1、読むこと、見ること、作ること
私は前章で、近代小説の主体性の源泉が「読むこと」の累積にあることを示した。一八世紀の書簡体小説では、登場人物たちが大量の手紙を送受信し、相手のテクストにエントリーし続ける。手紙はいわば瞑想用のアプリケーションであり、心(主観)の状態をその揺らぎも含めて、きわめて詳細に書き込むことができた。さらに、近況を報告しながら、知識や感情を親しい相手とシェアする手紙は、速報性と共同性を兼ね備えた媒体でもある。書簡体小説はこのアプリケーションに支援されながら、主観とコミュニケーションを文学の中心に据えた。
この文学的発明によって「読むこと」はたんなる情報の獲得ではなく、相手の心を深く了解するための没入的なコミュニケーション行為となる。他者の書いたテクストへの反復的なエントリー(学習)によって、書簡体小説の主人公たちは、心的な一貫性をもつ主体として組織された。しかも、彼らのプライヴェートな送受信の記録は、なぜか読者に漏洩し、覗き見されることになる。ゆえに、書簡体小説には「読むこと」そのものがテクストの内から外に転移するという構図がある[1]。
書簡体小説を含め、近代小説は『ドン・キホーテ』から二〇世紀のハードボイルド探偵小説に到るまで、《読む主体》を核として進化してきた。日本文学でも、ダンテやセルバンテス、ポーを読み解く大江健三郎からレイモンド・チャンドラーを翻訳した村上春樹まで、このタイプの主体性が継承された。村上の『街とその不確かな壁』(二〇二三年)という曖昧模糊とした小説になると、読む行為が何のてらいもなくロマンティックに美化されている。
もともと、ヨーロッパ小説で「読むこと」の進化を促したのは、宗教的権威からの離脱の動きであった。メキシコの作家カルロス・フエンテスによれば、『ドン・キホーテ』の母胎となったのは「ローマ教会とその一義的な世界の読みとりに背を向けたヨーロッパ」である[2]。世界の解読の方法がもはや一つの絶対的な規範=信仰に従属しなくなったとき、セルバンテスは「読むこと」を小説の中心的問題に引き上げた。一義的な読みへの圧力が弱まれば、読むことはいつなんどきエラーや暴走を起こし、主体=読者を狂気や誤解に導くか分からなくなる――それが二一世紀のインターネット時代にも通じる『ドン・キホーテ』の教えにほかならない。セルバンテスにとって「読むこと」は、信仰とも理性とも異なるやり方で世界を学習する行為であり、それゆえに危険かつ魅惑的であった。
ただ、《読む主体》を抽出するだけでは、小説のアーキテクチャを解明するにはまだ不十分だろう。われわれは「読むこと」に回収されない問題を把握せねばならない。例えば、ゲーテは『若きウェルテルの悩み』で書簡体小説の時代の終わりを告げる一方、自然科学者として「見ること」の価値を高めた。彼にとって、科学は深遠な自然にアクセスし、感覚を豊富化する学問的アプリケーションであった。自然のもつ無尽蔵の生成力に沿いながら、文学者ゲーテは『イタリア紀行』では火山の測量のような調査を含めて、自らの視覚的体験を詳しく再現した(第九章参照)。
言うまでもなく、自然の旺盛な生成力は凶暴な破壊力にも転じる。少年時代にリスボン大地震の惨状を何度も聞かされたゲーテは、自然の過剰さに心を揺るがされた作家であった。リスボン大地震は哲学者や神学者による世界の説明を疑わしいものとし、前例のないスピードで恐怖を蔓延させた。彼の自伝『詩と真実』によれば「恐怖の悪霊がかくも迅速に、かつ強力に、その戦慄を地上にくり広げたことは、おそらくかつてないことであった」[3]。このメフィストフェレスのような悪魔じみた自然に対しては、もはやテクストを「読む」だけでは太刀打ちできない。ゲーテの《見る主体》は、科学というアプリケーションに支援されながら、生成=震動する自然にアクセスしようと試みた。
さらに、「読むこと」のちょうど対になる行為として、「作ること」や「書くこと」が挙げられるだろう。私はそれを「ハードウェアの制作」というテーマとして論じたい。まずは、このテーマが浮上してくる文学史的背景を整理しよう。
2、フィクションとノンフィクションを区別しない言説
ヘーゲルは『美学』の叙事詩を論じたくだりで、近代的な小説(Roman)の前提となるのは「すでに散文的世界として秩序づけられた現実」だと述べた。散文と化した現実は、神々や英雄の非凡な業績ではなく、取るに足らない日常的・偶然的な事柄によって構成される。ヘーゲルによれば、小説家の個性はこの平凡で、散発的で、とりとめのない現実の「捉え方」に現れるが、そこには二つの手法があった。一つは散文化した現実を承認し、それと和解すること、もう一つは平凡な現実をより美的・芸術的な現実に置き換えることである[4]。ごく大雑把に言えば、これは「日常系」と「非日常系」の差異に対応する。
近代小説はまず、前者に力点を置いたジャンルとして現れた。「散文」となった現実を承認した小説は、平凡な人間の心理および社会の状況を描くことに、エネルギーを注いだ。小説家が関心を向けるのは、前もって何が起こるか予測できない、社会という偶然の場である。イギリスの古典的な文学や批評(とりわけシェイクスピアやジョン・ドライデン)を吸収した明治日本の坪内逍遥が「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」(『小説神髄』)と的確に評したことも、ここで思い返しておこう。
特に書簡体小説は、まさに坪内逍遥の言う「人情」(心)と「世態風俗」(社会)を記述する散文的なリアリズムを前進させた。サミュエル・リチャードソンやモンテスキューに始まり、ルソーの『新エロイーズ』やゲーテの『若きウェルテルの悩み』に到るまで、手紙の記述はもっぱら身辺の出来事の報告に向けられ、超自然的な現象は排除された。加えて、書簡体小説は自らが本物の手紙の集まりであり、創作されたフィクションでないことを強調した。現に、ルソーやゲーテは創作家ではなく、ジュリやサン゠プルー、ウェルテルの書いた実在の手紙の編集者として自己演出したのである。
ゆえに、一八世紀の書簡体小説は自らを「フィクション」として規定しない――というより、当時はフィクションとノンフィクションの区別そのものが厳密ではなかった。テリー・イーグルトンによれば「リチャードソンの特異な文学生産様式は、言説を「フィクション」と「ノンフィクション」に厳密に分節化しない社会、つまり私たち自身の社会とは異なる社会において、はじめて可能な様式であった」[5]。現代のわれわれは、小説とはフィクションであると無造作に考える。しかし、一八世紀ヨーロッパの作家たちにとって、小説はむしろ「人情」や「世態」を高精度で再現するハイパーリアルな書式であり、その言説をわざわざ虚構の文書と宣言する意味はなかった。同じく、中国でも小説は歴史書、つまり事実の文書を擬態して書かれたのである(第四章参照)。
フィクションとノンフィクションをボーダーレスにつなぐ言説の形態は、書簡体小説に限ったものではない。リチャードソンより約三〇歳年上のデフォーは『ロビンソン・クルーソー』や『ペスト』を、出来事を忠実かつ詳細に記録したfactual(事実的)な文書として読者に差し出した。デフォーにとって、文書の価値は巧みな虚構の創作にではなく、いわばfactfulness(事実に満ちていること)にあった。二〇世紀のヴァージニア・ウルフが『ロビンソン・クルーソー』について「この本は個人の労作というよりはむしろ、民族が生み出した作者不明の所産の一つに似ている」と評したように[6]、作家デフォーはクルーソーの島を覆う無数の「事実」の影に隠れている。一八世紀の作家は、ノヴェルという新しい高精細の記録装置によって、散文化=日常化した世界と和解したのである。
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