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(非)言語にとって美とはなにか
――〈魔法の世紀〉をめぐって
(落合陽一×石岡良治×宇野常寛)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.1.29 vol.251
本日は、昨年末に行なわれた「PLANETS Festival 2014」から、メディアアーティスト・落合陽一さんと、おなじみ批評家の石岡良治さん、そして宇野常寛との鼎談の模様をお届けします。落合さんの提唱する「映像の世紀から魔法の世紀へ」というコンセプトを基点に、ジェームズ・キャメロンやディズニー、クリストファー・ノーラン、Ingressなどにも触れながら、〈メディア〉と〈アート〉のその先の表現の可能性について語りました。
▼プロフィール
落合陽一(おちあい・よういち)
1987年生まれ。名前の由来はプラス(陽)とマイナス(一)。小さなころから電気が好き。
コンピュータの未来をアートと研究の両面から追求するのがライフワーク。
日本の巷では現代の魔法使いと呼ばれている。
筑波大でメディア芸術を学び、2011年卒業、東京大学学際情報学府で修士号を取得(2013年)。米国MicrosoftResearchを経て、東大にて博士審査中(2014年)。情報処理学会新世代企画委員としてアカデミックの未来も考案中。
筑波大学非常勤講師。これまでに研究論文はSIGGRAPHを始めとして有名な国際会議に採択され、作品はSIGGRAPH Art Galleryを始めとして様々な場所で展示された。情報処理推進機構よりスーパークリエータの称号、LAVAL VIRTUALよりグランプリ&部門賞、ACEより最優秀論文賞。
★PLANETSメルマガで好評連載中! 落合陽一『魔法の世紀』過去記事一覧はこちらから。
石岡良治(いしおか・よしはる)
1972年生まれ。批評家。跡見学園女子大学ほかで非常勤講師を務める。専門は表象文化論。著書に『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社)がある。
◎構成:稲葉ほたて
宇野 ここからはメルマガPLANETSでも大人気で、最近ではテレビにも出ている現代の魔法使い・落合陽一さんと、日本最強の自宅警備員であり、表象文化論やメディアアートの問題にも非常に知識があり、間違いなくリテラシーも日本最強である批評家の石岡良治さんをお迎えし、落合陽一さんのメルマガ連載のタイトルでもある「魔法の世紀」という問題提起について掘り下げたいと思います。よろしくお願いします。
落合・石岡 よろしくお願いします。
宇野 と、いうことで今日は「自宅警備員 vs 魔法使い」というテーマでいきたいと思います。ところで皆さん、この中で「メールマガジンで落合陽一の連載を読んだことがある」という人はどれくらいいますか?(手を挙げてもらう)
さすが、かなり多くの人が読んでいますね。
宇野 一応、ここが本家本元ですからね。非常に反響の大きい連載であり、おそらく来年に本になると思うんですが、非常に大きなインパクトを持って迎えられるのではないかと早くも囁かれている連載です。この「魔法の世紀」という問題提起については、これまでの僕とのトークでは主にメディア論や面白い文化として、あるいは猪子さんと同じ括りのテクノロジーの問題として語られることが多かったと思うんですよ。
でも、今回は本業が美術批評家でいらっしゃる石岡さんをお招きすることで、メディアアーティスト・落合陽一という側面にスポットを当てながら、この「魔法の世紀」について考えていく1時間15分にしたいと思っています。
まず最初に、残り60%の観客のために、「魔法の世紀」という連載について、ご本人の口から軽く説明していただけますか。
落合 この連載は、そもそも20世紀が「映像の世紀」だったということとの対比関係において、21世紀は「魔法の世紀」だと、捉える連載なんですね。
例えば、21世紀になって、たくさんのコンピューターが溢れている世界になっていると思います。この中でスマホを持っていない人は?――1人ですか。みんなスマホを持っていますよね。5年くらい前だったらスマホを持っている人の方が少なかったわけで、どんどんコンピューターと我々の境界が変わってきている。その中で、どうやって文化が変わるのか、どうやって表現が変わるのか。そして、どうやって俺たちの考え方自体が変わっていくのか。それをコンピューターの歴史になぞらえながら語っていく連載です。
例えば、昔はテレビが流していることが絶対で、CMをバンバン打てば商品が売れた。でも今の時代では、インターネットでみんなが違った考え方を持っている。高倉健が死んだ日に、ニコニコのチャンネルで観られている番組といったら、囲碁をやっている人は囲碁を見ているし、ポケモンをやっている人はポケモンを見ている。だけど、テレビをつければ高倉健が死んだことばかり流している。ここにはすごい乖離があるのですが、僕は後者の方がより”今風”だと思います。なぜなら我々はすでに共通の文脈を持っていないし、文脈がなくとも小さなコミュニティをWeb上で形成して楽しく生きてゆける。そのようにコンピューターが我々の生活や思考様式を変えうる中で、21世紀に通じる文化がどんなものかを、現在の段階で読み解きながら思想を作っていこうという連載です。
宇野 そういった中で、この「魔法の世紀」をモチーフに、僕は石岡さんを落合くんにぶつけてみたかった。この連載を一言でいうと、「人々が平面のイメージ、その究極で言えば映像を共有することで社会を作っていく時代は終わる。なぜかといえば、情報テクノロジーというものが今どんどん画面の外に出てきているから」というものです。
その中で、逆に石岡さんはやっぱり究極の二次元擁護者なわけですよ。特に映像イメージというものをいまの日本で最も肯定している批評家の一人が石岡さんだと思います。その石岡さんから、この「魔法の世紀」がどう見えるのかを、ちょっと一回マジで聞いてみたかったんですね。
映像はモノの劣化コピーなのか
石岡 なるほど。差し障りのあることを言わずに何かをdisるのは難しいのですが、簡単に言いますと僕がずっと学んできたものは、メディアアートみたいなものに対して最もシビアな「ザ・人文」の本道みたいなところです。僕はその成果を基本的には全部尊重しているつもりですが、やはりメディアアート的なものなどのある種の雑多さを嫌うタイプの文化・芸術観というものに対しては、ずっと違和感があったんです。
『視覚文化「超」講義』は『静かなる革命のためのブループリント』と同時期に出たのですが、『ブループリント』を読んでいくつか後悔したところがありました。すごく雑に一ヶ所だけ言うと、僕は映像を映像だけで語ろうとは思わずに、ホビー――つまりおもちゃの趣味とか、SF映画のガジェット、例えば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に出てくる車とか――そういう装置と映像の関わりについて語ったつもりだったのですが、『ブループリント』でレゴブロックやミニ四駆の話を読んだときに、タミヤのミニ四駆を忘れていたと気づきました。あそこで僕は「タミヤはスケールモデル、及びミリタリーのプラモを作っているところ」で、それに対して「ガンプラはかっこいい」という擬似的な二項対立を作ってしまったんです。
宇野 僕なりに、この『視覚文化「超」講義』という本を解釈すると、こうなるんです。いま世の中がどんどん情報ではなくて、体験にしか価値がなくなってきている。映像や音声といった情報は供給過剰に陥っていて、どんどん0円に近づいている。その結果、コミュニケーションというか体験にしか値段がつく時代になった。
そんな世の中で、映像というものを体験的に解釈し直すためのコードを設定した、というのがこの本なんです。つまり「エクスペリエンスドリブンで映像というものを見てみるにはどうしたらいいか」ということを考えたのがこの本です。普通同じことをやると、二次創作論になってしまう。要するにどんな映像も二次創作的に視聴者が打ち返せばインタラクティブに楽しめる、というのがこの手の議論の王道だった。でも石岡さんはそれを排して、たとえば映像が映し出してしまったモノなどに注目することで、エクスペリエンスドリブンの時代の「映像」の楽しみ方を提案しているのだと思うんですよ。
石岡 『ブループリント』に「革命」という言葉が入っていますよね。「革命」というと、マルクスは「世界の解釈を変えるんじゃなくて、世界を変えるんだ」と言ったみたいな話がある。そう考えて、「映像」と「魔法」と言ったときの落合くんのテーゼをそれに翻訳すると、映像というのはあくまでも「モノについてのイメージ」を色々いじってきたんだけれども、そうじゃなくて「モノそのもの」をいじってしまおう、ということになる。そうすると、モノとイメージの関係で言うと、モノを変えちゃうというのは、『ブループリント』の言葉だと革命になるし、「映像」と「魔法」の対比で言うと「魔法」の側になるかなという感じがしました。
落合 俺はよく講演会や論文、ネットで「ここ50年間、映像は映像の世紀として生きてきたけど、映像の外側でも映像と同じように自由度を上げるというのが今世紀の最も重要なことだ」ってよく言っているので、まさしくその解釈で合っています。
石岡 ただそれに関しては、僕は逆の言葉もちょっと言っておきたくて、そうするとやっぱり映像なんてものはただのペラい、現物に対する劣化コピーに過ぎないとかいう話になってしまう。これって多分、文化批評全般に対する大きな疑念とも結びつくと思うんですよ。社会的な批評と文化というものがどこかで分かれているとみなされ、文化が社会の劣化版とされている。僕がなぜ二次元派かというと、いま言った世界そのものを変化させるという話は、当然ながら文化の側にもダイレクトに結びついていると思うからです。
落合 僕はCGの人間なので、実はCGこそが、我々のイマジネーションをフルに使える場所なのだと思います。
なぜなら、コンピュータグラフィクスを生成するコンピューターのデータ空間には、重力もないし摩擦力もないし、何をやっても大丈夫だからです。だけど、こっちの現実世界の不自由さはすごいものがあって、いかに精巧な、リアリスティックな像を作ろうともCGの中の我々のイマジネーションの自由に比べたら大した表現にたどり着くことができない。ハリウッドの映画に見られるような画面の中のCGの方が表現としてやれることが圧倒的に多い。
ジェームズ・キャメロンは何が凄いのか
落合 現実世界での表現が不自由でコンピューターの中の表現が自由、しかもハリウッドには金がものすごいたくさんある。それが現状で、それをどうやって変えていくかを考えるのが、僕は一番良いと思うのです。そこで、今日、僕は一つ問題提起をしたいんです。
コンピューターというと、みんなコンピューターの革命者を想像して、ご多分にもれず「スティーブ・ジョブズすげえ」と思うわけですが、俺の中では最近は「ジェームズ・キャメロンすげえ」なんですよ。だって、ハリウッドの興行収入を上から数えていくと、一位『アバター』、二位『タイタニック』なんですよ。で、ちょっと下のほうに『ターミネーター2』がある。ハリウッドって、80年代からCG業界に金をバンバン突っ込んでいて、自分自身をどれだけイマジネーションから自由にするかっていうことを、実はすごい金を使ってやってきたんですよ。
確かにスティーブ・ジョブズはiPhoneを売ったかもしれないし、Macも売ったかもしれない。でも、ジェームズ・キャメロンは表現という世界で、『アバター』一発で2700億円ですよ。日本のAR(オーグメンテッド・リアリティー)産業を最初から最後まで積分しても、『アバター』一本に全然勝てない。ハリウッドは自分たちの末期、コンピューターによる自由表現が映画を変えていくし産業も変わっていくことを最初からわかっていたから、コンピュータグラフィクスという本丸の産業をあらかじめ買い取って、自分の金で育てておいたわけです。
石岡 今日、色々と準備しながらTwitterを見ていたら、「Ingressが東京でイベントをやっていたときに、緑色サイドの人たちが青島とグアム島と襟裳岬で巨大三角形を作って、日本全土を緑色サイドの陣地にした」という、まさに今日一番のアツい出来事があったんですよ。
Ingressというのは、スマホアプリを使って三角形で現実の地形を囲んでいくゲームなのですが、まず緑側がそういう三角形を作ってしまった。それに対して、青色サイドの廃人が襟裳岬に向かって、4時半とか5時くらいのイベント終了間際に破壊して、「崩れたー」とか「おおー」とか言ってイベントが盛り上がっていた。
僕が面白かったのは、その三角形に一個だけ襟裳岬という日本の場所が入っていたことですね。襟裳岬という一点がギリギリ行ける範囲にあったのが大事で、そうじゃなかったらただのチートです。本当に外から囲っていたらどうしようもない。僕はどちらかというと自宅派なんだけれども、そういうのを見ているとIngressをやりたくなってきますね。
宇野 この「キャメロン vs Ingress」は、結構面白い対比だと思います。それはつまり、「結局、映像の世紀の臨界点はどこなのか」ということなんです。さっきのキャメロンの話から導きだされるのは、「すべての映画はアニメになる」ということですね、これはもともとは押井守の言葉です。
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