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おれは便所の中で生まれた。まだ、水洗トイレなどなかった時代である。おれは汚水漕に糞尿を垂れ流すいわゆるぼっとん便所に産み落とされた。
もっとも時代に関係なく、あの島に水洗トイレが導入されるとは考えにくい。もしあの島がまだ存在するなら、きっと未だにぼっとん便所だ。
あの島の成り立ちについて、おれはほとんどなにも知らない。いつからあそこに人が住むようになったのか、原住民のようなものがいたのかどうか。島の大きさは二日もあればぐるりと一周できるぐらいで、住人の数は百人か二百人程度でそのほんどが女だった。そして女のほとんどは娼婦だった。
その他に知っている事と言えば、おれが生まれる前、島は漁師たちの遊び場だったことぐらいだ。昔は遠洋漁業で大儲けした漁師たちが札束をばらまいたものだ、と元娼婦で今は裁縫屋として娼婦たちに尽くす婆のひとりが言っていた。きっとすでに枯れ果ててしまったが、以前は島の近くに鱈やら鰊やらが捕れる豊かな漁場があったのだろう。懐にうなるほど札束を詰め込んだ漁師たちを目当てに娼婦たちが集まって自然と島に村が出来たのかもしれない。おれが生まれた頃は婆たちが懐かしむ好景気は終わっていたが、それでも女を求める本島の遊び人たちが行き来していた。
女が島の特産物だった。
本島からやって来るのは遊び人ばかりではなかった。女もまたやって来た。その全てがすでに娼婦か、これから娼婦になろうとする女だった。いずれにせよ本島では生きていけない暗い過去の持ち主だった。
女たちはまず元締めに面会し、娼婦としての契約を結び、村の長屋に部屋をもらった。契約といっても手続きはひどく簡単だった。元締めの前で全裸になり五体満足である事を証明する。それから勝手に島を出て行かない事、子供を産まない事、客と本気にならない事を約束する。要するに奴隷になると誓うのだ。その代わり元締めは女の生活と安全を保証する。客とのイザコザはもちろん、本島から追手があれば相手を殺してでも女を守る。
一度島の娼婦になれば皆同じような一生を送った。
数限りない客をとり、暇な時は島でただ一軒の居酒屋で仲間たちと卑猥な冗談を飛ばし或いは過去の思い出に涙を流し、女として使い物にならなくなると若い娼婦らの身の回りの世話をしたり百姓をしながら歳老いていく。ただし、これは途中で死ななければの話だ。病気になっても本島に送ってもらえる見込みはなくろくな治療は受けられない。自殺する者も多かった。
おれの母親もそんな娼婦のひとりだった。
信じられないかもしれないが、おれは女の腹の中にいた頃から目覚めていた。
激しい痛みが眠るおれの意識を覚醒させたのだ。暖かい羊水の中でとろんとしていた小さなおれに硬く冷たいものが噛みついた。そいつはおれの頭に齧りつきぐいぐいと引っ張る。おれをおれの場所から引き出そうとする。この時は分からなかったが母親はおれを堕ろそうとしていたのだ。
おれは余りの痛みに泣き叫びながら抵抗した。今にして思えば痛みに強いおれの精神はこの経験のおかげかもしれない。
おれはおれに襲いかかる様々な器具をかわしながら羊水の中を泳ぎ回った。どれぐらいの時間が経ったのかは分からない。羊水は再び穏やかに落ちつき、おれは痛みから解放された。だが、おれはこの時から眠るのを止めた。いつまた敵が襲って来ないとも限らない。柔らかな闇の中で、おれは敵の襲撃に備えて用心深く身構えていた。
やがて誕生の時が来た。これはどうしようもなかった。おれは本能的に外に出るのを恐れたが、女の体全体が誕生を命じ、この時は女とひとつだったおれの肉体も誕生を望んだ。暖かな世界が成長したおれを異物とみなして吐き出したのだ。
ひどい悪臭が鼻を突いた。胎内よりもさらに暗い。後で分かったのだがそこは便所の中だった。堕胎を諦めた母親はおれを便所に産み落として始末しようとしたのだ。
だが、母親はおれを知らなかった。すでに胎内で戦う事を学んだおれは母親の思惑を裏切った。
おれは便所の中で宙ぶらりんの状態だった。おれと母親はまだ臍の緒で繋がっていた。おれは小さな手で臍の緒を握って登り始めた。臍の緒などせいぜい五十センチぐらいのものだろう。だが、この時のおれにはとてつもない長さに感じられた。数メートル、いや、数十メートルはありそうだった。
おれは開いたばかりの目で頭上の光を見つめていた。遙か彼方でうっすらとした丸い光が滲んでいる。一瞬、その光の中に女の顔が現れた。逆光の中で表情の分からない黒い顔はおれを見降ろしすぐに消え、だが、女は臍の緒を掴んで股の闇からそれを引き出しさらに出し、何キロにも延びた道のりを、おれは腕に力を入れ脚を絡め、少しずつ光を目指して登って行った。誓ってもいいが、この時、おれの筋肉は覚醒したのだ。
トレーニングジムから帰宅するとクマルはまだ眠っていた。タオルケットを体に巻いておれが出掛ける前と同じ恰好で穏やかな寝息を立てている。おれは寝相のいい女が嫌いではない。野心のない感じがする。
四本のバナナと一緒に今日二回目のプロテインを飲み一階に降りた。
恐竜の化石の下に座りいつものように店番をする。店番ということはつまりなにもしないと言う事だ。おれが座る籐の揺り椅子は先代が愛用していたもので百八十キロを超えるおれの体重を支えてぎしぎしと軋む。だが、一度も壊れた事はない。古い物は信頼できる。今時の薄っぺらな物とは格が違う。おれもこうありたい、と思う。
おれは籐椅子を揺らしながら店内を見回す。気が向くと品物にはたきをかけたり乾いた布で拭いたりするが今日はしない。うちの商品はほとんどが家具、電化製品、そして衣類だが、中にはリサイクルショップに似つかわしくないものが混じっている。
もしかしたら先々代の頃、この店は質屋か骨董屋だったんじゃないだろうか。そうでなければ小判や外国製の古い懐中時計や縄文土器や掛け軸の説明がつかない。
ぼんやりしていると客が来た。鼻にピアスをした男だ。これを見て欲しいと両手に下げた紙袋を差し出す。ぎっしりと詰まった古着はほとんどが派手な柄のアロハだった。
「なぜピアスをしている?」客に訊ねた。
相手は目を見開いておれを見つめた。戸棚に妖怪でも見つけたような表情だ。
しばらく待っても返事がない。耳でも悪いのかと思い大声でもう一度繰り返した。
「なぜ鼻にピアスをしている? 親からもらった体に傷をつけてはいけない」
男はなにも言わないまま逃げるように姿を消した。紙袋を忘れている。
また、客が来た。今日は珍しく忙しい。今度のは中年の男だ。つまり、若造ということだ。
男はガムを噛みながら品物を見に来て欲しいと早口に言う。近々引っ越しをするので処分したいものが幾つかある、と。
「ガムを吐き出せ」おれは籐椅子の上で脚を組み直した。「人と話をする時にガムを噛むな」
男はおれと恐竜を見比べ、床にガムを吐いて外国人のように両手を広げて肩をすくめた。
「行くか」おれはゆっくりと腰を上げた。おれが立ち上がると丁度恐竜の頭蓋骨の下に頭が達する。「お前の住処を見てやろう」
男は指先で床のガムを拾い上げた。そして二歩三歩後じさりすいませんと頭を下げていなくなる。
電話が鳴った。篠原だった。店に着いた、と言う。そう言えば約束をしていたな、と思い出した。すぐに行く、と答えて電話を切る。
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