが、とにかく人類すべてをひとしく愛することができるような人物は異端であり、これもあえて云うなら異常でしょう。

 あたりまえの人間はどこかで線を引いて、ここからここまでが仲間で、この外はそうではない、と判断するものです。

 たとえば、『ヤンキー経済』で描かれている「マイルドヤンキー」たちはまさにそういう行動理念に沿って動いているように見えます。そして、しばしば極端な個人主義者の集団と見られる「オタク」にしても、じっさいのところ、何も変わるところはないのです。

 「ほんとうのオタクとは」とか、「あんな連中はオタクじゃない」と考えるということは、つまりは「オタクか、そうでないか」と線を引き、どこかで区別し、差別していることに違いないのですから。

 ぼくは何も、そのことを責めるつもりはありません。ひとがひとでるかぎり、やはりどこかで線を引く必要はあるのです。

 すべてのひとをまったく差別することなく平等に考えられたら、それはたしかにすばらしいでしょうが、そこには一切の「愛」がないということにもなるのではないでしょうか?

 そう、自分の妻や、家族や、友人や、仲間を厚遇するということは、紛れもない差別ではありますが、しかしそれこそがひとが持ちえる唯一の愛のかたちなのです。

 「みんな大好き」であるということは、優先順位が存在しないということで、だれも好きではないということと変わりません。そういうものなのです。

 何が云いたいかというとですね、線を引くこと、差別することはひとの本質にかかわる行動だということです。

 ぼくはもちろんすべての差別を無条件で肯定するつもりはありませんが、同時に、すべての差別を悪とし排斥するつもりもありません。ようするに何もかも程度の、バランスの問題であって、一切差別することなく暮らしていくなどということは、しょせん無理なことだと思うのです。

 そして、ここがぼくとペトロニウスさんの妙に気が合うところなのですが、線を、「境」を作ってしまうのは仕方ないと認めたとしても、その上で 

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コメント

>>4
とても誠実にご回答いただき、ありがとうございます。
最初のレスについては文頭のまとめと内容がどう繋がっているのかよくわからず主張を掴みかねていたのですが、今回の返信を受けて、おっしゃられていることがよくわかりました。

まず補足しておくと、ぼく自身は本文を読んで強引さは感じていません。これは、ご指摘のように、ぼくが海燕さんのブロマガをある程度の期間読んでいることも影響していると思います。
その上で、ぼくとしては、一見「それぞれ無関係とも見える」ものを接続した結果、読者によってはそれが強引に見えることもあれば、一方でぼくのようにあまり飛躍を感じない読者もいる、ということは充分に起こりうることですし、そのことがそれほど重要な瑕疵だとはあまり思っていません。

ただし「もっとマシな繋げ方があるんじゃない?」とおっしゃられれば、そうなのかもしれませんね。まあ、そういう意見を受けてどう記事を書くかは海燕さんにかかっている話ですし、ぼくがどうこう言うことでもないかなと思っています。(まあそれを言ってしまうと、そもそもこうやってレスをつけてること自体が余計なでしゃばりかもしれませんが。。。)

あと「言っていることが当たり前すぎる」「"その先"を何か見せて欲しい」という意見には、半分くらい同意しますね。ただし、こういう基本的な立ち位置の確認はコミュニケーションの土台として有用なプロセスだと思いますし、この本文の内容を「当たり前」と感じない人も世の中には決して少なくはないとぼくは思っています。

No.5 129ヶ月前

人間には、物や人に名前を付けて内外に分けるという「愛情」がまず存在していて、ヤンキーとオタクの違いはその「愛情」の後にある現象で、優先順位を内側に残したものに付けるか外側に捨てたものに付けるかの表象的な所作が目に付いているだけだと思うので、二元論を使ってプロっぽく比較しない今の感じのゆるオタブログでいいんじゃないんでしょうか。

No.6 129ヶ月前

これもいつも通りの海燕さんの記事で、私はなんの違和感も感じなかったです。
通常運転、いつも楽しく読ませて頂いています。

No.7 129ヶ月前
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