今日のほぼ惑は、PLANETSには4年ぶりの登場!アートディレクター・増田セバスチャンさんのインタビューをお届けします。きゃりーぱみゅぱみゅ以降の原宿カルチャー、アートとファッション、そしてネット以降の「都市の文化」はどうなっていくのか。増田さんと宇野常寛が徹底的に語りました。
しかし、増田さんは90年代の「かつての原宿」が生んだものを、前提条件が変化してしまった現代の文化空間にどう活用するのか、というゲームを戦っている。懐かしいものがそのまま発展・延長しているわけではなく、一度切れてしまった文化を拾いあげて、もう一度位置づけなおしているものだということに対して、みんなあまり敏感ではなかったというふうに見えます。
それに震災以降、自信がついたというのはあります。震災前はいくら原宿の中でやってもみんなから認められないというコンプレックスがありました。「裏原」というとメンズファッション文化ばかり取り上げられて、90年代から僕たちもそこに存在していたのに無かったことにされていた。それが悔しくてずっと続けていたら、原宿の中でも異質な存在だった「6%DOKIDOKI」が今となっては代表的ショップとして国内外のメディアに取り上げられるようになった。震災以降、カラフルなものが人をハッピーにする力が認められたというか。
どうやってそんなに集まったかというと、Facebookの口コミのみなんですね。もともと原宿のホコ天もそういうことだったと思うし、ニューヨークでも同じことが起きていた。しかも、みんながFacebook見てたわけじゃくて、たとえば美大の先生が「これは見ておけ」と言ったことが回っていて、そういうことが重なって、僕はこのギャラリーに原宿を作れたのではないかと感じました。
きゃりーぱみゅぱみゅの初期MVの美術や、ワンマンライブの美術演出を行っていることでも有名な増田セバスチャン。寺山修司に影響されて前衛演劇を志し、90年代前半には現代美術家の元で学び、95年に裏原宿のプロペラ通りにショップ「6%DOKIDOKI」をオープンさせ、そのカラフルでどこか毒のある世界観は国内外から「KAWAIIカルチャー」の発信地として注目されることになる。
ちなみに氏は2010年に「PLANETS」本誌の原宿特集にも登場している。その時はファストファッションとSNSに押される原宿カルチャーという切り口だったが、あれから約4年、震災、きゃりーぱみゅぱみゅのブレイク……原宿を取り巻く環境も大きく変わり、そして増田氏自身も今年3月にニューヨークで個展を行うなど、活動のフィールドが変わりつつある。アートとファッション、そしてネット以降の「都市の文化」はどうあるべきか? 話題は多岐に及んだ。
【前回、増田さんがPLANETSに登場した際の記事(米原康正氏との対談)は「PLANETS vol.7」(2010年8月発売)で読むことができます 】
紙書籍1800円のところ、Kindle版は600円にて販売中!!
▼プロフィール
増田セバスチャン 〈ますだ・せばすちゃん〉
増田セバスチャン 〈ますだ・せばすちゃん〉
アートディレクター/アーティスト、 6%DOKIDOKIプロデューサー。
1970年生まれ。演劇・現代美術の世界で活動した後、1995年に"Sensational Kawaii"がコンセプトのショップ「6%DOKIDOKI」を原宿にオープン。2009年より原宿文化を世界に発信するワールドツアー「Harajuku"Kawaii"Experience」を開催。2011年きゃりーぱみゅぱみゅ「PONPONPON」PV美術で世界的に注目され、2013年には原宿のビル「CUTE CUBE」の屋上モニュメント『Colorful Rebellion -OCTOPUS-』製作、六本木ヒルズ「天空のクリスマス2013」でのクリスマスツリー『Melty go round TREE』を手がける。2014年に初の個展「Colorful Rebellion -Seventh Nightmare-」をニューヨークで開催。原宿kawaii文化をコンテクストとした活動を行っている。
▼オフィシャルサイト
◎聞き手:宇野常寛/構成:藤谷千明
■きゃりーぱみゅぱみゅと震災、そして原宿
宇野 最近の増田さんの活動を拝見していると活動の軸足を「ファッション」から「アート」に移したように見えるんです。そしてその間になにがあったかというとおそらく、震災ときゃりーぱみゅぱみゅという存在があったと思うんですよね。
増田 そうですね、2011年の震災以降、あるいは「きゃりー(のブレイク)以降」と言い換えてもいいけど、彼女のようなアイコンが出てきたことで、僕の活動がハッキリと世間に注目されるようになりました。僕としては今までもずっと同じことをやっていたんですけどね。そういった状況で舞台やCM、PVなど色々をやってみた結果、一番遠くに飛ばせるものは何かと考えたらアートだったということですね。
ファッションだと、例えば「自分には着ることの出来ない服だわ」とシャットアウトされてしまって、一部の人にしか届かないんですよね。
宇野 普通は「ファションこそが大衆に開かれていて、アートこそ制度に閉じてしまう」と考えると思うんです。特に日本はそうで、サブカルチャーだけが強くて、ハイカルチャーはどちらかというとサブカルチャーをカンニングして誤魔化している才能のない人の集まりになっている傾向がある。実際、原宿という街はそんなサブカルチャー大国・日本の象徴的な場所だったと思います。90年代の原宿から生まれたファッションはそんな街のコミュニティと密着していて、それゆえの強さがあった。90年代やゼロ年代はアートが人々に届かなくて、ファッションが届いていたと思うんですね。しかし、震災以降の日本の文化状況では、少なくとも増田さんの中では逆転現象があったと。
増田 原宿ファッションもインターネットによって世界各国のコミュニティに接続できたというのはあると思います。ただ、接続できた後に「何をやるか」と考えたとき、もっと遠くに飛ばせて、もっと吸引力のあるものが僕にとってはアートだった。アートといっても僕は文章を書いているつもりで、それをビジュアル化しているだけなので、結局「言論」というかメッセージなのだなと感じています。
宇野 バブル以降の日本ではコミュニティと密着した文化が強くて80年代から90年代の「ホコ天」と原宿ファッションもそうだし、00年代にネットコミュニティと接続してきたオタク文化もそう。未だにそういったものが国内のポップカルチャーで存在感が強い。しかしコミュニティと結びつきすぎた文化に、今の増田さんは窮屈さを感じるわけですよね。一気に海外のアートに行った方がいい、と。
■地理が文化を生んでいるのではなく、文化が地理を生んでいる
宇野 原宿のアイコンではあるけど、きゃりーはコミュニティを持っていない。彼女が体現しているのは明確に「かつての原宿」であって、逆にきゃりーがアイコンとなったことで、そこに憧れる子たちが原宿にやってきている。地理が文化を生んでいるのではなく、文化が地理を生んでいる。
増田 「90年代から脈々と続いている原宿」ですね。最初、原宿の子たちの中ではきゃりーに対して反発もあったと思います。もちろん元から彼女のポテンシャルは高かったけど、いつの時代でも原宿には目立つ女の子がたくさんいて、デビュー当時はまだ、アイコンというよりはそのうちの1人として見られることも多かった。
宇野 それが、いつのまにか原宿のアイコンになっていた。「原宿がきゃりーを生んだ」というよりも、きゃりーというかつての原宿を踏襲している存在が今の原宿に介入しているイメージです。
増田 きゃりーについて言及している人ってすごく少ないんですよね。それはきゃりーを語ろうとしたときにどうしても僕にぶち当たるということと、そこから先は戦後の少女文化まで遡らないと語れないんですよね。ポッと湧き出た文化ではなく、全て繋がっているので。
宇野 きゃりーの存在って分かりにくいところがあると思います。みんな人気があるのはわかっているけど、半分は海外人気であるため、海外でのプレゼンスが国内では見えづらいこともある。あときゃりー対して好意的な人の半分くらいは勘違いをしていて、「かつての原宿」的な90年代の文化がまだそのまま生き残っているという文脈でみている人たちですね。
しかし、増田さんは90年代の「かつての原宿」が生んだものを、前提条件が変化してしまった現代の文化空間にどう活用するのか、というゲームを戦っている。懐かしいものがそのまま発展・延長しているわけではなく、一度切れてしまった文化を拾いあげて、もう一度位置づけなおしているものだということに対して、みんなあまり敏感ではなかったというふうに見えます。
増田 きゃりーが世界中で爆発的に人気が出た要因のひとつに、震災の影響があると思います。当時、世界中のトップニュースで毎日震災のことが取り上げられていました。これから日本はどうなっていくのか、このまま沈んでいってしまうのではないかというムードのときに、ああいった原宿のカラフルなものが注目を浴びました。それは今後日本がどういった未来をみていくのか、ということを問われているときに、日本の新しい姿として注目されたのだと思います。
そして国内でも、それまで明日が当たり前に来ると思っていた人たちも、震災を機にこのまま気楽な姿勢でいても明日なんか来ないとわかってしまった。もし明日死ぬなら、好きなことをやろうという意識に変わっていったと思うんですね。だけど自分も含めた原宿にいた人たちは、それを20年前からやっていた。海外から、きゃりーというアイコンを通してその人たちが注目され、そしてそれを見た日本人自身もこれでいいんだ、という意識になったと考えています。
そして国内でも、それまで明日が当たり前に来ると思っていた人たちも、震災を機にこのまま気楽な姿勢でいても明日なんか来ないとわかってしまった。もし明日死ぬなら、好きなことをやろうという意識に変わっていったと思うんですね。だけど自分も含めた原宿にいた人たちは、それを20年前からやっていた。海外から、きゃりーというアイコンを通してその人たちが注目され、そしてそれを見た日本人自身もこれでいいんだ、という意識になったと考えています。
宇野 二重三重のねじれがあったのを整理できていないということですね。今日僕は約3年ぶりに増田さんに会うわけですが、僕からすると震災以前にアートからファッションに舵を切った増田セバスチャンは、コミュニティから自然に生えてきたカルチャーを取り込んでファッションをプロデュースしてきたと思うんですね。
しかし震災以降は、90年代から培ってきたノウハウを使いつつも、今度は完全に自分からボールを投げてコントロールしていく方向に舵をきっているように見えます。増田さんのやりたいことが変わったのではないかと。それが「ファッションからアートへ」というかたちで表れているのではないでしょうか。
そして、原宿のイメージを背負ったサブカルチャーでありながら、決して原宿から出てきたわけではなく、むしろかつての原宿のイメージを世界に拡散するためにプロデューサー・増田セバスチャンが戦略的に発信していったきゃりーぱみゅぱみゅとのお仕事は増田さんにとってのターニング・ポイントだったのではないかと。
増田 僕の事までよく見ていますね(笑)。ちなみにきゃりーとは、最近あまり一緒に仕事していないんです。おそらくイメージだけが独り歩きしていて、何が出ても僕がやったように世間の人は思うと思うんです。ただ僕はそれでいいかなと思っています。今も引き続き関わっているのはコンサートの演出と美術くらいなんですけど、CDが売れなくなった時代に何が必要かというのを考えたときに、僕はコンサートに拘っているということです。
それに震災以降、自信がついたというのはあります。震災前はいくら原宿の中でやってもみんなから認められないというコンプレックスがありました。「裏原」というとメンズファッション文化ばかり取り上げられて、90年代から僕たちもそこに存在していたのに無かったことにされていた。それが悔しくてずっと続けていたら、原宿の中でも異質な存在だった「6%DOKIDOKI」が今となっては代表的ショップとして国内外のメディアに取り上げられるようになった。震災以降、カラフルなものが人をハッピーにする力が認められたというか。
■概念化する「原宿」とニューヨークの個展
増田 僕、東京オリンピックが決まって「ホコ天」が復活すると思うんです。今こそ僕はアナログの力が来るんじゃないかと。だけど、それは「(かつての原宿が)戻ってくる」のではなく、前とは違って「聖地」として世界中からいろんな人が来るような場所になると思う。
宇野 僕は「復活すると思う」じゃなくて「復活させる」で良いと思います。昔のホコ天って「たまり場」だったじゃないですか、これから来るホコ天は「観光地」ですよ。
たとえば3年前に「特撮博物館」がという展示がありました。あそこに展示してあったものって、ただの映画美術なんですね。そういったものが4、50年経ってものすごい価値を帯びて展示されていると。あれを見ているだけで戦時中の戦意高揚映画がどう怪獣映画に変わっていくかという想像力の変遷がみてとれて、戦後日本文化の精神史もわかる。当時はあれが博物館に収められて、アート扱いされるなんて誰も思っていなかった。こういったことって自然と社会の変化によってそうなっていくものですが、増田さんは震災という強烈な契機があったことで自ら舵を切ったように見えます。たぶん増田さんの中に、自分たちが原宿で20年やってきたものを、震災後の日本と世界の関係の中に意図的に打ち出し、自らボールを投げることに意味があるという確信があったように思います。
増田 「原宿」はすでに街の名前じゃなくて概念化しているので、ホコ天が原宿にある必要もない。それで僕がどうしてニューヨークで個展を行ったかというと、ニューヨークでも原宿が作れるんじゃないかと思ったんですね。そしてそれはアートの方法論を使って、連携できるんじゃないかと思ったわけです。
メキシコやロサンゼルスでも「原宿ファッションウォーク」という運動が自発的に起きていて、最初に僕が始めたものが現地の人たちによって勝手に増殖していっているんですよね。
メキシコやロサンゼルスでも「原宿ファッションウォーク」という運動が自発的に起きていて、最初に僕が始めたものが現地の人たちによって勝手に増殖していっているんですよね。
宇野 増田さんと最後に会った時(※雑誌「@2.5(角川グループパブリッシング刊)」対談)、「今、リアルなコミュニティは町並みや文化を生むことができていなくて、ネットコミュニティからしか生まれていない。コミュニティを生き残らせるにはネットの力を借りるしかない」というところで議論が止まっていたと思うんですよね。その後3年の間で増田さんがやってきたことって、その状況を逆手にとって、「自分たちが文化を持ち込めば、どんな街にも原宿を作れるじゃないか」という結論に至ったということですよね。
増田 今回ニューヨークの個展は、チェルシーというギャラリーがいっぱいある地区でやったんですけど、オファーを受けてやったのではなく、完全に自主企画でやったんですね。今までの活動をふまえると、日本だったらファッションビルに併設されているギャラリーとかで個展ができると思うんですけど、そこでやると「ちょっと有名になったアートディレクターがやった個展」と思われてしまうと思ったんですね。
宇野 ちょっと昔の、90年代くらいの「サブカル」から国内の「アート」へ、という文脈に回収されてしまうとおもしろくないですよね。
増田 それは絶対にいやだったので、僕のことを知らないニューヨークの人に向けて、これまで培ってきた「原宿」というものがどこまで通用するのかを試したかったんです。すごくお金はかかったんですけど(笑)。チェルシーのアートコンプレックスビルの3階の一室で、事前に美術評論家に書いてもらうなどの広告は全然打ってなかったんですが、その会場に千人くらい並んでいたんです。外の気温はマイナス10度のなかで。
個展撮影:GION
宇野 あのときに話したことを完全に逆手に取っていますね。いわば、「あらゆる場所に原宿を」プロジェクトですね。
増田 今回何を展示したかというと、実は「原宿」を持って行ったわけじゃないんですよ。原宿という概念のなかで、表面的なケバケバしさだったり、派手だったりする部分だけが切り取られるようになっていたので、そうではなくてそこに行き着くプロセスや理由を見せようと思ったのが今回の展覧会でした。
個展撮影:GION
宇野 先ほど、増田さんが原宿全盛期のときに決して自分は主流でなかったと仰いましたよね。それって増田さんの作品が自己批評的、あるいは原宿批評的だからだと思うんですよね。サブカルチャーの世界ではそういった自己批評的なものはなかなか主流にならない。しかし現代アートはそういった自己批評的であることで初めてアートたりえると思うんですね。もし原宿にあるものをそのまま持っていくだけなら、ネット通販で買えばいいだけのものになってしまう。
増田 しかし日本では、そういったアートの見方はあまりしませんよね。去年の夏、この展示の企画をした際考えたのが、ソーシャルでつながるものが「原宿」だと思っていて、それを持っていこうと思ってたんです。ですが、その10月にニューヨーク行ったときに、ソーシャルではなく、もっと個人的=インディビジュアル(individual)なものがくっつくことによってに「原宿」ができるのだと気づいて、極めて個人的なものを見せようと思ったんです。
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