ゲーム全史連載の中川大地が“心のゲーム”「FFⅩ」を語る、ヤング時代の13年越しのお蔵出し原稿! HD版をプレイ中のあなたも、思わず胸が熱くなるはず。
僕が『ファイナルファンタジー(FF)』というシリーズに感ずる共同性みたいなものは、単にファミコン世代一般としての腐れ縁感覚というだけにとどまらない、もうすこし個別的なゲーム受容の履歴に由来するのだと思う。
それはおそらく、だいたい1990年代も前半からのこと。ファミコンブーム当初の猥雑な活気は過ぎ、国民機スーパーファミコンの爛熟とともに売れるゲームは固定化。ROMカセットの値段は吊り上がり、わが国の家庭用ゲームシーンに最初の閉塞感が訪れていたおりがちょうど僕の中高生時分で、「自由な冒険」を味わいたい場も、モニタ上の仮想世界ではなく現実世界での様々な出会いの方へとすっかりシフトしてしまった。そんなゲーム体験のかたちは、結構多いんじゃないだろうか。
で、いったんはゲームを「卒業」してしまった僕とか彼らにとって、ドラクエとFFは何年かに一度、そのときだけはブラウン管のなかの非日常を介してゲームの共同性につかのま浸る帰省の旅路。ただしそれぞれの「帰省」の体験の質は明らかに違う。ドラクエで出会うのが少年時代から変わらぬあの懐かしき村祭りだとすれば、FFがもたらすのは、こっちの変化と同等かそれ以上の変貌を遂げ、なにやら遠い存在になってしまいそうな焦燥をかきたてる、都会へ先立った同級生との唐突な再会だ。
どうやら少なからぬ人にとって、それは淋しさばかりをつのらされる体験であるようなのだけど、僕に関してはそうでもない。なにせ、「古き良きゲーム村を離れてよそいきの見てくれを整えていく」ありさまは、まさにこちらの似姿だ。近くに寄ってよく眺めたときの意外な変わらなさ、涼しげな外見の裏の必死さ・あぶなっかしさ、底にあるものの垢抜けない田舎臭さ・朴訥さなんて属性もふくめて、情と呼ぶには幾分カラッとした親近感に、ついほだされてしまう。
そんな感じで、僕はFFを愛してきた。
だから、2001年の夏に『X』がみせてくれたさらなる洗練には、正直舌を巻いた。『VII』『VIII』と通じて、主人公とプレイヤーの立場と精神状態の響きあわせ方の工夫に試行錯誤を重ねてきた制作チームが今回採ったのは、「物語後半のある決定的な場面からの回想語り」という体裁と「異世界への強引な闖入」の併せ技。スタートボタンを押すと同時に脳裏に刻まれる「最後かもしれないだろ」の台詞の場面へどう繋がるのかという興味、および「シン」の出現と狂言回しアーロンの巧みな誘導で故郷ザナルカンドから異世界スピラに放りこまれるまでのたたみかけるような冒頭展開は、シリーズ屈指のスリリングさでプレイヤーを引きずり込む。そんなドサクサで「これはお前の物語だ」なんて言われる頃には、プレイ前に感じてた主人公ティーダのヘンテコな風体への違和感なんかはすっかり吹き飛んでいたものだ。
世界の見るもの聞くもの全てが主人公にとって初めてという異世界ファンタジーの趣向はシリーズとしても実は最初のことで、これまで何故やってなかったのだろうと思うほど、「他人」たる主人公キャラへの感情移入を要するFFのシステムによくハマる。初めて声優を用いたボイスつきの演出はここの部分でも功を奏していて、他のゲームにあまり類をみない主人公モノローグの多用は、異世界で出会う仲間たちとも共有できない心情をプレイヤーにだけ聞かせ、ともに見知らぬスピラを旅する一体感を呼び起こす。FFがFFであることを突きつめてのこういう発見は、まさに伝統というのが絶えざる自己更新という意味であることを思い知らせてくれるだろう。
そんなFFの伝統のひとつに、だいたい通底する意味合いや意匠群をもちながら、作品毎の物語の趣向や登場人物のキャラクター造形、テーマ性に応じて、毎回すこしずつ異なったかたちで変奏される世界観がある。
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