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3D・4D化の時代に映画表現が挑戦すべき課題とは?
――森直人・宇野常寛が語る
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.10.27 vol.438
興行面でも批評面でも高い評価を得た今夏公開の映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』。このヒット作から見えてくる映画表現のこれからの可能性とは? 映画評論家の森直人さんと宇野常寛が、『ゼロ・グラビティ』『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』などの近作と比較しながら語り合いました。
▼作品紹介
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』
監督/ジョージ・ミラー 脚本/ジョージ・ミラーほか 出演/トム・ハーディ、シャーリーズ・セロンほか 公開/15年6月20日
27年ぶりとなった『マッドマックス』シリーズの新作。原題は『Fury Road』。核戦争後の文明が荒廃した世界が舞台になっている。砂漠の荒野をさまようマックスはある時、砦の独裁者イモータン・ジョーの一団に囚われる。その後、ジョーの配下の女隊長・フュリオサが彼の妻たちを連れて逃亡し、ジョーとその狂信者たち“ウォーボーイズ”はマックスを“輸血袋”として車にくくりつけたまま、彼女たちを追い始める。途中、車から逃れてフュリオサたちと遭遇したマックスは、そのまま彼女たちの逃走に同行し、共に戦うことになる。
▼対談者プロフィール
森 直人(もり・なおと)
1971年生まれ。映画評論家、ライター。著書に『シネマ・ガレージ~廃墟のなかの子供たち~』(フィルムアート社)、共著に『ゼロ年代プラスの映画』(河出書房新社)など。
森 実に30年ぶりのシリーズ最新作となった『マッドマックス 怒りのデス・ロード』ですが、率直な感想は「理屈抜きでめっちゃ面白い」に尽きる(笑)。そこにあえて理屈をつけるならば、初期映画のハイパーグレードアップ版をやっているってことですね。
リュミエール兄弟の『列車の到着』【1】やジョン・フォードの『駅馬車』【2】までの「活劇」の黎明期、サイレント映画や初期トーキー映画を具体的に参照している。『駅馬車』は今ではクラシックの代名詞のような扱いになっているけど、同作が公開された1930年代当時のハリウッドは西部劇が一回衰退している時期で、ジョン・フォードは大手の映画会社ではことごとく企画を蹴られてしまい、インディペンデント系会社に持ち込んで作られた低予算映画なんです。『マッドマックス』シリーズも元はオーストラリアの低予算映画から始まったものなので、成り立ちもよく似ている。監督のジョージ・ミラーは、ジョン・フォードの映画史の神話に、自分を重ね合わせているところがあるのではないでしょうか。今回の『デス・ロード』は、『駅馬車』のアクション部分を拡大して、ストーリーはシンプルに削ぎ落としている。それゆえ初期映画感を明確に打ち出しているように見えました。
【1】『列車の到着』
正式タイトルは『ラ・シオタ駅への列車の到着』。1895年にフランスで製作された、50秒間のサイレントフィルム。映画の発明者といわれるリュミエール兄弟の手による作品。
【2】『駅馬車』
監督/ジョン・フォード 出演/ジョン・ウェイン 公開/1939年(アメリカ)
アリゾナからニューメキシコに向かう駅馬車に乗り合わせた人々の人間模様と、彼らへのアパッチの襲撃と応酬の様子を描く。西部劇史上のみならず、映画史を代表する傑作と呼ばれることも多い。
宇野 『デス・ロード』はある種の境界線にある映画で、ギリギリ20世紀の劇映画にとどまっているという印象を受けました。いま映画は3Dや4Dの影響によって、初期映画への先祖返りというか、動く絵を体験するというアトラクションに近づいている。『ゼロ・グラビティ』【3】がまさにそうなんだけど、その点『デス・ロード』は物語を失う寸前で踏みとどまっている。
この作品の評価は、ライムスター・宇多丸さんのようにフェミニズム的な側面も含めて丁寧に読み解いていくタイプと、町山智浩さんのように初期映画などの歴史を参照しつつも基本は「バカ映画」とするタイプの大きく2つに分かれていますよね。
前者はアクションの連続の中に物語を最大限詰め込んで踏ん張っているところに着目していて、後者は物語が必要とされなくなっている、映画という制度の、物語への依存度が相対的に下がる段階についての意識に注目して語っているわけです。実はこのふたつの立場は一見対立しているようで、とても近い状況認識を示していると思うんですよ。それがすごく象徴的だと思う。
【3】『ゼロ・グラビティ』
監督/アルフォンソ・キュアロン 出演/サンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニー 公開/2013年
宇宙空間で事故に遭った宇宙飛行士と科学者が、生還を目指してサバイバルする様相を描いた。3Dを前提として作られており、「活動写真」としての映画で話題を呼んだ。
森 そのパラレル感はすごくよくわかる。ジェームズ・キャメロンの『アバター』で3D映画が本格的な段階に入った時から、「2回目の映画史」というべき流れが始まっていると僕は思っています。ハイパーリアルに進化した映像技術でシンプルな見世物をやる。そこを意識している作品は、物語の構造もどんどん単純化させている。それはまさに『ゼロ・グラビティ』がそうだし、結果的にかどうかはわからないけど『デス・ロード』も然り。
でも映画のリニアな構造を持たせるためには、何らかの物語を最低限選択しなければいけない。その時に「どんな物語を選択すれば今において最適解なのか」という“判断”がとても重要になってくる。『デス・ロード』でいえば今までのマッチョな男性主人公を引き継ぐのではなく、シャーリーズ・セロン演じる女戦士フュリオサを中心にしたヒロイン活劇にするという判断があった。『ゼロ・グラビティ』の主役も同様に女性だったことは示唆的ですよね。そう考えると、おそらく町山さんも宇多丸さんも基本的な認識や立脚点は同じで、ただ“判断”の部分から意味をどの方向に生成するかで違いが見えるのではないでしょうか。総合的に言うと、『デス・ロード』はとにかく一番基本的なことを、精度を最大限に高めてやろうとしたってことだと思うんです。
宇野 それでいうと、シャーリーズ・セロンの演技はすごく良かった。主演のトム・ハーディがちょっと食われちゃったんじゃないかと思うほど。
森 彼は『ダークナイト・ライジング』でベインを演じていましたけど、あれ自体が『マッドマックス』やその影響下にある『北斗の拳』的なキャラクターだった(笑)。宇野さんがさっき仰った「ギリギリ20世紀の劇映画」というニュアンスは僕もすごくよくわかるんです。例えば構造も「行って、帰ってくる」だけの極めてシンプルなものなんだけど、より重要なのは前半パートが「逃走」で後半パートが「闘争」になっていること。「行って」の部分は、自由を奪われていた女性たちがイモータン・ジョーの独裁国家から必死に逃げる。
「帰って」の部分は、当初の目的地だったフュリオサの故郷“緑の地”が不毛の地になっていたから、じゃあ戻って戦おうと。奴隷たちが革命を起こす話に旋回する。つまりアクションとエモーションがぴったり連動している。映画の根源的な快楽が高純度で実現されている。そのうえでキャラやマシンはシリーズ前3作のデザインワークを引き継ぎ、こってり盛りに盛りまくっているというバランスがすごく面白い。
だから『ゼロ・グラビティ』がほぼCGアニメーションに近いものなのに対し、『デス・ロード』は実写アクションという20世紀的な映画言語に踏みとどまって勝負している。それは監督の世代性も大きい。なんせ70歳のベテランですから。例えば話題になった火を噴くダブルネックギターのドゥーフワゴンも、基本のセンス自体は60~70年代風でしょう。シアトリカルでロック・ミュージカル的。『ヘアー』を通過してKISSに遭遇したみたいな(笑)。積まれたアンプもヴィンテージ物のマーシャルだったりね。そんなことを堂々とやる人が今いないから、一周回って新鮮に見えたんじゃないかな。
宇野 『ゼロ・グラビティ』と比べると、『デス・ロード』は表現論と物語を積極的に重ね合わせようとはしていなかった、とは言えるでしょうね。
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