かつてこのメルマガで連載されたあの伝説の人生相談が、満を持して再登場! 連載再開2回では、「他人と一緒にいること」にまつわる悩みに國分先生が答えていきます。
『哲学の先生と人生の話をしよう』連載第1期の内容は、
朝日新聞出版から書籍として刊行されています。
書籍の続編となる連載第2期「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」の最新記事が読めるのは、PLANETSメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」だけ!
過去記事はこちらのリンクから。
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連載再開第2回のテーマは、「他人と一緒にいること」。
恋人でも結婚相手でも、友達でも同僚でも、子どもでも――。
誰かと一緒にいることについての悩みに、國分先生が答えていきます。
それでは、さっそく今回寄せられた相談を紹介していきましょう。
■Q1.「母親が遺した飼い犬がどうしても好きになれません」
コクリコ 37歳 女性 大阪府 自営業
國分先生こんにちは。37歳自営業の兼業主婦です。昨年母が亡くなり、飼っていた犬を引き取りました。一緒に暮らし始めてから一年余りになりますが、正直可愛いと思ったことは一度もありません。母が甘やかしたため我儘放題で、仕事や家事で疲れている時に吠えまくられたりすると「早く死ねばいいのに。」としか思えません。
もともと犬が苦手というのもあるのですが、それ以上に母との関係が影響しています。
うちは母一人子一人の母子家庭だったのですが、私が赤ん坊の頃に母が失踪し、5歳まで祖母に育てられました。6歳から再び母と暮らすことになったのですが、母は家事をあまりせず、異性関係も派手で、私はかなりほったらかされて育ちました。しかし5歳まで離れていたせいか「この人に母親らしいことを求めても無駄だ。」と早い段階で悟り、グレたりはしませんでした。
大人になってからは、母とは親子というより友人のような関係で、最後まで仲は良かったです。
母は昔から犬を欲しがっていましたが、私はずっと反対していました(母にちゃんと世話ができるとは思えなかったため)。しかし母は10年前、ペットショップで一目惚れしたトイプードルを私に相談もなく衝動買いしたのです。
私は犬との生活が嫌で家を出て一人暮らしを始めました。数年後母が病に倒れたため実家に戻り、その後私が結婚するまでの5年間はまた一緒に暮らしましたが、母が入院中などどうしても世話ができない時を除いては、犬の存在は極力無視して暮らしました。
母は予想に反し、犬の面倒をよく見ました。昔から「低血圧で朝は起きられない。」が口癖で、朝食も弁当も作らなかった母が、犬にはちゃんと午前中に起きてご飯をあげていました。
恥ずかしいことですが、私は犬に嫉妬したのです。私が母にもらえなかった愛情を、何故犬がもらえるんだと。國分先生ともんじゅ君との対談にもあった「私は我慢してきたのに」という感情にとらわれているのだと思います。おそらくこの感情を完全に消すことは一生できませんが、何とかこの感情と、そして犬と、上手くつきあっていくヒントをご教示いただければ幸いです。
■Q2.「他人の欠点に目が行ってしまい、嫌いな人には真逆の態度をとってしまいます」
もちぷに 22歳 女性 東京 学生
國分先生、始めまして。ご相談させていただきます。
私は、現在22歳の学生です。
(相談に関係のない蛇足ですが、哲学科の者で、先生が書かれた御本をとても面白く読ませていただきました)
私の悩みは、他人と一緒にいる時に、いちいちその人の欠点に目が行ってしまうことです。
もともと、誰かと接する時には、この人はこういう考え方や性格の特徴がある人かな、と考えることが好きなのですが、最近それに加えて「この人は子供っぽいな、あんまり関わりたくないなあ」とか「この人はこういうところが頭が悪いなあ」などという判断をしてしまうようになっていました。
さらに、特に悪い評価や印象を受けた人に対して、私の実際の態度は、なぜか真逆に現れます。
やさしくしなければ!という思いが出てきて、親しいコミュニケーションを取るようになり、表面上は普通の友だちのようになってしまいます。
相手に対する評価をしてしまうことと、実際の行動がちぐはぐになってしまうことが、今回のご相談です。
拙文ですが、お返事を頂けると幸いです。
よろしくお願いします。
人生相談再開第二回のテーマは「他人と一緒にいること」にしました。
このテーマは最近僕が強い関心をもって取り組んでいるものです。実は哲学ではなぜ人が人と一緒にいたいのかについて十分に考えられてきていません。個人がどう生きるべきか、社会の中でどう生きるべきかなどはたくさん論じられています。また、愛とは何かとか、友情とは何かなどもたくさん論じられています。しかし、もっと素朴な問い、なぜ人は誰かと一緒にいたいと思うのか、これが論じられていないんです。
但し、この問いを逆側から考えた哲学者はいます。それがルソーです。ルソーは『人間不平等起源論』の中で自然状態について考えました。これは一七世紀から盛んに論じられていた概念で、社会や決まり、権力や権威などが一切存在しない状態のことです。生のままの自然の中にいたら人間はどう振る舞うか、それが様々な仕方で考えられたのです。いくつかのバージョンがあるんですが、ルソーのは次のようなものです。
ルソーによれば、人は自然状態においてはバラバラに過ごしています。なぜなら人は好き勝手に自分の好きなことをしたいからです。食べたい時に食べ、寝たい時に寝る。ですから、平和です。もちろん、小さな小競り合いなどはあるでしょう。しかし、人がバラバラなんだから集団がない。集団がないから戦争もない。ケンカがあるだけです。
ルソーの自然状態論は、しばしば性善説のように理解されることがあります。しかしそういうことではありません。そうではなくて、自然状態では人間が邪悪になるような条件が整っていないのです。たとえばジル・ドゥルーズはルソーの自然状態を説明して、「相続という制度が発明されれば、人が他人の死を望むことは避けがたい」と言っています。地位や身分が作られれば、人を妬んだり恨んだりもするでしょう。しかし自然状態ではそういうものはない。だから邪悪になりようがない。比較的平和に、そしてバラバラに生きている。
ルソーはこのバラバラに生きているという点にこだわっており、それを理解せずに半端な自然状態論を展開したジョン・ロックを批判しました。ロックは自然状態にも所有権が認められており、家族があると言いました。男女は交わりを経験すると、生まれる子どもへの自然な愛情を抱き、それによって結びつくと考えたのです。ルソーに言わせれば、ロックは実に抽象的に考えています。セックスをしてから子どもが生まれるまでは10ヶ月ある。この妊娠期間中に男が女に付いて離れずにいる理由はないというのです。「なるほど」と言わざるをえません。ロックという人の思想は、僕に言わせれば全然哲学になっていない。単なる主張です。ルソーの言う通りでしょう。
さて、ルソーは人々は自然状態ではバラバラに生活していると言いました。そこにはある種の説得力があります。人は何の規制もなければ好き勝手に生きていたいと望むであろうからです。しかし、我々はそうではありません。本当に少数の例外を除き、人は誰かと一緒にいたいと感じます。これはなぜなのでしょうか? ルソーが言っていることと、僕らの現実の感覚と、いったいどちらを信じたらいいのでしょうか?
おそらく次のように考える必要があります。ルソーは確かに人間のある種の本性を理論的に正確に考察した。しかし、そこで扱われているのはあくまでも本性です。この本性は具体的な人間が経験してきたような歴史をもっていません。僕らはしかし、本性をもっていると同時に、これまで生きてきた歴史をもっている。
おそらく、この、一人ひとりの歴史というものが、誰かと一緒にいたいという気持ちを生み出しています。ではこの歴史とは何でしょうか? それはもちろんいろいろな特徴を持っています。ですがここで注目したいのは、人が生きてくる中で経験してきた傷です。
人は様々に心に傷を負っています。そもそも、突然、母体の外に放りだされて息をしなければならなくなること自体が心の傷です。おっぱいを飲みたいのにすぐにおっぱいが飲めないのも傷です。親がいて欲しいときにいないのも傷です。自分が感じたことを話しても全然分かってもらえないのも傷です。友達とケンカしたり、嘘をつかれたり、悪口を言われたりするのも傷です。
こうして考えてくると僕らは傷だらけなのです。歴史があるというのは傷があるということです。本性には傷はありません。当たり前です。傷がないピュアな状態を理論的に想定した上で論じられるのが本性でるからです。だから、確かに──現実には絶対にあり得ませんけれど──そういうピュアな状態を生きている人間がいるとしたら、ルソーの言うようなことが起きるかも知れません(しかし、息を吸って現実に身を置いているということ自体が傷なので、これは絶対にあり得ないことです。あり得ないことだからこそ、哲学的な思考によって考えなければならないわけです)。
さて、傷は癒さねばなりません。僕らは数えきれぬほどの傷を負いながら、それを様々に癒しつつ生きている。こういうものなのだと自分に言い聞かせる。何度も反芻してそれに慣れる。他人のせいにする。やり方はいろいろあるでしょうが(しかしここが問題で、いま僕はこの点に最も関心があり、しかもこれは僕の専門のドゥルーズの『差異と反復』という本の反復概念に関わってくるところでして……ここはいつか本に書きます)、とにかくなんとか癒している。
しかし、たまに自分一人では癒せない傷もあります。それが酷いと精神疾患になったりします。日常生活を送ることが困難になる。
とはいえ、治癒は必ず一人で癒さねばならないわけではありません。他人の力を借りて癒すこともできるのです。たとえば、自分だけではどうしても慣れることのできないショックな経験。それを人と共有することで治癒できる場合があります。例えば誰かと話す。苦しい思いを人に話すと楽になるというのは、対話作用を通じて何らかの治癒が起こっているだと考えられます(繰り返しますけど、それが具体的に何なのかが問題で、いまそれを僕も反復概念を通じて考えているんですけどね……)。あるいはそうした癒しの作用が互いに心地よいものであれば、二人は愛し合うということもある。というか、馬が合うとか、お互いに好きになるということの根拠には、こうした作用があるんじゃないだろうか。つまり、人と人とが引かれ合うことの根拠には、歴史という名の、人が負ってきた傷の総体が関係しているのではないでしょうか。
もちろんこの場合の傷は人間の精神作用では一つ一つを確認することができない無数のミクロの傷です。ですから、人と人が惹かれあう作用は、そうした無数のミクロの傷が総体としてマクロ的にもたらす傾向として考えねばなりません。そして、それは現段階の科学や人間の知では確認できませんので、以上述べたことはあくまでも仮説です。しかし、僕はこの仮説にかなり傾いています(繰り返しますが研究中です)。なお、以上の考えは、歴史という名の傷の総体が人間の性格や存在を規定しているという考えにつながるわけですが、この考えは、「断念の積み重ねが人間の性格を形成する」というフロイトの説とも一致しますし、僕はかなり信頼できるものではないかと思っています。
さて長々と話しました。ここから相談に取り組んでいきたいと思います。
もちぷにさんの相談は、「他人と一緒にいること」についての相談ではありません。自己意識の問題です。
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