【3.11特別掲載】
ウェブで政治は変わらなかった?
――宇野常寛が語る3年目の帰結と今後
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.3.11 vol.027
http://wakusei2nd.com

2011年のあの日から3年――。この期間は新しい世代のネット文化が、日本社会に浸透していった時間でもありました。あれから2回の総選挙を経て見えてきた、その「文化運動」の帰結を宇野が語ります。
(※この記事は編集部による聞き書きです)
失敗に終わった「動員の革命」
 
この3年間を振り返ってみると、「動員の革命」「ウェブで政治を動かす」というような――奇しくも両方とも津田大介さんの言葉だけど――インターネット・ポピュリズムで政治にコミットする運動が盛り上がった時間だったように思うんだよね。それはある意味で、団塊ジュニアの文化人や言論人たちが主導してきた文化運動の政治的な帰結だったとも言えるのだけど、いまや敗北に終わったと言っていいと思う。もちろんこれは、その末尾にいたものとして、全く他人事ではないし、自己批判として言っているのを前提として聞いて欲しいのだけどね。

その原因としては、現在のインターネット文化における動員の手法の貧しさがあると思う。何度も言っていることだけど、現在のネット文化人の主要な動員手法は、基本的に炎上マーケティングなんだよね。わざと極論を投下して、1万人の敵と100人の読者を獲得して囲い込む。そんなことを毎週のようにやってきた。でも、それは忠誠心の高い読者を生みだす一方で、カルト的な動員のゲームを戦う場にネットを変えてしまったと思う。その結果、陰謀論に歯止めが利かない状況が生まれてしまっている。結局、カルト的な動員力だけなら、陰謀論者こそが最強だからね。
そうして、ふと見渡してみると、第一勢力がネトウヨで、第二勢力が放射脳という恐ろしい状況が生まれてしまっている。これが2011年からの2つの総選挙を挟んで進行した事態で、その象徴が先の参院選での鈴木寛の落選と山本太郎の当選だと思う。結局、ここからわかるのは、インターネットという革袋がいくら素晴らしくても、そこに入れる文化が貧しければ、このような結果しか生まないということなんだよね。

僕自身は、いまもインターネットが政治を変えていくのだという考えは変わらない。でも、その動員の手法や現在の文化空間は変えていく必要があると思っている。
ただ、そこに向けられる目はだいぶ厳しくなっていて、反原発運動の失敗と二度の国政選挙での自民党の復権によって、インターネットそのものに厭戦ムードが漂ってしまった。こういうふうに、世の中を変えられないと思ったとき、どんどん人間は保身に走って行くんだよね(笑)。だから、いま多くのインターネット文化人たちは、いかに自分を賢く見せるかばかり考えている。1週間に1回生け贄を作っては、それをみんなでついばむという"いじめ文化"がTwitter社会でははびこってしまった。しかも、ここで一番得をする人間は、この"いじめ"に10回中7回くらい、中立な立場を装いながら参加する人なわけだよ。
こういうものには、僕はほとんど興味を持てない。だって結局、これって10年前に彼らが最も軽蔑していたはずのテレビのワイドショー文化と、ほとんど変わらないわけじゃない。単にテレビのほうは団塊世代のセンスで、こっちは団塊ジュニア世代のセンスという違いがあるだけでしょう。だからもう、僕はそんなものにはコミットしない。
 
 
新しい「"文学"と"政治"」の関係
 
ただ、「テレビの時代」に対して、「インターネットの時代」を並置して、新しい政治や文化空間、あるいは個人と社会のつながり方、「政治と文学」の関係を構想していくのは何も間違っていないと思う。いまの僕が考えているのは、それを新しいインターネットの使い方によって獲得できないかということなんだよね。

僕なりに試してみたいことの一例としては、最近毎回言っているように、団体を作ること。具体的には、ウェブ共済の仕組みを中心にした団体がいいんじゃないかと思っていて、そんな話を仲間たちと1年くらい前から進めている。そこから、戦後的な家族の枠組みからこぼれ落ちた、新しいホワイトカラーやブルーカラーの生活に寄り添った団体を立ち上げてみたいと思う。それが大きくなって圧力団体的に機能すればいい。これは特に突飛な発想でもなんでもなくて、戦後的な中流家庭のライフスタイルが労働環境的にも家族構成的にも衰退しているのに、行政はそこに対応できていない圧倒的な現実があるわけでしょう。だから、そこに発生している生活の要求を背景にしてインターネットという場所に縛られないものを用いて、広い連帯を考える、というのは当然出て来る流れだよ。
もちろん、これはあくまでも一例だよ。例えば、PLANETS自体も、それが本誌になるかメルマガになるかはともかく、新しいホワイトカラーのための文藝春秋というかスタンダードをつくるものにしていきたいと思っていて、将来的には教育や福祉などにもコミットできればと考えている。

そういう意味では、PLANETS Vol.9のオリンピック特集も、その延長線上にある。2011年から2013年にかけての団塊ジュニア世代によるソーシャルメディア革命の失敗に対して、別の形でのバージョンアップを考えたいという気持ちの現われのつもりなんだよね。

というのも、このままでは2020年のオリンピックは、「64年の夢よ再び」というような、また戦後的な仕組みを騙し騙し延命していくための道具として使われてしまう危惧がある。そこに対して、僕は21世紀における「ポスト戦後」としての日本のイメージを、キッチリと打ち出したいんだよね。興行の仕組みも、テレビ中継に偏ったロサンゼルス・オリンピック以降のそれとは違った、インターネット時代にふさわしいものを示したい。それに、オリンピックに付随する様々な企画も提示していきたいと思う。そういうふうに、単なるオリンピックの企画に留まらないこの先50年の日本のビジョンを、僕たち30代の人間が打ち出すことには大きな意味があると思う。
 
 
日本を取り戻すのか、作り直すのか
 
被災地復興の問題でも同じことが言えると思う。僕の考えでは、震災の復興には二通りあるんだよ。被災地をそのままもとに戻すのか、それともこれを機会に全く別のものに作り変えるのか、というね。これはさっきのオリンピックと一緒で、日本を取り戻すのか、それとも作り直すのかという問題だと思う。
僕自身、『あまちゃん』の舞台になった久慈市の近くにある八戸の出身で、母方の親戚は大体あそこに住んでいる。やはり東北出身者なこともあって、関東の東北に対する「植民地性」みたいなものや、東北に限らないそういう地方の過疎への影響は東京に住んでいてもまったくの他人事だとは思えないところがある。
だけど、「こんなに酷い状況だけど、人々は助けあって生きています」というような"イイ話"に、みんな誤魔化されすぎないほうがいいと、僕は思う。『あまちゃん』も、僕は宮藤官九郎さんの大ファンで本まで作ったのだけど、あそこに描かれたような、半笑いで傷を舐め合いながら元の状態に無理矢理に延命していくこと――この場合は、第三セクターである北三陸鉄道の復興に象徴的だけれども――が現実的であるとは、どうしても思えない。

70年代に田中角栄が掲げた国土の均等開発プランはどう考えても崩壊しているわけだよ。やはり日本の農村や漁村に、土建屋行政と手を結んだコーポラティズム的な再配分なしで、万単位の人口を養う実力があるとは到底思えない。そうした行政を21世紀の日本で復活させるのは、財政的にも不可能だと思う。そう考えたときに、コンパクトシティを中心とした地方の再構築は不可避だと思う。
僕は常々言っているけれど、これからの地方はせめて人口30万人規模の中核都市に集約すべきだと思う。それ以外の農村や漁村に住むのは、その土地や伝統文化を守る仕事に携わる人たちだけでいい。彼らには税金で補助も出して、クリエイティブな仕事をしてもらう。しかしそれ以外の人は都市部に移住してもらった方がいい。だって地方が生き残るというのは、僕は究極的には今の規模の駅前商店街や工場が生き残ることじゃないと思う。あくまで、土地や文化が生き残ることがその地方が生き残ることだよ。しかし、それを推し進める勇気は、保守も革新も含めて存在しないというのが現実だと思うね。

もちろん、心の中ではそれが不可避だと思っている人もいると思うので、そういう人とは僕も連携していきたい。いや、本当に石破茂さんでも福島瑞穂さんでも、連携しますよ。
ちなみに、今回の都知事選で家入一真を支持したことで僕はだいぶ文句を言われたけど、別にこういうプランに乗ってくれるなら、誰だって構わない。日本ではこういう本質的な対立がなかなか表面化しないのだけど、これこそが新しい政治性だと思う。

結局、福島の問題は開沼博が指摘したように、実質的に福島が東京の植民地であったことから来ているし、原発の問題も旧経世会的な利益分配の問題だったのであったと言える。そう考えると、やはり原発という存在は戦後の国土開発の問題であり、田中角栄的な集票システムの問題だった。だから、小泉純一郎があれだけ嫌っているのだろうしね(笑)。
 
 
次のゲームは既に始まっている
 
この3年間というのは、まさにこうした本当の論点を表面化させられずにいた時間だった。この間の都知事選が象徴的で、宇都宮さんや細川さんが脱原発を唱えるのは結構なことだと思う。だけど、彼らは果たしてこういう地方経営における真の、大きな痛みも反発も伴い、しかし現時的には極めてシリアスな論点を取り上げられたのかと言えば、無論そんな勇気はなかったでしょう。
その事実をもってしても、ウェブで政治を動かすという、この3年間の試みは失敗に終わったと判断していいと思う。

もちろん、これをもってして先輩たちの業績を否定したいわけではないし、諦めたいわけでもない。むしろ、この失敗を糧にして、どうやって次の政治文化を育み、本当の政治性を取り戻すのかを考えていきたいんですよ。「ポスト戦後」における政治性をどう設定するか――新しいゲームは既に始まっていると、僕は考えています。

【時々更新】今日のお気に入り
宇野のお気に入りアイテムを気ままに紹介します。

015:シュライヒのサファリトラック
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ドイツフィギュアブランド「シュライヒ」のサファリシリーズ。このシリーズのメインは動物フィギュアなのだが、僕が最初に買ったのはこのサファリトラックだった。部屋では荷台に同時に買ったアフリカゾウを載せている。車体の上にちょこんと座っている犬のフィギュアや、写真ではわかりづらいが運転手のおっさんなど、付録的に遊び心に溢れた愛嬌のあるアイテムがついているところがシュライヒの魅力だ。ちなみに僕はこのシリーズをいつかコンプリートして事務所に広大な「宇野サファリ」を開設する予定。

今朝も「ほぼ惑」読者からの感想をご紹介いたします。
 
 
スコット・タイガーさんの感想
 
いつも素晴らしいコンテンツをありがとうございます。

宇野さんたちのレビューや評価を参考にドラマや書籍を読んでいるのですが、ものすごく効率よく名作を見られるので、時間効率が高まっていて本当にありがたいです。
なんとなく迷っているものも、「レビューで良さそうなら見よう!」という決意ができます。

ここ最近では『明日、ママがいない』を見始めました。次が最終回で残念ですが、非常に良いですね。1時間ドラマを見るのは、もう10年以上ぶりです。
朝の連ドラは、『カーネーション』を見ました。これも、PLANETSがきっかけです。戦後のあたりまでなのですが、ヒロインが尾野さんじゃなくなるのが嫌で、そこまでしか見られませんでした。

手を広げすぎるのもしんどいかと思いますが、音楽系の評論はされる予定ありますか?

今気になっているのは、サウンドホライズンです。音楽、という枠ではとらわれていないかもしれませんが。楽曲も素晴らしいですが、演劇とか物語とか、総合芸術的な感じがしています。
私は妻に前々から、サンホラが好きだと言われていたのですが、ちゃんと見るようになったきっかけは、松井玲奈さんがサウンドホライズンが好きだったことです。妻も同じこと言ってるなぁと思って見始めて、おそらく一番有名な3連曲のみハマりました。特に『石畳の緋き悪魔』が良いですけどね。普通過ぎますけど。
サウンドホライズンに手を出したら、熱狂的ファンがたくさんいるので、それはそれは、どうなっちゃうかわかりませんけどね。でも、宇野さんたちなら、扱えるのかなぁとも思っています。

今日のライダーも、良かったです。
全然見てないので、何をおっしゃっていたかよくはわかりませんが、フレーズやワードで、ムム!と感じるものが多数ありました。
ニコ生で「全然わかりませんでした!」というコメント拾っていただいて恐縮です。
悪い意味は全くありません! 石巻地区に住んでいて、石の森漫画館もすぐ近くにあるのに……まあ、そんなもんですかね地元って。

グッズとして、タオルはどうですか?
そのときの宇野さんたちの格言で作るとか、アイドル商法的に手堅い収益源になるかもしれませんし。昔、会社でタオルを作ったことがあるのですが、2000個で30万くらいした気がします。原価は色・素材・デザインにもよるかもしれませんが。

ではまた。
 
 
宇野からのコメント
 
お便りありがとうございます。

音楽評論については、僕自身は明るくないのでそれほどコミットする気はないのですが、この春から夏にかけていくつか企画を動かしています。お楽しみにお待ちください。

あと、グッズについてはどうせなら「ほぼ日手帳」のような実用的なものをつくってみたいです。生活用品に思想をこめて、そこから社会を変えるというコミットを試してみたいと思っています。

【次回予告】

我らがメールマガジンに惑星開発委員会が送り込んだ次なる刺客は、速水健朗&原田曜平!
新しいブルーカラーのライフスタイルとして定着しつつある「マイルドヤンキー」とは何か。
彼らが仲間とジモトを愛するのはなぜか。そして彼らを嗤うマイルド文化系の病理とは?

次回、ほぼ日刊惑星開発委員会
「ヤンキーは何を食べているのか――消費があぶり出す新しい政治性の見取図」
に、ご期待ください!