こいら のコメント

>>83
諫議大夫さんへ。
いわゆる「自虐史観」というか「権力者に楯突く大衆が歴史を作った」みたいな歴史観が戦後教育の中で皮膚感覚のように息づいてしまったことが、宮崎駿のアニメがウケている背景にもあるのではないのでしょうか。そして、大衆がなぜ彼を左翼だと見抜けないのは彼が取り上げる「土着や自然」みたいなものを「左翼思想隠しのための防御壁」みたいな使い方をしているからなのではないのかな?と思っています。
もちろん今の高度資本主義や金融資本主義みたいなもののカウンターとしてはこの考え方もある意味一理あるのですが、ならばなぜ「土着や自然を含めた日本の国柄を総覧した天皇陛下(ないし皇室)という存在」から宮崎駿は逃げるのでしょうか?「所与の歴史を書き換える」みたいなことを言い出すのでしょうか?
まだ手塚治虫のほうが『古事記』や『日本書紀』を読んでいたと思います。もちろん世代の違いもあると思います。
『鉄腕アトム』の中に、アトムが世界の色々なロボットのところに遠征をかけて戦うみたいな描写があるのですが、手塚はまだ自分の作品を使ってアメリカやあるいはヨーロッパや当時のソ連などの強国に喧嘩というか、戦争を吹っかけていたようなスタンスを取っていたような気がします。日本は資源もないし、決してアメリカやソ連みたいなマッチョな国家でもないけど、科学技術を使ってそれらの国と十分渡り合っていけるのだ、みたいな気概を持っていたのではないのか、と。
もちろん背景には高度経済成長みたいなものもあったし、大東亜戦争に対する経済的なリベンジというか、軍事技術を使わずに科学技術で「戦争」をする、みたいな。手塚は戦後も、アメリカをはじめ大国との「戦争」は続いていた、という認識だったのではないのか。それは昭和天皇をはじめとする皇室の方々と同じメンタリティーだったのかもしれません。
宮崎駿には、それがなかっただけかもしれないですね。むしろ科学技術の矛盾を指摘していただけのような気がします。確かに科学技術が疎外者を作り、合理主義が生き過ぎると人間の精神は病んでしまうことも一面の真理だとは思いますが、じゃあ文明の恩恵を受けた人間は自然のままに生きることがどこまで可能なのか、という命題も生まれてきますね。
天皇陛下は、自然や土着にも、あるいは文明や科学技術などにも、そして文明の副作用によって疎外された人間にも寛容な存在であられると思うし、それが歴史や伝統から受け継がれた「無私」の歴史だと思えるのです。それを取り上げないっていうのは、宮崎駿は惜しいな、と思うのです。
長文失礼しました。

No.94 136ヶ月前

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