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2012年8月第4週
めるまがアゴラちゃんねる をお届けします。
コンテンツ
・「ゲーム産業の興亡」(16)ゲームが直面する「可処分時間」の争い
・『気分はまだ江戸時代』連載第006回 「日本人はなぜ特殊なのか(その二)」与那覇 潤 / 池田 信夫
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特別寄稿:
新 清士
ゲーム・ジャーナリスト
「ゲーム産業の興亡」(16)ゲームが直面する「可処分時間」の争い
ゲーム産業の発展に大きな影響を与える要因として「ムーアの法則」「人口」「可処分所得と可処分時間」の最後の、「可処分所得と可処分時間」について、特に「可処分時間」に力点を置いて、説明をはじめていきたい。
■時間こそが個人が所有する貴重な資源
経営学者P.F.ドラッカーが多くの本で繰り返し語っていることがある。「時間」の重要性だ。
「成果をあげる者は、時間が制約要因であることを知っている。あらゆるプロセスにおいて、成果の限界を規定するものは、もっとも欠乏した資源である。それが時間である。
時間は、借りたり、雇ったり、買ったりすることはできない。その供給は硬直的である。需要は大きくとも、供給は増加しない。価格もない。限界効用曲線もない。簡単に消滅する。蓄積もできない。永久に過ぎ去り、決して戻らない。
したがって、時間は常に不足する。時間は他のもので代替できない。(略)時間はあらゆることに必要となる。時間こそ真に普遍的な制約条件である」(※1)
ドラッカーは、仕事を成功させる条件として、時間という資源を意識する重要性について書いている。ただ、すべての娯楽分野にとっても、同じことだ。
ユーザーにその希少な資源である時間を割いてもらわなければならない。なぜ、先進国地域でなければ、ゲームというものが一般的に普及しにくいのかも、これで説明できる。
衣食住が足りており、比較に時間的な余裕ができている社会でなければ、ゲームを遊ぶような娯楽に時間を個々人が捻出できないのだ。
「可処分時間」とは、一日の24時間から、学校・仕事、食事、睡眠など、生活をしていく上で必ず必要となる時間を差し引いた個々人が自由に費やすことができる時間のことを言う。
これは、獲得できる所得のうち、生活をする上で必要な衣食住に必要な所得を差し引いて自由に費やすことができる「可処分所得」とセットにして使われることが多い。
かつて、生活に使える自由な収入が少なく、貧しかった時代には「可処分所得」が重要視されてきたが、衣食住のために困らないような豊かな時代になってくると、「可処分時間」の重要性が増してきて、その取り合いの競争が激しくなる。
特に、それらの余裕が出てきた所得と時間は、多様な娯楽に費やされるようになる。その中から、わざわざゲームを選択してもらわなければならないのだ。
■一致しない娯楽の使用するコストと時間
総務省統計局がまとめている「家計における教養娯楽関係費」(二人以上の世帯)では、「教育娯楽耐久財」、「教育娯楽用品」、「書籍・他の印刷物」、「教養娯楽サービス」と大きく4つの項目に分けている。
ゲームは、「教育娯楽用品」の項目に当たり、細目の一つ「テレビゲーム機、ゲームソフト等、その他のがん具」として分類されている。ちなみに、ゲームについての各家計あたりの支出額は2010年が7973円だ。2000年の9805円に比べると19%減少している。
他に、細目として上げられているものは非常に多様だ。
テレビ、カメラ・ビデオカメラ、楽器(教育娯楽耐久財)、文房具、運動用具類、ゲーム(教育娯楽用品)、新聞、雑誌・週刊誌(書籍・他の印刷物)、宿泊料、パック旅行費、語学月謝、音楽月謝、放送受信料、映画・演劇等入場料、スポーツ閲覧量、ゴルフプレー料金、スポーツクラブ利用料、文化施設入場料(教養娯楽サービス)。
実際には、この細目は、比較的金額が高いために、分けられているもので、これ以外の支出も多数存在している。どちらにしても、ゲームはこれらの多様な娯楽が競争相手なのだ。
2010年の「家計における教養娯楽関係費」の総額は40万0153円。ゲームの7973円は約2%に過ぎず、驚くほど少ない。しかし、雑誌・週刊誌は4460円とゲームよりさらに小さい。
一方で、金額の中で最も大きな金額が、パック旅行費の5万4360円。
次いで、新聞の3万4462円、テレビの3万0168円、宿泊料の2万0528円となっている(テレビは、地デジ化の影響による大型テレビの普及によるハードウェア価格の上昇が、大きな要因になっていると推測されるため、一時的な上昇の可能性が高い)。
さて、ここで疑問を投げかけたいのだが、われわれの実感として、普段触れているものに費やしている「コスト」と、その娯楽のために費やしている「時間」が一致しないと漠然と感じられないだろうか。
例えば、雑誌はどうだろうか? 目にしている量に比べて金額は小さいという印象はしないだろうか。
※1 P.F.ドラッカー『プロフェッショナルの条件』P.119-120, ダイヤモンド社
新 清士(しん きよし)
ジャーナリスト(ゲーム・IT)。1970年生まれ。慶應義塾大学商学部、及び、環境情報学部卒。他に、立命館大学映像学部非常勤講師。国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)副代表。日本デジタルゲーム学会(DiGRAJapan)理事。米国ゲーム開発の専門誌「Game Developers Magazine」(2009年11月号)でゲーム産業の発展に貢献した人物として「The Game Developer 50」に選出される。連載に、日本経済新聞電子版「ゲーム読解」、ビジネスファミ通「デジタルと人が夢見る力」など。
Twitter ID: kiyoshi_shin
『気分はまだ江戸時代』
与那覇 潤
池田 信夫
第六回
タコツボ型構造の起源
池田 ほんとの原始的な共同体が残っている国というのは、先進国にはないわけです。ノースのいう自然国家、つまり武力をある種の人々が独占するぐらいの段階には達するわけです。日本も中世には武士が地域で武力を独占する自然国家の類型に近いと思うのですが、普通はそこからいろいろに分化していくわけですね。
いちばん典型的なのは中国のように、武力集団が戦っているうちに、一番強い組織暴力団が全国平定する。これは冗談じゃなくて、チャールズ・ティリーという政治社会学者が「組織犯罪としての国民国家」という有名な論文を書いているぐらいで、暴力団が全国で縄張り争いしているようなものだったわけです。
ところが日本はそうならないで、山口組とか住吉会が地域ごとに仲良く共存するという不思議な均衡状態ができたんですね。
與那覇 そうですね。要するにそれが日本史上での「封建制」と呼ばれるものですよね。どうしてそうなったかは難しいんですけれども、これもまた、なぜ「日本の統治君主は科挙を導入しなかったか」という問題に帰結すると思うんです。
織田信長であれ誰であれ、日本にも独裁的なまでの権力をふるったとされる強力な君主は、それなりにいたわけです。
彼らが、「これからは、私に従って権力を得られる人間は、実力試験で選びます」ということまでやってしまえば、これはもう中国と同じになるわけなんだけれども、なぜかそれをやらずに、「おまえが持っている領地=既得権を、私の力で安堵してつかわそう」というかたちで、天下統一を果たしていくわけなんですね。
なぜそこまでやらなかったのかについては、明確な説明は難しい。
ひとつのポイントとして、実力試験登用を可能にするほどの「紙メディア」の普及が遅かった、というのは拙著で書きましたが、これで説明できるのは中世まででしょう。むしろ、安土桃山以降の近世に関しては、「そこまでやって、在地の既得権益勢力を敵に回すほどのコストが払えなかった」という視点で考えるべきかもしれません。
池田 その必要がなかったのかもしれない。中国の場合は、ウィットフォーゲルによれば、非常に広い乾燥地帯があって、しかも黄河から非常に長い距離の運河を引いてこなきゃいけない。
それは山口組程度の地域暴力団ではダメで、やっぱり平原全体を統括する超巨大暴力団でないと、それぐらいの強制力は働かせられないわけです。だから必然的に広域の非常に権力の集中した皇帝が出てこざるを得なかった。
日本はモンスーン地帯で雨が多く、しかも土地の傾斜が急だから水はすぐに海に出るので、そんなに大きなところを耕すことはできない。もともとローカルな農村地帯しかできない。しかも水を貯めておくしくみが大事で、気をつけないと田んぼが枯れてしまうので、村中で緻密に水を管理しなきゃいけない。
つまり中国のような大草原の乾燥地帯に水路を人工的に引いてくるのと全然違う、流れていく水をみんなで一生懸命守るコミュニティができる。
丸山眞男も、日本人の「古層」の価値観は村ごとに違う「特殊主義」だといっていますが、島田裕巳さんも同じ話をしていました。国家神道なんてインチキで、そんな宗教は存在しない。日本には名前もついてないローカルな民俗信仰しかない。
それはなぜかというと農業用水がローカルに完結していて、水の利用が広域化しなかったということが原因だろうと言っていました。
與那覇 なるほど。要するに日本の場合は巨大な統一権力によるインフラ整備がなくても、それこそ村落レベルの共同体で自給自足できてしまうと。
見方を変えると、日本人は「分業」という発想を根本的に理解していない、と池田さんはブログでしょっちゅう書かれていますが、その起源であるともいえます。「比較優位」という概念をおまえら日本人は理解しろよ、と池田さんが延々と書き続けるぐらい、日本人は「こちらではこれだけを徹底して作り、向こうではあれだけを徹底して作って、お互い交換するのがベストでしょう」という発想が、根本的にない。
自分の地元でこれもちょこっと作り、あれもちょこっと作り、それもちょこっと作り、「他と交流しなくても、まあ、なんとか自給できるかな」というのが、日本人の考える社会モデルになってしまっているのですが、それは日本というのは農耕文明のころから、そういう「小規模多角経営」を許してくれるような条件が整っていたからではないか。
中国であれば強大な専制王権をつくって、おまえらはこの地域で、たとえば米だけひたすら作れ、それを運河を引いて運んで持ってくるから、こっちでは商売だけやるぞ、といった形になるわけですよね。
しかし、日本ではその必要がなくて、それぞれの村ごとにわりかし自己完結している。だったら、その各村をそこそこに治めている武将なり大名がいるのだから、彼らに「あなたの領地は安堵しますよ」ということで安堵状を出してやって、そのまま続けさせていった方が、効率が良かったと。
やはり池田さんがブログでよく使われる比喩で言うと、専制王権ではなく「部族連合」という形で、なんとなく国民共同体らしきものをつくってしまったというのが、戦国時代の天下統一のありかただった。
つまり、完全にもともとの在地領主を潰し切るのではなく、俺の顔を立てて俺に忠誠を誓うと約束するなら、代々おまえの土地は世襲させてやるから、そこでお互い手を打とうよと。そういうかたちで天下統一をしていった、という風に考えると、確かに非常に整合的な議論になりますね。
一方で見落とせないのは、では果たして中世までは、本当に地域ローカルで自給自足できていたのかというと、それはかなり怪しいと思うんです。
拙著にも書きましたが、高校までの教科書だと「弥生時代に稲作が普及しました」って書いてありますが、あれは実は嘘でありまして。中世までは稲の普及率はわれわれが想像するより遥かに低いんですね。
たとえばフォークロアの民俗学でも、坪井洋文などは、もともと稲作文化圏と呼べる地域は非常に限定的で、むしろイモをはじめとした畑作で食べていた日本人のほうが多いくらいだったのではないか、と問題提起をしましたね。
つまり、「日本人」は稲作共同体とイコールで、したがってそれが最初から全部日本全土を覆っていて、「弥生時代以来、一つに統一されてきた稲作民族・日本、これが常民の世界だ」などというイメージは、フィクションに過ぎないのではないかという批判が、民俗学の内部においてすら、昔からあったわけです。
もともと中世までというのは、稲を作っているから1年に1回きちんと稲穂が実れば、地域ごとに自給自足できますという状態ではなくて、戦国時代もなぜ日本全土があれだけ内戦になったかというと、要は食えないからやってるんですね。
逆に言うと、稲作が日本全土におおむね普及して、それぞれの地元で稲作さえきちんとやれば最低限食える、他の地域との関係性を考えなくても「地産地消」でやっていけますというのは、相当恵まれた状態であって、決して自明のものとして最初からあったわけではない。
それでは、そういう条件がいつ整ったかというと、これは江戸時代の初期に圧倒的に新田開発が進むわけですね。
関ヶ原の戦いが1600年で3年後に江戸幕府ができるわけですが、1600年から1700年にかけての最初の百年間は大開墾時代でありまして、この期間だけで日本は総人口がなんと3倍になる。100年間で3倍。最初は1000万人しかいなかったのが3000万まで行っちゃうというのは、相当すごいことです。
おそらくその時期に、もう「地域ごとにすべて自給自足でOK」な日本人というのが生まれた。
こうなってしまうと、もう比較優位とかそんなことは考えなくてよくなるわけです。
池田さんがしばしば批判される、「ガラパゴス天国=パラダイス鎖国」の日本人というのをつくったのは、いわば「元祖ガラパゴス」にして「オリジナル鎖国」――なにせ、比喩ではなく本当に鎖国したわけですから――の時代だった、江戸時代最初の100年間なのではないか。
※ 次号「勤勉革命と『ブラック企業』」に続く。
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2012年9月第1週号
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