めるまがアゴラちゃんねる、第048号をお届けします。
発行が遅れまして、大変申し訳ございません。
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「言論アリーナ」報告 2013年6月18日放送
アベノミクスは終わったのか─肯定派・懐疑派の徹底討論
アゴラ編集部
・ゲーム産業の興亡(58)
ハッカーたちが始めたリリース後のゲームの改造とイノベーション
新清士(ゲームジャーナリスト)
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「言論アリーナ」報告 2013年6月18日放送
アベノミクスは終わったのか─肯定派・懐疑派の徹底討論
日本最大級の言論プラットホーム・アゴラが運営するインターネット放送の「言論アリーナ」http://ch.nicovideo.jp/agora。6月18日の放送は午後8時から1時間に渡って、「アベノミクスは終わったのか? 肯定派・懐疑派の徹底討論」を放送した。
■リフレ派山崎元氏、懐疑派小幡績氏が登場
参加者は、アベノミクスとリフレを肯定する著名経済評論家の山崎元氏(ブログ:http://blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime/)とアベノミクスに批判的な立場の慶応大学ビジネススクール准教授の小幡績氏(ブログ:http://blog.livedoor.jp/sobata2005/)だった。
小幡氏は行動ファイナンスと、コーポレートガバナンスの研究者。著述活動にも熱心で、著書『ハイブリッドバブル--日本経済を追い込む国債暴落シナリオ』http://www.amazon.co.jp/dp/4478024359/ref=cm_sw_r_tw_dp_gTqUrb1QTT3SZ(ダイヤモンド社)などでは、アベノミクス批判が展開されている。
アゴラ研究所の池田信夫所長はアベノミクスに批判的な立場だが、今回は司会に徹した。
■アベノミクス、雰囲気を変えた点では評価
まず2人は、「立場が違うと思われるが、景況感を変えたという点、構造改革がしっかり行われなければ、日本経済はダメになるという点で一致している」(小幡氏)という点で合意した。「アベノミクスは終わったのか」という問いに、小幡氏は「終わってはいない。まだ始まってもいないから。『お祭り』を起こしたにすぎないから」と述べた。
違うのは、4月に行われた黒田日銀総裁の金融緩和の評価、そして最近の株式と債券市場の動揺である。
山崎氏は、一連の動揺について次のように評価した。「急速な株価の上昇の中で、調整局面があってもおかしくはない。また債券市場も、確かに日銀の大量買い付けで混乱した面があるが、長期金利(10年もの国債利回り)の動きは0・数パーセント程度。実体経済にまだ影響はない。金融緩和で市場を動かし、経済を刺激するという考えは間違っていない」。
■構造改革を進めることがすべき対策
小幡氏は、株価の動揺は「劇的な企業業績の改善がない状況での株価の上昇は続かないだろう」と指摘。そして名目、実質金利の低さゆえに、日本は政府の巨額の借金でも、財政危機が起きていないが、「国債市場の混乱による金利の上昇が、悪影響を及ぼす可能性がある」という。これは小幡氏が著書「ハイブリッドバブル」で展開した主張だ。国債市場はリスクがあるのに買われている「バブル」だ。この後は、現状維持のまま金利が意味をなさなくなる安楽死か、市場の混乱や暴落の懸念があるという。
2人は規制改革の遅れにも懸念を示した。「アベノミクスで、3本の矢と首相は言うが、2本目(効果的かつ機動的な財政出動)は飛んだか飛ばないかよく分からないし、3本目(規制緩和による構造改革)は、それて飛ばしたように見える。4本目の矢と言った財政再建は、自分めがけて矢を放ったようにさえ思える」と述べた。2人のアベノミクスの評価は異なったが、長期的な国債市場の混乱と日本経済の成長力鈍化の懸念は共有した。
アゴラ編集部
特別寄稿:新清士(ゲームジャーナリスト)
ゲーム産業の興亡(58)
ハッカーたちが始めたリリース後のゲームの改造とイノベーション
■ゲームリリース後ユーザーが次々に改造を施し始めた
1992年の世界最初のFPS(First Person Shooter)の「ウルフェンシュタイン3D」のリリース後、このゲームの噂はまたたく間に広がっていった」という。最初の数面は無料で遊べるが全部を遊ぶにはお金を払う必要があるというシェアウェアという形式で、販売されたこのゲームは、当時のBBS、コンプサーブなどのオンラインサービスやインターネットを通じて知られていくようになった。
特に、このゲームをジョン・カーマックと主に企画面で役割を持つ形で、共同で開発したジョン・ロメロは、自分たちが作りあげた作品がどのような評価を得ていたのかを非常に気にしていた。それらを読んでいると興味深い投稿が行われていることに気が付いた。「人々はゲームの中身をハッキングし、グラフィックスを編集してキャラクターの姿を変えたり、サウンドを入れ替えたり、独自にマップを作成してゲームに利用していた」という。
子供向けのテレビ番組を利用しある意味では悪趣味な「バーニー・ウルフェンシュタイン」というゲームを作った人もいる。ある意味で悪趣味なゲームは、常に登場することになる。定番としては任天堂の「マリオ」といったものは、そのゲームが流行っている時期の映画を絡めたゲームは、よく登場する。
さらには、プレイヤーが独自のマップを作るためのツールまで出回っていた。それらの登場にカーマックは「感動した」という。「ウルフェンシュタイン3D」を開発するに当たって、FPS視点の初期のRPG(ロールプレイングゲーム)「ウルティマ」シリーズの中身のプログラムを解析して、中身のシステムを理解していたような時代があったからだ。
「ああいったゲームのソースコードが手に入れば、すばらしいことになると思っていた。人気ゲームを出す立場になった僕たちにとって、以前の僕と同じような状況の人にソースコードを提供するのは、有意義なことだったんだ」カーマックはそのために「次のゲームからは、このハッカーたちを支援してやろうと心に誓った」。
■インターネットブラウザー「モザイク」の登場が変えるインターネット
アメリカのケーブルテレビ大手やAT&Tといった通信企業大手は、ユーザーを集めてBBSやメールの機能を持つ、有料のネットワークサービスを提供する事に力を注いでいた。電話などを中心としたアメリカ最大の通信電話事業者であるAT&Tはシェア獲得のために、当時シェアを獲得していた企業に資本を注入するなど、積極的なシェア獲得競争が起きていた。
同時期、日本の状況に触れておくと、当時の有力な米ネットワークコミュニティであったCompuServeの日本語版を作ろうという動きが生まれた。そのライセンスを受けることで、ニフティサーブが1987年にサービスをすアートさせていた時期でもあった。1995年には会員数が100万人を越え、当時の日本で最大のパソコン通信事業者となった。
しかし、もちろん状況はよく知られているように、インターネットの登場によって劇的に変わる事になる。1993年にイリノイ大学でコンピュータ・サイエンスを専攻していたマーク・アンドリューセンがWWW(World Wide Web)を閲覧するためのグラフィカルプログラムを開発し、同年4月にブラウザーの「モザイク(Mosaic)」をリリースした。これは瞬く間に、これまでのテキストベースで提供が行われていた世界から、様々な画像を表示するような時代へとインターネットの世界を決定的に買えることになる。
これが、その後に続くインターネットサービスが劇的に広がるきっかけとなる。そして、ブラウザをめぐる争いは、インターネットを軽視していたマイクロソフトといったOS分野での巨人との激しい競争を生みだしていくことになる。ただ、当時の続々と参入してくる企業が提供し始めてくるゲームは、「トランプ」といったものが中心だった。
■ハッカーコミュニティのために開発しようと心に決めたカーマック
「ウルフェンシュタイン3D」は新しく登場したインターネット世界での一つのキラーアプリとなった。しかし、カーマックやロメロが共感したのは、貪欲にユーザーを獲得するアプリとして利用したがっている大企業に向けられたものではなかった。開発は基本的に2人で行っており、企業が小規模だったからこそ成り立っていたことではあったが、「彼らの共感は、独立旺盛なハッカーに向けられたものだ」。ゲームは一般的なユーザーのものである以前に、ハッカーのものであるという意識が彼らにはあった。
すでに1983年には、任天堂の「ファミリーコンピュータ」が日本で登場しており、すでに特に日本では、家庭用ゲーム機を中心とした市場形成に移動が始まっていた。一方で、アメリカでは、パソコン(IBM-PC)を中心としたゲームカルチャーは、日本とは違った道を歩み始めていた。
カーマックたちは「ウルフェンシュタイン3D」のようなゲームをコンピュータネットワーク上で、ユーザー同士が対戦することを可能にするコンピュータネットワーク上で遊べるマルチプレイヤーゲームを開発しようと決める。多くのユーザーが一人で遊んでいるよりも対戦で遊ぶことを求めるようになることは当然の流れだったからだ。彼らは社内ネットワークの構築することができた。しかし、当時はオンライン対戦の技術は、まだまだ珍しい技術で、「ゲーマーのコミュティの間では、その流れは予想されていなかった」という。
■PCゲーム市場は小さかったがイノベーションのゆりかごとなった
id Softwareが実現したことには、注意を払う必要がある。彼らは自分たちでゲームを開発すると同時に、初期の段階からハッカーたちの開発を積極的に認めていたという点だ。
日本では1994年に「プレイステーション」が登場し、国産パソコンが消滅していくことで、ユーザーがゲームを開発するためのチャンスが失われていったことは、何度も言及して来ているが、同時期に、特にアメリカでは、ゲームをユーザーが改造していくのが当たり前へと変わっていく、もちろん、これは家庭用ゲーム市場の発達と、PCゲームを中心に発達していく市場の大きな性質の違いがある。
PCであるために、違法コピーは容易で、当然のように行われた。そのため、欧米圏を含めたPCゲームの市場規模は家庭用ゲーム機よりもはるかに小さかったと考えられる。
そのため、家庭用ゲームの日本市場が90年代に世界最大へと発達していったのは、ビジネス環境が先に整った日本市場の状況が大きい、一方で、アメリカではゲームの市場は不安定だったが、技術の発達が急激に起きる萌芽が、この頃から始まる。ゲームが会社だけでなく、ユーザーが企業のイノベーションに協力して成長させることが起きる後に「イノベーションの民主化(Demogratiziong Innovation)」の時代へとつながっていく。
もちろん、90年代初期にはそうした時代が後のゲーム産業に大きな影響をを与えることまでは、想像されていなかった。
※参考文献 フラッド・キング、ジョン・ボーランド「ダンジョン&ドリーマーズ」(ソフトバンクパブリッシング)
(※前回(56)と表記しておりましたが、(57)の間違いです。お詫びして訂正させて頂きます)
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新 清士(しん きよし)
ジャーナリスト(ゲーム・IT)。1970年生まれ。慶應義塾大学商学部、及び、環境情報学部卒。他に、立命館大学映像学部非常勤講師。国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)名理事。米国ゲーム開発の専門誌「Game Developers Magazine」(2009年11月号)でゲーム産業の発展に貢献した人物として「The Game Developer 50」に選出される。日本経済新聞電子版での執筆、ビジネスファミ通「デジタルと人が夢見る力」など。
Twitter ID: kiyoshi_shin
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