2012年10月第1週
めるまがアゴラちゃんねる、第011号をお届けします。
またまた更新が遅れました。申し訳ございません。
コンテンツ
・「ゲーム産業の興亡」(21)0.99ドルのゲームは50ドルのゲームより価値が低いか?
・『気分はまだ江戸時代』連載第011回 「市民的自由をめぐって(その一)」与那覇 潤 / 池田 信夫
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特別寄稿:
新 清士
ゲーム・ジャーナリスト
「ゲーム産業の興亡」(21)0.99ドルのゲームは50ドルのゲームより価値が低いか?
今回は、(19)に続く任天堂の岩田聡社長の講演を受ける、GDC2011の講演を紹介しながら、0.99ドルのゲームの価値を考える。
Game Developers Conference 2011で、「アングリーバード(Angry Birds)」の世界的な大成功を引き起こしたフィンランドの小さなモバイル向けゲーム会社Rovioの最高マーケティング責任者(CMO)のPeter Vesterbacka氏の講演は高い注目を集めていた。
09年12月にApple App Storeにリリースされた このゲームは、赤い鳥をパチンコによって狙って打ち出し、砦にいる緑色のコミカルな豚を倒すというパズルゲームだ。これはiPhone向けに0.99ドルで販売され、10年に世界中で人気を得て、常にダウンロードランキングのトップにいるという状態が続いていた。
Vesterbacka氏は自分たちのゲームをリリースできたタイミングの良さを強調した。フィンランドは携帯電話会社のノキアの国だ。ノキアの携帯は、08年に「iPhone 3G」が登場し、さらにグーグルのアンドロイド端末が一般化してくるまで、世界の携帯電話市場をフィーチャーフォンで圧倒していた。そのなかでも、ゲームをリリースすることができたが、ハードウェア性能はバラバラで、的確なネット流通網の仕組みも作られていなかった。
03年に創業して、25人の携帯ゲームの会社だったRovioは25本のゲームを出してきたが、自分たちの作りたいゲームを作ることはできなかった。ノキアの要請によって、好きでもない「ポーカーゲーム」を作る必要があった。その時代の携帯ゲームの開発環境を「ソビエトスタイル」とまで皮肉った。
■タイミングに恵まれて大ヒットにつながった「アングリーバード」
しかし、アップルが08年にApp Storeを開始して自由に参入できるオープンプラットフォーム戦略を採ったことで、状況は一変する。自分たちの作りたいゲームを自由に作って、全世界に配信できるようになった。「タイミング」に恵まれていたことも、述べていた。「アングリーバード」は、配信直後、すぐにフィンランドのApp Storeでトップになった。
「iPhoneを持っている人がほとんどいないから」と会場を沸かせていたが、重要な転機は2010年2月のバンクーバーオリンピックのタイミングだ。スキーで第4位になったスウェーデンの選手が、ホテルにいる間に「アングリーバード」を遊んでいたことをインタビューで述べたのだ。そのため、スウェーデンのランキングでトップになり、それがイギリスに波及し、アップルが「おすすめ」として紹介したことによって、アメリカでも大ヒットにつながった。そして、17カ国でトップになっている。
2010年の10月には、有料版が1200万ダウンロードされ、無料版が3000万ダウンロードされるというとてつもないペース広がっていた。その後、無料の広告付きバージョンがアンドロイド端末やPC、Macに移植するなど、様々な端末に広がっていく。こうした、安定的に人気が出たパズルゲームをどのハードでも展開を押し進めていくことを「テトリス戦略」と呼んでいた。
過去に最大のヒットとなった家庭用のゲームは、1985年のファミリーコンピュータ向けの「スーパーマリオブラザーズ」で4024万本(欧米では同梱販売も行われている)、さらにそれを上回るのが06年のWii用の「Wii Sports」が6619万本(欧米ではハードウェアに同梱されていたため、販売本数と一致しない)といずれも任天堂のゲームを代表するものだ。当然、すべて物理的なメディアのゲームだ。ハードウェア企業が優れたゲームを開発することで成功したケースだ。
しかし、「アングリーバード」のRovioにはそうした背景はない。ダウンロード数を比較すると、その広がり方が尋常でないことがわかるだろう。ネット流通で、低価格な戦略を採り、優れたゲームができあがっていた場合には、恐ろしいまでのネットワーク効果を享受することができる。Rovioは、iPhoneが急激に広がっていくタイミングに、ヒットタイトルを出すチャンスを得たことで、今までになかった成功方法を生みだした。
■0.99ドルのゲームは鮮度を保つことで使い捨てにはならない
さて、Vesterbacka氏は「0.99ドルがゲーム産業にとっていいのかどうかという意見がある。任天堂が0.99ドルはゲーム産業を破壊し、ゲームは使い捨てになる」と述べていたと、岩田聡社長の講演を受けてコメントした。
「アングリーバードは例外だ。なぜなら、アングリーバードは使い捨てのコンテンツではないからだ」と主張した。毎週アップデートし、追加のマップをリリースする、新しい機能を持った鳥を追加していく。常に「コンテンツを新鮮な状態を無料で提供している。これはApp Storeモデル、ネット流通のモデルでは非常に重要なこと」とした。
また、クリスマスやバレンタインデーなど、季節ごとに新しい面を追加した「Seasons」というシリーズもやはり同じように0.99ドルで販売し、多くのユーザーに飽きないで、触れてもらえるようにする。それによって、ランキングのトップに居続けるという戦略を採っている。
今年(12年)5月には、シリーズ累計では10億ダウンロードに達したことが明らかにされており、今までのゲームの常識から考えると、考えられないペースで多くのユーザーに「アングリーバード」が広がった。世界で最も遊ばれたゲームになった可能性がある。
今では、マーチャンダイジング展開を押し進め、ぬいぐるみといったオモチャなど、全世界のどこにいっても(日本でさえ)、アングリーバードの姿を見かけるようになっている。フィンランドでは、「『ムーミン』以来の新しい世界的なキャラクターを生みだした」とまで言われるようになった。現在では、ベンチャーキャピタルの資金も入り、社員数250人に成長している。
この「コンテンツを常に新鮮な状態に保てるかどうか」というのは、今の時代の一つ鍵であり、既存の家庭用ゲーム機の考え方と、正面から鋭く対立する点だ。0.99ドルのゲームは、本当に50ドルのゲームよりも価値が低いと言い切れるのか? 新しく市場に登場して、既存の家庭用ゲーム機産業に挑む側にとっては、0.99ドルのゲームは、50ドルのゲームに比べて価値が落ちているとは言えないという意見に当然なる。ここには、お互いの妥協点はない。
新 清士(しん きよし)
ジャーナリスト(ゲーム・IT)。1970年生まれ。慶應義塾大学商学部、及び、環境情報学部卒。他に、立命館大学映像学部非常勤講師。国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)副代表。日本デジタルゲーム学会(DiGRAJapan)理事。米国ゲーム開発の専門誌「Game Developers Magazine」(2009年11月号)でゲーム産業の発展に貢献した人物として「The Game Developer 50」に選出される。連載に、日本経済新聞電子版「ゲーム読解」、ビジネスファミ通「デジタルと人が夢見る力」など。
Twitter ID: kiyoshi_shin
『気分はまだ江戸時代』
与那覇 潤
池田 信夫
第十一回
「市民的自由をめぐって(一)」
池田 もう一つ與那覇さんの本にあまり書かれてない側面としては、表現の自由とか市民的自由という問題があります。いま日本人が「中国みたいな社会になりたいと思いますか」と聞かれたときに、普通の人がまず考えるのは、あの共産党に支配されて法輪功ぐらいでも牢屋に入っちゃうとか、それはさすがに嫌だなというのはあると思うんですよ。
でもそれは専制国家にとっては必須の条件ですね。つまり人々を地理的に閉じ込める必要はないんだけど、精神的に同じ規範で抑えつけることが非常に重要なので、東洋型専制国家には言論の自由っていうのはあり得ないわけですよ。その点で言うと西洋社会が優れているのは、昔は宗教戦争に明け暮れて消耗したので、政教分離という原則が確立している。そこから表現の自由も出てくる。
どっちが暮らしやすいかというと、特に情報産業でいうと、市民的自由があるかないかは大きな条件になると思うんですよ。今はグーグルもフェイスブックも中国ではまともに使えない。昔の日本はどこに位置づくのかというと、市民的自由はあったほうなんですか?
與那覇 そこは「中国化」した社会の功罪を論ずるうえで重要な点ですね。私の本は、皇帝が「党」に、儒教道徳が共産主義にスライドしただけで、現在も中国は王朝時代のシステムを引き継いでいるのだという認識に立っています。
換言すると、「正しい思想」を一種類に制限してしまう、という点では、別に共産国家だから中国はああなんだという話ではなくて、伝統的に中国モデルとはそういうものだった、と考えた方がいい。前近代から、「この国で正しいとされる思想は『儒教思想』です」という風に、国家が公式イデオロギーを決めてしまっていた。
しかし、一方で王朝時代と共産党体制には、見落とせない差異もあります。前近代だと、儒教思想が正統ですよと王朝側が決めてしまうわけなのですが、しかしそれを全国民に隈なく強制しようとするかというと、しないんですね。なぜなら、そこまでやるとコストがかかるから。
だから近世中国の科挙というのは、教育課程は整備しないで、国家は「試験」だけを担当する。つまり、「正しい思想は儒教思想です。だから、この国であなたが出世したいのなら、儒教思想を正しく身につけて受験してください。ただし、出世したくない、勉強したくないのなら、それでいいですよ」と。国家のイデオロギーを全国民に刷り込もうとするのではなく、むしろ放ったらかしにしておくわけですね。
実力主義とかメリトクラシーというものを、近代西洋モデルで捉えると、「教育」が必ずセットになって出てくるわけなのですが、中国の場合はいわば「教育なきメリトクラシー」だった。その意味でいうと、自由放任なんです。つまり、多元的な価値観が「公認」されていないという意味では、思想の自由、表現の自由がないのですが、要はお上を怒らせない範囲なのであれば、正直なところ民間では何言ったっておおむね好き勝手できるという状況が、前近代までならあった。
ただそれは権利としての思想の自由とか、表現の自由とは言えない。むしろ「思想の放任、表現の放任」とでも呼ぶべきものでしょうね。
逆にいうと、今日の中国の問題点は、そういう「教育面では放任するイデオロギー国家」だったところに、西洋近代の国民皆教育システムを持ちこんでしまったところです。前近代までなら、儒教思想が正統イデオロギーとされているけれども、別に学校なんてないので無視するやつは徹底無視、で済んでいたのが、今は唯一の正統思想である共産道徳を、全国民に学校で教え込むということになってしまった。今の中国というのはたぶんその点で、かつての王朝時代よりも生きづらい社会になっている側面は、きっとあるだろうと思います。
さて、この点で日本はどうだったか。日本の場合、江戸時代の半ばまでは儒教思想と幕府権力とのあいだに距離があって、国家の公定イデオロギーというものは特になかったので、その点では一見、中国よりも「思想の自由」があったように見える。
しかし、それは単に国家が思想に無関心だったというだけで、「多元的な価値観をお互い尊重し合いましょう」という合意を明示的に取り交わしたわけではないから、結局それは思想の「自由」というより単に「放任」だろう、という点では、むしろ中国に近い。それこそ丸山眞男が戦後に、単なる外来思想の雑居状態や無限抱擁は、市民社会的な「思想の自由」とは違うことに気づけよ!と何べん繰り返しても、日本人はそのことが自覚できなかったわけで。
「敗戦」というこれ以上ない反省の契機があったところに、丸山のようなカリスマ的知識人が全力で奮闘しても無理だった近代啓蒙が、今後実る日が来るとはちょっと思えないですよね。ひょっとしたら日本の場合も、実は中国と大して変わらないというか、多様性を相互に尊重しあうという近代西洋的なリベラリズムは結局身につかないが、でも国家の監視がザルだから、好き勝手放言してもそこまで心配することもない、という程度の社会に帰着させるあたりが限界なのかな、という気がしないでもありません。
※ 次号「市民的自由をめぐって(二)」に続く。
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