福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
6、感覚の雪崩――ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』
ヴァージニア・ウルフの一九一九年のマニフェスト的な評論「現代小説」には、その重要な手がかりが記されている。ちょっとの間、普通の一日の普通の心を調べてみよ。心は無数の印象を――些細な、とてつもない、はかない、あるいは鋼の鋭さで刻まれた印象を受け取っている。あらゆる面からその印象はやってくる。それはおびただしい原子のたえまないシャワーだ。そして、それらの印象のシャワーが落下し、月曜日ないし火曜日の生活へと自らを形成するにつれて、そのアクセントは以前とは変わる。重要な瞬間は、ここではなくあちらに訪れるのだ。[14]
何でもない日常の心を仔細に観察すると、そこには無数の原子化した印象が離合集散するさまが浮かんでくる――こう述べるウルフは自らの小説においても、五感に根ざしたリアリズムのプログラムを、その臨界点に推し進めた。彼女の狙いは、不定形のまま揺らめき続ける無数の印象の戯れを、「カメラ(部屋)」の図像として所有するのではなく、言語を超えた「ヴィジョン」として図示することにあり、絵画で言えばセザンヌら後期印象派に対応するこの手法は、『灯台へ』(To the Lighthouse)で頂点に達した[15]。
このそっけなく無造作なタイトルからは、ウルフが印象の戯れを妨害することのない、控えめで重量感のない目標物を求めたことがうかがえる。ディドロの『ラモーの甥』はあらゆる感覚を一人の音楽機械的男性に集中させ、メルヴィルの『白鯨』は超‐感覚的な鯨を「象形文字」に仕立てあげたが、ウルフの『灯台へ』は逆にそのような不動の重心からたえず逸れようとする。ウルフ自身「人生は、光まばゆい暈輪である。意識のはじめから終りまでわれわれをとり巻く、半透明の包被である」と述べ、人生そのものというより、そこから滲み出す半透明の暈(halo)の伝達こそが小説の任務ではないかと問いかけていた[16]。
このような脱中心化の志向は、ウルフが女性の生活を描こうとしたこととも深く関わっている。そもそも、彼女の評論で述べられたように、女性の担ってきた家事や育児は「試験され検討されることが男性よりはるかに少ない」。ゆえに「女性の生活は名なしという性格を帯びていて、極端に不可解で謎めいている。この暗黒の国がはじめて小説の中で探検され始めている」[17]。『灯台へ』でも名を与えられない女性の生活と感情を、どこか一点に収束させる代わりに、むしろ限界ぎりぎりまで微分しようとする戦略が貫かれている。ウルフは「不可解で謎めいた暗黒の国」としての女性の生活やコミュニケーションを、昼の光のもとで鮮明にするのではなく、むしろ感覚が波のように流動する「夕暮れ」の時空のなかで、いっそう増幅させたのだ[18]。
このようなウルフ流のモダニズムは、一家の精神的な支柱であったラムジー夫人の描き方によく示されている。第一部では彼女がいかにその細やかな神経によって周囲を支えてきたかが述べられるが、第三部では彼女がもう亡くなったことが前提となっている。彼女の死そのものには焦点があわされず、故意に脱中心化された。しかし、そのことによってラムジー夫人は、この一家を取り巻く半透明の「暈」の領野に静かに移行した。彼女が純粋な印象の束になったとき、その存在の本質は生き残ったひとびと、さらには読者においてかえってより強く感じられる。
ウルフにとっては、人生の「暈」における不定形の揺らぎ、その弱くはかない運動にこそむしろ強度なリアリティがあり、『灯台へ』はそれを手法のレベルで展開した。特に、ラムジー一家を観察する画家リリー・ブリスコウの感受性は、ウルフの手法そのものの見事な絵解きになっていた。リリーは知人のバンクスの誠実さや几帳面さに触れたとたん、強烈なショックを感じる。
リリーがバンクス氏について密かに抱いてきた印象の山が少し傾いだかと思うと、彼女の思いのすべてが、大きな雪崩となって一気に溢れ出した。一方でそのような感覚に押し流されつつも、他方バンクス氏の存在のエッセンスが、そこに霧のように立ち昇るのを見届けた気もした。彼女は自らの知覚したものの激しさ、強さに圧倒されたが、それはバンクス氏のこの上なく厳格で善良な姿にほかならなかった。(四四頁/以下『灯台へ』の引用は御輿哲也訳[岩波文庫]に拠り、頁数を記す)
ウルフ的印象には明確な形が与えられず、たえず不可解なショックにさらされるために、いつでもインフレーションを起こす可能性がある。しかし、ウルフにとっては、この不意の「感覚の雪崩」こそが、存在のエッセンスを瞬間的に顕現させる。つまり、感覚や印象が人間のなかに留まらず、アンビエントな広がりをもったとき、それを地(ground)として存在の図(figure)が改めて描き直されるのだ。 ここで重要なのは、この感覚や印象のインフレーションが、語りによる評価や判断をも超えてしまうことである。リリーは次のような思考をめぐらせる。
人を評価し判断するとはどういうことなのか?あれこれ考え合わせて、好き嫌いを決めるためには、どうすればよいのだろう。それに「好きだ」「嫌いだ」っていうのは、結局どういう意味なのか?梨の木のそばに釘づけにされて立ちつくしていると、二人の男性のさまざまな印象が降りかかってきて、目まぐるしく変わる自分の思いを追いかけることが、速すぎる話し声を鉛筆で書きとめようとするのにも似た、無理な行為に思われてくる。(四五頁)
語りとはまずは人間や出来事を評価し、それを他者に伝達する行為である(第二章参照)。特に、イギリスの近代リアリズム小説では、捉えがたい対象についての多面的な評価を累積するプロセスが、しばしば物語の中核となってきた。
例えば、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は、未知の孤島の環境に関するアセスメントの記録そのものであり、『モル・フランダース』はその評価の対象を新世界にまで拡大した。あるいは、ジェイン・オースティンの代表作『高慢と偏見』(一八一三年)では、結婚相手の資質や性格を見定めようとする女性たちの評価が、会話や手紙のような複数のチャンネルでなされる。当初の低い評価が、さまざまなパラメータの加味によって次第に逆転してゆく――このような評価の揺らぎの緻密な再現にこそ、オースティンのリアリズムの本領があった。
それに対して、『灯台へ』はむしろ、そのような環境の評価や個体の識別そのものを不可能にする領域に肉薄しようとする。「人間の心も体もすっかり闇に包みこまれてしまい、「これは彼だ」「こっちは彼女だ」と言える手がかりすらなくなった」(二四〇頁)。しかも、この個体の消えた世界では第一次大戦のショックをはじめ、見えない爆発がたえず起こっているのだ(実際、ラムジー家の音楽家アンドリューが戦争で即死したことが、断片的なヴィジョンとして示される)。画家リリーは「神経の受ける衝撃そのもの、何かになる以前のものそれ自体」(三七六頁)をつかみたいと願うが、それはどこにも中心がない夕暮れの世界に身をさらすことに等しかった。
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