初出:「サイゾー」2014年8月号
今日のほぼ惑は、今年春に発売となった村上春樹の新作『女のいない男たち』を宇野常寛とライターの森田真功さんの対談をお届けします。社会現象となった『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』から一年、いよいよ明らかになってきた、村上春樹作品に象徴される「現代日本文学」が構造的に孕む矛盾と困難とは――?
▼プロフィール
森田真功(もりた・まさのり)
1974年生まれ。純文学からマンガ、ロックミュージックからジャニーズまで、取り扱うジャンルは幅広い。レビューブログ「Lエルトセヴン7 第2ステージ」
◎構成/橋本倫史
作品紹介
書きおろしの表題作のほか「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「独立器官」「シェエラザード」「木野」の計6作を収録した短編集。「シェエラザード」は文芸誌「MONKEY」掲載、そのほかは「文藝春秋」掲載。
森田 村上春樹の新刊『女のいない男たち』は、語るべきことも少ないし、それほど面白い小説だとも思いません。ただ、これがなぜ面白くないかを考えると、色々なことが見えてくる作品ではあるんじゃないかとは思います。
表題作の中で解説されるように、「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。ひとりの女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」というのが今回の短編集のモチーフ。特定の異性が去る/自殺する/殺されるというモチーフは、村上春樹の過去の作品でも頻繁に用いられてきた。今までと大きく違うのは、中年以降の男性を主人公にしている点ですが、それはむしろ、今作がつまらない原因になっています。これは村上春樹という作家自身の限界でもあるし、彼に象徴される日本文学の限界でもある。
宇野 村上春樹は、『1Q84』【1】の『BOOK3』以降、明らかに迷走していると思う。『BOOK3』では、『BOOK1』と『BOOK2』についての言い訳──父になる/ならないという古いテーマから逃れられないのは仕方ないじゃないかということをずっと書いているわけですよね。前作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』【2】(以下『多崎』)でも、そうした近代的な自意識としての男性と、それを成立させるための女性的な無意識、という構造から逃れられない自分の作品世界の限界についての言い訳をずっと繰り返している。そして『女のいない男たち』になると、いよいよその言い訳しか書いていないというのが僕の感想ですね。
【1】『1Q84』:09~10年にかけ、現時点で3巻刊行(村上自身は『4』を書く可能性があるとインタビューで答えている)。1984年から異世界”1Q84”年に入り込んだ天吾と青豆の試練を中心に、宗教団体や大学闘争をモチーフに取り入れた作品。
【2】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』:名古屋で過ごした高校時代の友人グループから、大学進学により一人で上京したのちに突然絶縁された多崎つくる。16年後、36歳になった鉄道会社社員のつくるは、デート相手の言葉によって4人の元を訪ねる旅を始める。
森田 村上春樹の限界と現代日本文学の限界というのはパラレルです。これは石原慎太郎が登場した頃に起源があるのかもしれないけど、70年代後半に村上春樹と村上龍が出てきた頃に「文学自体がユースカルチャーとして機能する」ということにされた。当時は作家も若かったし時代ともマッチしていたけれど、今やそう機能していないのに、同じモチーフの焼き直しをやっていても駄目なんです。
『多崎』の主人公・多崎つくるは、36歳という設定だった。村上春樹の短編「プールサイド」には「35歳が人生の折り返し地点だ」という話が出てきますが、多崎つくるも折り返しの年齢にある。「プールサイド」【3】が発表されたのは83年だから、村上春樹という作家は30年経っても人生の折り返し地点のことばかり描いていて、折り返したあとのことは描いてこなかった。それが今作では年を取らせてみたけれど、うまくいっていない。
【3】「プールサイド」:短篇集『回転木馬のデッド・ヒート』(講談社/85年)所収。「35歳になった春、彼は自分が既に人生の折りかえし点を曲がってしまったことを確認した。」という書き出しから始まる。
宇野 内容的な話をすると、今作のタイトルは『男友達のできない男たち』としたほうが正確なんじゃないかと思うんだよね。というのも、「シェエラザード」を除くすべての短編が、魅力的な男友達と仲良くなるけれどうまくいかないという話になっている。初期作品にも「自分と対等な男のパートナーが欲しい」という欲望は伏流として流れていたと思うんだけど、それが驚くほど前面化しているのがこの作品集だという気がする。初期3部作の『羊をめぐる冒険』(82年)で「鼠」【4】が自殺して以降、そういう欲望は一切封印されていた。以降の作品では、嫌な言い方をすれば「かつて親友が自殺した」というエピソードが「人間的な深みを演出するためのスパイス」として、カジュアルな口説き文句に使われる程度だった「男友達」というモチーフが、ここにきてもう一度重要なモチーフとして浮上していることが、この作品の中で語るに値する唯一の要素だと思う。この先の村上春樹の長編は、同性の対等なプレイヤーとどう関係を紡ぐのかが鍵になるかもしれない。
【4】「鼠」:デビュー作『風の歌を聴け』(79年)、『1973年のピンボール』(80年)、『羊をめぐる冒険』(82年/すべて講談社)の初期3部作は「僕と鼠」ものとも呼ばれ、主人公の「僕」と親友である「鼠」の関係が重要な軸となっている。
村上春樹の作品において、女性の存在は非常に差別的に扱われているんだけど、それは彼が女性を人間として見ていないからだと思う。女性は、世界に対する蝶番として存在しているんですよね。春樹の中では無意識の象徴として扱われる女性という蝶番を用いることで、イデオロギーや宗教とは違う回路で世界と繋がることができる──こうしたモチーフを繰り返し描いていた。それが”女のいない男たち”となると、まさに「女がいない」ということで世界に対する蝶番が外れてしまっている状態にある。そうした世界で人はどうなるのかというのが今作の隠れたテーマで、そこで同性の友達に対する期待や憧れと、そこに自分は踏み込むことができないという諦めがない交ぜになったものが描かれている。
かつての村上春樹の作品において、男友達は、全共闘世代が68年に損なってしまったものの象徴としてのみ描かれてきた。しかし今作では明確に異なっている。村上春樹がこの30年で培ってきたものとは別の世界に対する蝶番として男友達を位置づけようとしている。ただ、それを信じることができなくて、女を失い、男友達もできずに一人佇む話が並んでしまった。どこまで意識的かわからないけれど、この閉塞感は作家としての村上春樹の行き詰まりとも重なっている。ここ数年の作品では行き詰まり、別の回路を模索してはいるんだけど、本人がそれを全然信じられていないし、その回路を展開する想像力も持っていないということが露呈してしまっている。その意味で、今作は興味深い作品だというのが僕の判断。
森田 何かを寓話化して小説を書こうとするときに、村上春樹がモチーフとしたいものが発展していないので、同じものの焼き直しになってしまっているんですよね。2つの価値観の対立、リアリズムとアレゴリー──比喩、あるいはファンタジーが、『1Q84』も『多崎』も全然うまくいってない。『アフターダーク』【5】でもやっていた多人称の路線も総合小説としては『海辺のカフカ』【6】あたりが限界で、そこからの発展性は何もない。そこで再生産の段階に入ってしまったのがここ最近の作品じゃないか。男友達という存在の話にもつながるけれど、主人公をサポートする、あるいは対になる役割を物語の中に全然つくれていない。村上春樹の書き方の中から、それが失われたまま来てしまっている。初期の頃に評価されたアメリカ文化との緊張関係みたいなものも、今日において有効ではない。その部分を引き算にしなければならないことの影響も随所に及んでいます。
【5】『アフターダーク』:04年刊行。三人称形式と一人称複数の視点での語りが混じり合う、村上春樹作品としては珍しい試みがなされた長編。深夜の都会で起きる出来事を描写していく。
【6】『海辺のカフカ』
02年刊行。父親の呪いから逃れるために家出した15歳のカフカ少年と、猫探しをする知的障害の老人ナカタそれぞれの動きが徐々に交わり、異世界と現実が交錯する中で隠された謎が徐々に明らかになってゆく。
宇野 『アフターダーク』の頃の村上春樹は、結果的にだろうけど想像力のレベルでグーグルと戦っていた。
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