今朝の「ほぼ惑」は、ダ・ヴィンチの5月号に掲載された宇野によるチームラボ展への評論です。チームラボの日本文化へのアプローチに対して日本的想像力とキャラクターの密接な関係から検討した文章です。
初出:「ダ・ヴィンチ」2014年5月号
「超楽しいよ、佐賀」「佐賀、ハンパないよマジで」「福岡から電車で一時間しないよ。マジすぐだから」
打ち合わせにならなかった。
その日僕は事務所のスタッフと一緒に水道橋のチームラボに来ていた。チームラボとは猪子寿之が代表をつとめる情報技術のスペシャリストたちのチームで、近年はデジタルアート作品を数多く発表している。主催の猪子が掲げるコンセプトは情報技術による日本的な想像力の再解釈だ。西欧的なパースペクティブとは異なる日本画の空間把握の論理を現代の情報技術とを組み合わせることで、猪子はユニークな視覚体験を提供するデジタルアートを多数産み出してきた。
僕はいま、彼らチームラボと2020年の東京オリンピックの開催計画を練っている。ほうっておけば高齢国家・日本が「あの頃は良かった」とものづくりとテレビが象徴する戦後日本を懐かしむだけのつまらないオリンピックが待っている。そこで、僕はいま仲間たちと若い世代が考えるあたらしいオリンピック・パラリンピックの企画を考えて、僕の雑誌(PLANETS)で発表しようとしているのだ。僕たちの考えではテレビアナウンサーが感動の押し売り的文句を連呼し、「同じ日本人だから」応援されることをマスメディアを通じて強要されるオリンピックの役目はもう、思想的にもテクノロジー的にも終わっている。僕たちが考えているのは最新の情報技術を背景にした、あたらしい個と公のつながりを提案するオリンピックだ。開会式の演出からメディア中継にいたるまで、実現可能な、そしてワクワクするプランを提案すべく日々議論している。だからこの日もそんな議論が行われるはずだったのだが、猪子の口から出るのはいつまで経っても「佐賀」の話題だった。
そう、その日(3月10日)佐賀県ではチームラボの展覧会「チームラボと佐賀 巡る!巡り巡って巡る展」が開催中だった。チームラボの評価はむしろシンガポール、台湾などアジア圏のアート市場で高く、国内での大規模な展覧会は今回が初めてのものとなる。今回の展示は佐賀県内の4ヶ所にも及ぶ施設にまたがる大規模なものだが、存命の、しかも弱冠36歳の若いアーティストの展示を県が主催するのは異例のことだ。この異例の開催については県庁内でもさまざまな議論が交わされたようだが、開催後は予想外の好評と来場者数の伸びに湧いているという。その日猪子は半分冗談まじりに、あと二週間足らずで終わるこの展覧会を僕に観ろ、と繰り返した。
たしかに一度、猪子の作品をまとめてじっくりと観てみたいという気持ちは以前からあった。しかし、観に行くとしたらその週末に弾丸ツアーを敢行するしかない。さすがにその展開はないだろう、と思っていた僕を動かしたのは何気ない猪子の一言だった。「会期延長しようぜ1ヶ月くらい。なら行ける」と口走った僕に、猪子はこう言ったのだ。「宇野さん、俺と宇野さんの一番の違いはね。なんだかんだで宇野さんは夢を生きている。でも、俺は現実を生きているんだよ」と。もちろん、これは冗談だったのだと思う。でも、僕はこの何気ない一言に猪子寿之という作家の本質があるような気がしたのだ。そして、僕は気がついたら答えていた。「え、じゃあ、行っちゃおうかな。うん、行くわ」と。
ここで猪子という作家の掲げる「理論」を簡易に説明しよう。猪子曰く、西欧的なパースペクティブとは異なる日本画的な空間把握は現代の情報技術が産み出すサイバースペースと相性がいい。全体を見渡すことのできる超越点をもたないサイバースペースは日本画的な空間と同じ論理で記述されるものだ、と猪子は主張する。そして、多様なコミュニティが並行的に存在し得る点は多神教的な世界観に通じる。猪子はこのような理解から日本的なものを情報技術と結びつけ、たとえば日本画や絵巻物に描かれた空間をコンピューター上で再解釈したデジタルアート(アニメーション)を多数発表している。
その題材の選択からオリエンタリズムとの安易な結託と批判されがちな猪子だが、実際に国内の情報社会がガラパゴス的な発展を続けていること/そしてその輸出可能性が検討されていることひとつをとっても、猪子の問題設定のもつ射程はオリエンタリズムに留まるレベルのものではないのは明らかである。
さて、その上で以前から僕が指摘しているのはむしろ猪子のキャラクター的なものへの態度についてだ。
猪子が度々指摘する主観的な、多神教的な、アニミズム的な世界観は同時にキャラクターというインターフェイスを備えている。たとえば私たち日本人は本来「人工知能の夢」の結晶であるはずの「ロボット」を「乗り物」として再設定している(マジンガーZ、ガンダム、エヴァンゲリオン)。「初音ミク」もまた集合知をかりそめの身体に集約して、作品を世界に問うための装置だと言える。要するに私たちは日本人は自分とは異なる何かに、ときには集団で憑依して社会にコミットする(「世間の空気」を「天皇の意思」と言い換える)という感覚を強く有しているのだ。
猪子の主張する日本画的な空間認識は「絵を客観的に把握しながら絵の登場人物になりきることのできる」ものだという。猪子は「スーパーマリオブラザーズ」の画面を例にこれを説明することが多い。私たちはマリオがジャンプすべき場所を理解するために世界を客観視しつつも、同時にマリオになりきっている。このときマリオという存在が成立しているのは、日本画的空間認識に加え、私たちがキャラクターという依代的な実存を自分たちの文化空間に育んできたからだ。しかし猪子の作品にはマリオ=キャラクターが周到に排除されている。猪子は光源氏を主人公にしたストーリーをもつ絵巻物仕立ての作品(「花と屍 剝落 十二幅対/Flower and Corpse Glitch Set of 12」)でさえも、その光源氏を感情移入装置=主人公として機能させない。さらに言えばガンダムから初音ミクまで日本的キャラクターという装置は常に性的な想像力によってその感情移入の機能を形成しているのだが、猪子の作品群はまさに性的な想像力の表層からの排除こそが特徴と言える。
そう、猪子という作家は情報社会における日本的なものの可能性を探求しながらも、意図的にキャラクターという回路を排除している。私見ではここに、猪子寿之という作家の本質がある。猪子はどこかで、性的な「ねじれ」を背景にしたアイロニカルな個人と世界との接続方法(文学→アニメへと継承された戦後的想像力)を拒否している。(猪子が例に挙げる「大好きな日本のマンガ・アニメ」は『ドラゴンボール』『ONE PIECE』といった少年誌のバトルマンガが中心でロボットや美少女キャラクターが挙がることはほとんどない。)
ロボットや美少女といった性的なキャラクターは、戦後期にマンガ・アニメといった二次元文化とともに発達したものだ。これらのイメージは戦後的なアイロニーが文学からマンガ、アニメへと継承される中で誕生し、そのため戦後の文化空間のもつイデオロギーと深層で結びついている。したがって猪子による性的なキャラクター的なものの排除は、近代日本のアイロニカルな自意識から日本的なものの本質を切り離し、より射程の長い表現を獲得する試みだと言える。あるいは自然状態では結びついている両者(キャラクターと性的なもの)を切断するところに猪子の作家としての欲望が存在していると言えるだろう。
しかし僕は日本的なものを考える上において、依代的なコミュニケーションとそこにまとわりつく性的な想像力は不可分である、と考えている。たとえ近代日本(特に戦後)的なアイロニーが失効したとしても、日本的想像力と空間認識は性的なキャラクターを必要とするのではないか。それがポスト戦後の情報社会における現代のキャラクター文化の隆盛なのではないか。戦後的なアイロニーとは異なるかたちで性的な想像力とキャラクターとの関係は既に成立しているというのが、私の仮説だ。(ここに私と猪子の対立点がある。僕はこの点について、自分の雑誌で猪子と議論したこともある。詳しくは「PLANETS vol.8」掲載の座談会「日本的想像力と『新しい人間性』のゆくえ」を読んで欲しい。)
よって僕がいまこの作家に期待するのは、戦後的なアイロニーから解放された依代=キャラクターの可能性を切り拓くことだ。マリオが冒険する横スクロールマップの可能性(日本的空間把握)を、既にこの若い作家は十二分に切り拓いている。しかしマリオという存在自体については、キャラクターという回路そのもの(日本的インターフェイス)についてはまだ手を付けていない。それが性的な想像力を排除したものとして描かれるのか、あるいは戦後的なそれとは異なったかたちで性的なものを孕んだものとして描かれるのかはまだ、分からない。だからこれから猪子寿之はマリオをどう描き、どこに連れて行くのか、僕の関心はその一点にあるのだ。
と、いうことで僕はその週末の土曜日、佐賀県に向かった。その日は午後に僕がパーソナリティを務めるラジオ番組の公開収録イベントがあって、その後に夜の飛行機で羽田空港から福岡に飛んだ。福岡から電車で1時間弱、佐賀に着いたのは夜の11時だった。ホテルは佐賀駅の南口で、映画『悪人』のロケ地で有名な場所だった。それは主人公の妻夫木聡が、出会い系サイトで引っ掛けたヒロインの深津絵里と待ち合わせる場所で、劇中でのそこは賑わう駅前ではなく閑散とする地方都市の中心部のアイコンとして選ばれたロケーションだった。そして、僕が降り立った佐賀は映画で見たそれよりもずっと、閑散としていた。24時間営業のスーパーマーケットの他には「笑笑」などのいわゆる「デフレ居酒屋」が点在するだけ。これは仮にも県庁所在地の駅前なのかと目を疑うほどだった。そして、僕は急に明日の展覧会巡りのことが心配になった。その夜、ホテルのベッドの上で僕は悪い予感に震えていた。明日は猪子の友人だという佐賀県の文化・スポーツ部の職員が一日かけて案内してくれることになっていたが、その職員が人生そのものを前例主義とマニュアルに従わせる類いの「ザ・公務員」だったらどうしよう、と。分厚いメガネをかけて、髪をポマートでべっとりと固めた「県庁のおじさん」が、生活臭と芳香剤をぷんぷんさせた車で迎えに来たらどうしようか、と心配で眠れなかった。
しかし、翌日の朝。快晴の佐賀駅の前に現れたのは、僕の予想と正反対の男だった。胸元にスカーフを靡かせ、茶色いサングラスをカタチのいい鼻で支えたその男を目にしたとき、僕はてっきり東京のマスコミ関係者が何かの用事で佐賀に滞在しているのではないかと思った。しかしその男は僕と目が合うとにっこり微笑んで、すたすたと近寄って来たのだ。「宇野さんですね、佐賀県庁の光武です」──そして佐賀県庁文化・スポーツ部の光武一さんの案内で、僕はチームラボ展を廻ることになった。車にあまり詳しくないので車種名はわからないが、彼が軽快に運転するそれは明らかに趣味でカスタマイズされたもので、洗練された足回りを見せてくれた。
すっかり気分の良くなった僕は移動中に光武さんと主に地方と文化について意見を交わしていた。
この「成功」をどう考えるべきか。まずひとつ言えるのは、今回は佐賀県のような地方自治体の開催だからこそ、まだ評価が定まっていない若い作家に壮大な実験場を提供することができた点だろう。佐賀県が「国」や大都市圏の自治体ではないからこそ、その規模の小ささと意思決定の早さを武器に、マイナーかつ冒険的な企画を実現することができたのは間違いない。ここにはおそらくこれからの「地方」と「文化」の関係を考える上で非常に大きなヒントがある。今回のチームラボの佐賀での展開とその反響は、中央のアートシーンに影響を与える可能性が高い。しかしチームラボの活動は国外でこそ一定の評価を得ているものの、国内においてはそもそもアートの枠内に認められているとは言い難い。こういった位置にある作家に機会を与えることで、佐賀県は結果的に国内のアートの定義そのものに問題提起を行っていると言えるのだ。そして第二に、もし、こうして地方自治体が若い作家たちの支援者となり、活躍の場を与えることが他の自治体に模倣され、定着するようなことがあればそれは公共施設の利用者を拡大するだけでなく、国内の文化空間において自治体というプレイヤーが大きな存在感を示すことにつながる。だとすると東京一極集中の傾向が顕著な国内の文化産業において、地方「だからこそ」可能なシーンへの介入方法が、地方だからこそつくることができる文化の可能性がここには存在することになるのだ。同展が子どもたちの科学と芸術への好奇心を刺激しているように、同展の戦略とその成果が地方に暮らす、そして地方で文化に携わる大人たちに勇気を与え野心を刺激することにつながることを強く期待したい──空港でそう告げて、僕は光武さんと別れた。
そして、僕は飛行機の中で、その日観た猪子の作品群について回想していた。今回のチームラボ展は来場者数も好調だが、それ以上に家族連れや県外の学生などこれまで同県の美術館・博物館がなかなかリーチできていなかった観客層が多く足を運んでいるのが特徴だという。たしかに個人的にも武雄市の佐賀県立宇宙科学館に設置された子ども向けの展示が日曜日とはいえ閉館時間寸前まで、子どもたちで賑わっていたことが印象的だった。そして、僕はそのとき思ったのだ。「マリオはここにいた」と。
正直に述べると、僕は作家としての猪子に二つ大きな不満を抱いていた。それはともに彼の日本的想像力と情報技術についての深く本質的な理解に基づいた理論に、作品上の表現が追いついていない点についての不満だった。第一にそれは「Nirvana」が代表する日本画をモチーフにした作品群が、それをオリエンタリズムとの結託として片付ける視点が安易だとしても、やや題材に対する批評性に頼り過ぎて作品として自立していない(破壊力の弱い二次創作に過ぎない)と感じられる点だ。そして第二には、前述したように猪子が日本画的空間は把握の特性を現代の情報技術を駆使して発展的に再現しているのに対し、キャラクター=依代的な感情移入装置についてはほとんどコミットすらできていない点だ。要するに猪子は「スーパーマリオブラザーズ」の横スクロール画面は自分のものにできているが、マリオというプレイヤーの分身については扱えていない。そこが僕には不満だった。しかし、僕が佐賀で目にしたのは、夢中でブロックを積み、文字と戯れる小さなマリオたちの姿だったのだ。
彼らは壁面に投影された象形文字に触れることでアニメーションが動き出すデジタル映像(「まだ かみさまが いたるところにいたころの ものがたり」)に夢中で、両親がどれだけせかしても離れようとしなかった。モニターの中でのマリオの行動が世界に変化をもたらすように、子どもたちの一挙一動が無限のパターンのアニメーションを生成し、世界を変化させる。自分の一挙一動が、世界を少しずつ、そして絶えず変化させていく。これは当たり前のことだけれど、それをこの規模と複雑さを持つ社会で実感するのは難しい。そんな失われた感覚を、この作品は極めて直接的に、そして繊細に実感させてくれる。(特に戦後の)日本人が、依代=キャラクターを通して行ってきた世界への関わり方を、猪子は情報技術を駆使して生身の身体で体験させるのだ。猪子は横スクロールマップ=日本画的空間把握で記述される世界に、観客の身体をそのままマリオとして送り込む。そしてそのことで依代=キャラクター的なものを解体しようとしているのだ。
そして同会場に設けられた「メディアブロックチェア/Media Block Chair」はまさに、「スーパーマリオブラザーズ」におけるブロックそのものだ。これは凸の面が3面、凹の面が3面からなるキューブ型のブロックであり、照明器具であり、イスでもある。凸の面と凹の面をジョイントすることで、ブロックの色が変化する仕組みだ。そこで子どもたちは、有性生殖の論理で変化するブロックと戯れることで、世界の変化を実感する。そう、宇宙科学館に設けられたあの決して広くはない空間は、猪子が設計した依代=キャラクターを用いることなく、横スクロールマップ=日本画的空間把握で記述される世界を旅することができる世界なのだ。
猪子は日本的な想像力の両輪である日本画的空間把握を極めて本質的にアップデートする一方で、依代=キャラクター的な回路を、決定的に解体しようとしている。その意図が全面化したものが科学博物館に設置された子ども向けのアトラクションだとするのなら、こうした日本的想像力への批評的介入への意思を象徴的に表現したのが本展のマスターピースと言える「追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして分割された視点/Crows are chased and the chasing crows are destined to be chased as well, Division in Perspective – Light in Dark(work in progress)」だろう。
同作はアニメーター板野一郎が『伝説巨神イデオン』や『超時空要塞マクロス』のドッグファイト描写の作画で確立した「板野サーカス」へのオマージュだ。日本画的空間把握で記述されたデフォルメ空間を用いるその手法を三次元空間で再現することによって、自由に視点を広げ、実際の空間として再構築することを試みているという。7画面に視点を分割し、分割された視点を立体的に配置することによって、発生する視覚体験を味わうことができる。群れの中から飛び立つカラスと、それを追うカラスたちは互いにすれ違い、そして衝突し、華となって散華していく。猪子はその死のダンスをダイナミックに、そして冷たい美しさをたたえたものとして描いた。鑑賞者の多くは最初に飛び立つカラスにまず視点を置き、主人公的に感情移入を試みる。しかし板野サーカスの展開の中で瞬く間に僕たちはそのカラスを見失い、他のカラスと区別がつかなくなる。そして最後には最初に飛び立ったカラスもまた、自然死を迎え、華となる。猪子はここでも僕たちが自分ではない何かに仮託して世界にコミットするという感覚を拒否している。そして、むしろキャラクター的なものが解体されてしまう、無常な世界に美を発見している。
猪子はロボットアニメの手法として発展した、つまりキャラクターを動かすための手法として発達した板野サーカスの手法を、キャラクター的な感情移入装置を解体していくために用いているのだ。それは、言い換えれば日本画的空間把握の力がキャラクター的実存を解体し、消滅させていくダイナミズムを見せているとも言えるだろう。
もちろん、僕は日本的想像力の根底にまとわりつく、依代=キャラクターという回路と性的な想像力の関係が、こうしたアプローチで簡単に解体されるとは考えていない。人間が人間の顔をしたキャラクターに感情移入するという回路には、そしてそこに常に性的なものが介在するという問題は、単に世界を眺める視点と空間把握方法の問題だけに還元することはできない。猪子によるアプローチでは、このときなぜ性的な回路が必要なのかという問題は回避されたままである。しかし、本作が猪子からの日本的想像力のもうひとつの本質である依代=キャラクター的実存にどう考えるのか、横スクロール画面だけではなく、その画面を冒険するマリオという回路にどうアプローチするのか、という問題についての(かつて僕が問いつめた問題についての)ひとつの回答でもあることは間違いないだろう。猪子はマリオ的なもの(キャラクター)が世界に溶け込んで消滅する感覚の気持ちよさを提示することで、そしてその延長線上で僕たち自身の身体をマリオと化すことで、回答としたのだ。
僕が佐賀に行ってみようと思ったあの日、猪子は「宇野さんは夢の世界に生きている、でも俺は現実の世界に生きている」と言った。この言葉は冗談の類いだが、ここには猪子寿之という作家の本質が表れているように、僕には思えた。それは猪子は情報技術を用いて、僕らの身体そのものをマリオにすることを考えているのではないかと思ったからだ。情報技術で夢=虚構を高密度に構築するのではなく、僕たちの生きる「この」現実をゲーム空間のようにプレイできるものに変えていく──そんな意思を、猪子のこの何気ない一言に感じたのだ。そして、僕の予感はたぶん当たっていたのだと思う。
この掲載号が発売される頃、僕はまた猪子と打ち合わせる予定だ。しかし、今度は逃しはしない。佐賀で受け取ったものをぜんぶ僕たちのオリンピック計画に詰め込むべく、僕は今から作戦を練っている。
(了)
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