宇野常寛がこの一年半の
「ダ・ヴィンチ」連載を振り返る!
――『楽器と武器だけが人を殺すことができる』
発売記念メタコメンタリー
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.12.19 vol.226
本日、「ダ・ヴィンチ」誌での宇野常寛の批評連載「THE SHOW MUST GO ON」をまとめた単行本第2弾、『楽器と武器だけが人を殺すことができる』が全国の書店・Amazonで発売されます。
チームラボ、ドラ泣き、風立ちぬ、多崎つくる、UC……数々の作品を扱ってきたこの連載。本日のほぼ惑では、裏話なども交えながらこの一年半を振り返るインタビューをお届けします。
2014年12月19日発売
◎聞き手・構成:中野慧
■01.〈失われた未来〉を取り戻すために――『STAND BY ME ドラえもん』
――今回の単行本『楽器と武器だけが人を殺すことができる』は、「ダ・ヴィンチ」誌上での批評連載「THE SHOW MUST GO ON」の2013年の3月から2014年の10月号までの約一年半をまとめたものです。今回のインタビューでは、それぞれの回の執筆時期に、批評家としての宇野常寛がどんなことを考えていたのかについて、裏話やメタコメンタリーなども交えつつお話しいただければと思います。まず、冒頭を飾った「〈失われた未来〉を取り戻すために――『STAND BY ME ドラえもん』」についてはいかがでしたか。
宇野 この連載は「毎月そのときに自分が書きたいと思ったものについて書く」というコンセプトでやっているんだけど、3つも4つも書きたいネタがあって困ることもあれば、ひとつも書きたいものがなくて締切直前まで悩んでいたりするときもあるんだよね。で、このときはまったく書きたいものがなくて、自分に引っかかりのありそうなものを片っ端から読んだり観たりしていたんだけど見つからなくて、焦っているうちに締切の前々日ぐらいになっちゃった。
で、藁にもすがる思いで、他の仕事が終わった後に新宿のバルト9で『ドラ泣き』を観て、「あ、これで書ける」と思って、家に帰らずにそのまま深夜のファミレスで一気書きしたんだよね。
いや、いい作品なんだよね。泣けるし。でもさ、ものすごく後ろ向きな映画だと思った。要はこれから日本人は、高度成長期からバブル時代までの「あの頃」をひたすら脳内美化して、反芻しながら思い出に浸って生きて行こうってことだからね。だから『ALWAYS 三丁目の夕日』と一緒なんだよ。それも、表向きは未来を描いているから余計に根が深い。
要は「こんな後ろ向きな映画が支持されるこの国はダメだ」という憤りを書いたんだけど、ものすごく反響があって、しかも好意的なものが多かった。僕と同じようなことを考えてくれる読者がたくさんいるということに希望を持つことができて、逆にそれはすごく嬉しかったかな。
――ちなみにこの回って実は、『楽器と武器』収録の評論のなかでは一番最近のものですよね。前回の単行本
『原子爆弾とジョーカーなき世界』のときは目次が掲載順でしたが、今回そうなっていないことには何か理由があるんですか?
宇野 ああ、今回の順番の並び替えは「ダ・ヴィンチ」編集部の判断だね。関口編集長も特にこの回に手応えを感じていたらしく、最初は「失われた未来を取り戻すために」を、この本のタイトルにしたいと言っていた。でも僕は、自分が好きと思える作品について熱っぽく語っているものを表題作にしたかったので、井上敏樹さんの小説『海の底のピアノ』について書いたときの今のタイトル(=楽器と武器だけが人を殺すことができる)に落ち着いたんだよね。
■02.鳥は重力に抗って飛ぶのではない――『風立ちぬ』
――2番めに掲載されているのは『風立ちぬ』ですが、こちらはいかがでしたか。
宇野 これは書いたのが2013年の夏で、当時よしりんと論争になったりして話題になっていたので読んだ人も多いんじゃないかな。要は「世間で『風立ちぬ』はすごい大傑作だって言われているけど、僕には物足りないものだった」ということを書いている。
きっかけになったのは、富野由悠季監督とご飯を食べながらこの作品についてずっと議論したことなんだよね。富野さんはこの映画に肯定的で、カプローニの夢のシーンが素晴らしいと言っていた。要はカプローニって「みんなで食事をしながら大家族でワイワイやっている」という従来の宮崎アニメの建前の象徴で、でも宮崎駿が本当につくりたかったのはサバの骨=零戦つまり戦闘兵器だった。『風立ちぬ』では、そういう剥き出しの本音を吐露しているから素晴らしいんだ、と。
――なるほど。
宇野 でも僕は逆に、本当は建前にすぎないものを全力で信じようとしていた宮崎駿のアニメのほうが豊かだったと思っているんだよね。『風立ちぬ』って、僕が『リトル・ピープルの時代』で指摘したような日本の近代男性ナルシシズムの典型的な矮小さが全面展開されていて、それが宮崎駿作品の底流にあったということがはっきりしたという意味で重要な作品だけれども、個人的には豊かなフィクションではなく貧しい現実を観させられたような気分になってしまったんだよね。だってさ、あんな風に奥さんの人生を自分に奉仕させている文化系マッチョイストってこのショボい日本社会の現実に溢れているでしょう?
あんな弱めの肉食系の男根主義の吐露なんて、ロマンでも何でもないよ。矮小でありふれた現実以外何ものでもない。だからこそ、あれだけ支持されたんだろうけどね。
■03.あたらしい駅のかたちについて、彼は想像することもできない――『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
――3番目は村上春樹の『多崎つくる』です。
宇野 これは色んな意味で思い出深いね。実は「ダ・ヴィンチ」に村上春樹のインタビューが掲載された何ヶ月か後に、この『多崎つくる』をボロクソに書いた僕の評論が掲載されることになって、編集長の関口さんはかなり困ったらしい。でもね、彼は僕を守ってこの原稿を通してくれた。想像するにいろいろ立場もあったと思うんだけど、僕は本当に関口編集長に感謝していて、心からありがとうを言いたい。
ただ、それ以降、関口さんに対してなんとなく精神的に借りができてしまい、Facebookの友達候補にいつも出てくるんだけど、怖くていまだに友達申請できていないんだよね……。
■04.アッシュ・リンクスは、それでも生き延びるべきだった――『海街diary』
――次は吉田秋生の『海街diary』です。
宇野 僕は高校生のときから吉田秋生がすごく好きで繰り返し読んでいて、作品の舞台である鎌倉も好きだからよく行っているんだけど、そんな僕が『海街diary』にはあんまりハマれていなくて、それはなぜなのかを考えて書いたのがこの原稿なんだよ。
実はこの回が掲載された「ダ・ヴィンチ」は少女漫画特集で、その流れで読んだ人も多いと思うんだけど、僕の評論では後半からなぜか『幕張』や「奈良づくし」の話が頻出したりして驚かせてしまったみたいなので、申し訳ございませんでした、という感じですね……(笑)。
――『海街diary』の世界には奈良は存在できないけれど、吉田秋生の過去作『河よりも長くゆるやかに』の延長線上の世界でなら、奈良が「奈良づくし」を放っていてもおかしくないという話でしたよね。
宇野 そうそう、僕はウケ狙いでああいった話を書いているのではなくて本気でそう思っていて、やっぱり『海街diary』の世界は優しいかもしれないけどあんまり多様だとは思えない。ブサイクで淀んでいても、もうすこし多様な世界のほうが僕は好きだなってことを書いた。吉田秋生をずっと読んでいた人にこそ読んで欲しいと思っている文章かな。
■05.フル・フロンタルこそ真の「可能性の獣」である――『機動戦士ガンダムUC』
――次の『機動戦士ガンダムUC』についてはいかがでしたか。
宇野 僕は本当にガンダムが好きで、それに今回の原作小説を手掛けた福井晴敏さんの作品も、デビュー作からだいたい読んでいるけれど、一方で彼の人間観や社会観にはあまり共感できないなとは思っていた。で、正直に言って『UC』を観ていると「今のアラフォー世代はこんなに自信がないのか」「しかもそれをこんなかたちで解消しようとしているのか」ということが情けなくて、涙が出そうになってしまった。そのことを何らかの形で言葉にしなきゃいけないと思って書いたんだよね。
逆に僕は最近、80年代当時に富野由悠季が出した「ニュータイプ」という概念ってなんだったんだろうとすごく考えることがある。あれは富野由悠季独特の、当時のポップカルチャーの爆発やニューメディアの台頭に適応した若い感性の比喩だったはず。そういうモチーフに駆動されていたガンダムという作品が、30年後には『UC』のように40代男性の矮小な自分探しの話になってしまったことの意味は重いと思っている。
でもまあ、これを反面教師にして、自分がどう「ニュータイプ」の遺伝子のようなものを継げるのか、ということを考えていきたいと思うようになったかな。
■06.佐賀と猪子とスーパーマリオ――『チームラボと佐賀 巡る! 巡り巡って巡る展』
――『佐賀と猪子とスーパーマリオ』については。
宇野 この連載ってそもそも、エッセイと批評部分の中間的な書き方をすることを最初に決めていたんだよね。で、書いているうちににだんだん批評の側面が強くなっていったんだけど、そのエッセイ的な内容がすごく色濃く残っている回だと思う。
猪子さんって本当はすごい照れ屋なんだよね。あのキャラクターでメディアに出ているのは、そっちのほうがやりやすいし、それで得することもわかっているから。でもここ最近、本格的に彼と一緒に仕事をするようになって、極めてシリアスに平和や美について考えている男であることがやっとわかってきた。実際に彼の作品もこの2〜3年でだんだん変わってきていて、要は自分の中の過剰なものを、「猪子寿之という着ぐるみ」を介さなくても表現できるようになってきている。それは彼の作家としての成熟であり、ある種の覚悟の表れだと思うし、僕もそれに対してきちんと打ち返さないといけないと思って書いたものなんだよね。
■07.僕たちはもっともっと深く潜ることができる――『あまちゃん』
――次は『あまちゃん』です。
宇野 ゼロ年代からクドカンを追いかけてきた人間としては、やっぱり『あまちゃん』はある種の達成だと思うんだけど、一方で「ここまでは手を伸ばすけれど、ここからは手を伸ばさない」という”線を引いた”ところがある作品だと思うんだよね。そこをしっかり言葉にしておかないと先に進めないと思って厳しめの内容を書いたんだよね。
ただ僕は『あまちゃん』ブームに冷や水をかけたかったのではなくて、『あまちゃん』ができたこととできなかったことから、どんな課題を持ち帰ったらいいかを僕なりにすごく真剣に考えて書いた。あの評論を読んでがっかりした人がいたら、申し訳ないことをしたと思うけど、それぐらい僕にとっても大事な作品だったということなんだよ。
■08.「絆」なんか、要らない
――次は「『絆』なんか、要らない」です。これは内容はテレビ論ですね。
宇野 この回が掲載された2013年って、テレビドラマの勢いが復活したりしたこともあって、テレビ論が非常に盛り上がった一年だった。けれど「テレビはやっぱりマスメディアの王様なんだ」という肯定論か、「ネットの時代になってテレビは終わった」みたいな否定論の二項対立になってしまっていて、あまり建設的な議論になっていなかった。
僕は今までテレビの仕事をしていて痛い目にも遭っているけど、それでも「一緒に仕事したい」と言ってくれている人たちがいるし、二項対立的ではない「新しい時代のテレビの役割」について考えたいと思ってこの回を書いたんだよね。
■09.「それでも、生きてゆく」ために必要な『最高の離婚』
――次に、そのテレビドラマ復興のマスターピースと言われる『最高の離婚』についての評論が続きます。
宇野 僕は坂元裕二という作家をあまりテーマ主義的に読んでも仕方ないと思っていたんだけれど、彼なりにずっとドラマの中で展開してきた家族論的モチーフが本気だったんだな、と『最高の離婚』を観て思って、そのことを一回言葉にしてみたくて書いている。ちなみによく読むと、なんの脈絡もなく「僕は尾野真千子の大ファンで……」って書いてあって、これは密かな愛の告白に近いものがある、というね(笑)。
■10.フリット・アスノの魂は、円堂教に救われる――『イナズマイレブンGO2 クロノ・ストーン編』
――次は、『イナズマイレブンGO2 クロノ・ストーン編』です。
宇野 これは一番気に入っている回かもしれない。レベルファイブの日野さんについて語るのって、ゲーム業界でもアニメ業界でもなんとなくタブーのようになっている気がするんだよね。せいぜい、彼のマーケティング的なうまさや一種の「あざとさ」が若干のネガティブなニュアンスとともに語られているぐらいじゃないかな。
でも日野さんって、80年代の少年マンガや児童マンガのドラマツルギーをどうアップデートするかに本格的に挑戦している人だと思うんだよね。彼の仕事って、実は非常にコンセプチュアルな物語設計がされている。今の『妖怪ウォッチ』のブームは僕から言わせると、『ガンダムAGE』までに培ってきた日野さんらしいテーマ設定を全部捨てて、全く別の課題に挑むことによって成功したものじゃないかな。こういったことはあんまり言葉にしている人がいないから、まとまった評論をいつか書こうと思っているんだよね。
■11.あっと驚く「奇跡」の証明――『恋するフォーチュンクッキー』
――AKB48『恋するフォーチュンクッキー』については。
宇野 まあ、これについては色んなところでたくさん書いたよね(笑)。僕自身も『恋するフォーチュンクッキー PLANETS.ver』をつくったりしてすごく楽しんだし、AKB48現象のポジティブな側面が詰まった一曲だと思う。
ひとつ付け加えるとすると、たとえば音楽畑の人がAKBについて語るとき、「AKB商法やアイドルブームによって自分たちが信じている音楽の世界が減らされてしまう。でもそんな現実を受け入れた方がいいのだろうか?」という、彼ら彼女らの内面の葛藤がメインになっていて、実はAKBそのものについて全然語っていなかったりする。そうではなく、この文化の中身についてしっかり語ろうと思って書いたものなんだよね。
■12.坊屋春道を「卒業」する方法――『WORST』
――『WORST』についてはいかがでしたか。
宇野 僕自身が1〜2ヶ月に1回は『クローズ』を読み返している高橋ヒロシ信者なんだけど、でも『WORST』ははっきり言って面白くなかった。『WORST』の行き詰まりは、今の男性性の行き詰まりとイコールだと僕は思っている。『クローズ』が始まったのはバブルの頃なんだけど、その時代に高橋ヒロシは今のマイルドヤンキーと呼ばれているようなメンタリティ、新しい世界における男性性のあり方の未来を極めて意識的に展開しているのがすごかったと思う。ただ、ある地点から先にまったく進めなくなっているのがこの10年で、それを端的に表しているのが『WORST』なのかな、と。
■13. 「D」は○○○○の「D」――『頭文字D』
――次は同じく広義の「ヤンキー」を扱った漫画『頭文字D』です。これは反響の大きかった回ですよね。
宇野 この回は完成度でいうと一番好きな回かなぁ。さっきの『クローズ』もそうだし、『新機動戦記ガンダムW』や、この『頭文字D』のような、リアルタイムではどちらかと言うと俗悪なものだと思われていたものの方が先取的だったのではないかと思う。何に対してかというと、同じ95年の『新世紀エヴァンゲリオン』に対してね。
『エヴァ』って実は戦後民主主義的な男性性の影響を強く受けていて、「父になる」という家父長的なナルシシズムをストレートに肯定するか、それともアイロニカルに肯定するかの間で揺らめいている。でも『頭文字D』は「父になる」という自己実現の回路を過去のものとしてとっくに切り捨てていて、今でいうところのマイルドヤンキー/ライトオタク的なメンタリティを先取的に描いていると思うわけ。
いや、これを読んでいる人はマジで今すぐKindleでイニDの最終巻をダウンロードするべきだよ。二十年くらい連載していて最終回に、全員男だけで「今日は良い肉を用意したから食ってくれ」「今年も楽しかったね」とか言いながらBBQパーティーをして終わったマンガはこれだけだと思うから(笑)。
■14. 楽器と武器だけが人を殺すことができる――『海の底のピアノ』
――本のタイトルにもなっている「楽器と武器だけが人を殺すことができる」、井上敏樹さんの『海の底のピアノ』について書いた回はいかがですか。
宇野 僕は2年前の『ユリイカ』平成仮面ライダー特集号で敏樹さんにインタビューしたことがきっかけでゆるやかに井上敏樹一派に組み込まれつつあるんだよね(笑)。いつの間にか「宇野」と呼び捨てにされ、そして「渋谷6時」とか、「早く来い」とか数文字メールで召還されるようになっていたりするんだけど、これを書いたきっかけも敏樹さんとご飯を食べながらいろいろ話したことなんだよね。
そのときは寿司屋のカウンターで「『仮面ライダーアギト』は神様の話で、『仮面ライダー555(ファイズ)』は神のいない国の話なんだ」みたいな話をして盛り上がっていた。今思うと、現代における「神」や「超越」というか、「解脱」したイメージとして『アギト』の主人公の津上翔一がいて、津上翔一のいない世界のドラマを書いているのが『555』だったんじゃないか。じゃあ、「『555』的な神のいない世界で美や超越は存在するのか」ということを退廃的に描いているのが『海の底のピアノ』なんだ、ということを書いているんだよね。
▼「ほぼ日刊惑星開発委員会」では井上敏樹さんのエッセイ連載を配信中です!
ぜひ
こちらから。(PLANETSチャンネル入会で今月分を読むことができます)
■15. テレビリアリティのゆくえ
――続いて「テレビリアリティのゆくえ」についてはいかがですか。
宇野 一口に「テレビ的リアリティ」と言ってもいろんなものがあるけれど、たとえば今年話題になった『笑っていいとも!』のフジテレビが持っているのは自己言及の文化だよね。で、その自己言及の文化って再現のないメタゲームが要求されるから、今ではほとんど擦り切れていると思う。その最終形態が、「テレビが嫌われていること自体をネタにする」という福田雄一の仕事だということを書いている。
僕はこの少し前に福田さんのインタビューをしているのだけど、そこで彼は必死に「テレビ的なものを残したい」と言っていた。だから、この評論も読んでくれたらしくLINEで短く感想をくれたりしたんだけど、今考えると当時すでに『アオイホノオ』の制作を開始していたんだよね。
でさ、この『アオイホノオ』がまた面白くてひっくり返るわけ。あれってテレビ的な装置を一切使わずに、近過去の歴史のデータベースを利用しておいてフィクションとノンフィクションとを往復している。要するに、従来のテレビリアリティ的な自己言及を使わずに、「テレビ的なもの」に近い面白さを出しているわけ。あれはすごかったね。でもさ、あれをやってしまうともう媒体はテレビじゃなくていいよね。ネットコンテンツでも構わない。テレビっぽい笑いのセンスは延命しているのだけど、テレビという器には依存していない。福田さんには悪いけれど、アレを見て「ああテレビってやっぱ終わるんだ」と思っちゃったな。
■16. ハイ・イメージ論2.0へのメモ書き――「吉本隆明のDNA」をどう受け継ぐか
――「吉本隆明論」についてはいかがですか。これは収録されているもののなかでは異色のものかもしれないですが。
宇野 これはもうね、その月はシンポジウムの準備で吉本隆明しか読んでいなかったから、これしか書くものがなかったというだけなんだよね(笑)。でも本当に、「吉本隆明を情報社会論として読みなおす」というのは来年がっつりやろうと思っていて、いま構想をまとめているので、期待していてください!という感じです。
■17. 東京2020――裏オリンピック計画
――最後は、「東京2020――裏オリンピック計画」です。
宇野 これはPLANETSの次号を思いついた時の話だよね。僕はオリンピックにまったく興味がなくて、ロンドンオリンピックも1秒も見ていなかった。そんなときに、今メルマガで『在英官僚の滞英日記』を連載してもらっている橘宏樹くんとご飯を食べていたときにその話題で盛り上がって、話の流れで「裏オリンピック計画をやったらいいんじゃないか」ということになった。その後一年近くその本をつくるのに時間をかけることになるんだから、人生ってわからないものだよね。
と、いうことで、これは完全にPLANETSに都合のいい流れになってしまったけれど(笑)、来年は次号『PLANETS vol.9 東京2020 オルタナティブ オリンピック プロジェクト』をよろしくお願いします! 発売は1月31日を予定しています。
(了)
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