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■【ボクタク】第四回配信のエピソードゼロ・漂白される社会―「課題の単純化」という凶器【開沼博×烏賀陽弘道】
■参考記事
■生放送予告
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■【ボクタク】第四回配信のエピソードゼロ「課題の単純化」という凶器【開沼博×烏賀陽弘道】
2013年3月7日、ダイヤモンドオンライン連載『大震災2年目の「今」を見つめて』に、開沼博の鋭く光った記事が掲載された。
これは【ボクタク】対談で本人に深掘りしてもらうしかない…と思いたち、さっそく開沼に連絡を取った。
子供向けの番組『ピタゴラスイッチ』に出てくる“ピタゴラそうち”は、子どもだけでなく大人がみても虜になってしまうほど、気持ちのいい魅力がある。
“ピタゴラそうち”に最初に与えるアクションが「原因」となり、次の装置が動き出す「結果」が生まれる。その「結果」が二つ目の「原因」となり二つ目の「結果」が生まれ、それが三つ目の「原因」となり…最後に「ピタゴラスイッチ」と書かれたフラッグがくるくると回転して終わる。
“ピタゴラそうち”は「原因」と「結果」の一連続性が、前進する気持ちよさ・期待感を生み出し、見る人を夢中にさせる。
パチンコ玉を器に置くという最初の「原因」から、転がったパチンコ玉が当たったドミノが倒れるという「結果」は誰が見ても“わかりやすい”原因と結果だ。ある一つの法則(「型」と言えるかもしれない)に則り、フラッグの回転という大団円を目指す。
しかし現実の社会は“ピタゴラそうち”のように出来てはいない。人間という“業”の集合体が構成するのは装置と呼べるほど単純化されたオートマティックなものではないからだ。
「関西人だから(=原因)面白いことを言う(=結果)」
「ブラジル人だから(=原因)サッカーが上手い(=結果)」
「黒人だから(=原因)リズム感がいい(=結果)」
というとき、一見“ピタゴラそうち”的に成立しているように思えるが、逆を考えて欲しい。「控えめな関西人」「サッカーが上手ではないブラジル人」「リズム感がいいわけではない黒人」の存在は皆無であろうか?
また、「A夫妻が共働きだから(=原因)Aさんの息子さんは不良になった(=結果)」ということが妥当かどうかも検討してみてほしい。
人間の生きる世界では、「1原因=1結果」という単純な構造にはおさまりきらないのだ。
「フクシマの人は避難したくても避難できない人でいっぱいだ」
「フクシマの子どもたちは全員マスクをして登下校している」
「被災地の景色は瓦礫で埋め尽くされている」
「仮設住宅では生活物資が不足している」
フクシマ、あるいは“被災地”と呼ばれる地域が現在抱える問題・状況が単純装置化して捉えられてはいないか。
東日本大震災から2年余が経過している。
単純化され、連続性を認識し易いものほど前進する気持ちよさはあるだろう。しかし私たちはどこへ向かうのか?作り出された単純装置の作動にただ「前進感」を感じているだけなのではないか?
わかりやすくてワクワクする子ども番組から、多様化され複雑化した現実へと切り替える―
開沼博が社会へ問いかける“被災地・福島をめぐってすれ違う課題”をえぐり出していく。
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■参考記事
◎ダイアモンドオンライン・開沼博著「被災地・福島をめぐってすれ違う課題【前提編】」
http://diamond.jp/articles/-/32891
◎ダイヤモンドオンライン・開沼博著「被災地・福島をめぐってすれ違う課題【前進編】」
http://diamond.jp/articles/-/33001
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■生放送予告
2013年4月4日(木)21:00~
◎タイムシフト予約はコチラから↓
http://goo.gl/TB3V2
コメント
コメントを書く(ID:2804686)
なら、学校の勉強や運動が苦手=凡庸で暗愚というステレオタイプな物の見方も止めて欲しいです。
(ID:19942415)
世界が複雑だという、誰でも知っている当たり前のことをこんなに長々と書く必要を感じない。
記事のピタゴラ装置で言えば、組み込まれた全ての機構がゴールのための原因である。
つまり、ある時点の事象=それまでの、関連する全現象の結果である。
(ID:18312635)
言わんとすることはわかるが、例えがおかしい
日本人の一般的な見方と福島の実情とのあいだにズレがあることを説明するにあたって、
「社会が単線的な因果関係で描けない」という比喩を持ち出すのは論理的に奇妙だ