本日のメルマガは、ライターの稲田豊史さんと宇野常寛との対談をお届けします。 稲田さんの著書『映画を早送りで観る人たち』を引き合いに、「コミュニケーション消費」が前面化している現代のクリエイティビティと作品の鑑賞態度はどうあるべきか議論します。
前編はこちら。 (構成:佐藤賢二・徳田要太、初出:2022年5月10日(火)放送「遅いインターネット会議」)
■4.20世紀の映像文化の方が特例だった
宇野 僕が何を言いたいかというと、映像作品に対して「コミュニケーション」が優位になっている状況は、制作者側が賢くなるとか供給側の人間が何かもっとクレバーにやっていくだけでは覆らないと思うんです。これは残酷な話だと思うけど、そもそも20世紀後半のように多様なポップカルチャーがマスメディアに流通していたのは、けっこう奇跡的な状況だったんじゃないか。それは、まだコンテンツ消費に対してコミュニケーション消費が優勢になってない時期だから成り立ったといえます。しかも、映像系のポップカルチャーが生まれて100年ぐらいの若い時代だからこそ成り立ったわけです(映画の発明は1895年、TV放送の普及は第2次世界大戦後)。なおかつ、パクス・アメリカーナ的に、戦後の西側先進国に広い中流層が形成されて、世界が有史以来もっとも階級的に分断していない状態があったという、この3つの条件が揃ったときに初めて可能な奇跡だったんだと思うんですよ。そのことを認めるべきだと僕は思います。
稲田 20世紀後半の文化のほうが、じつは歴史的には特別だったと。
宇野 実際に、第2次世界大戦が終わった1945年から、先ごろの2022年に起こったウクライナ戦争まで、のちの歴史では大国同士の戦争がなかった特別な時代と言われる可能性も高いですよ。今にして思えば、20世紀後半の西側先進国にだけ奇跡的に成立した、安定した中流社会とテレビ以降・インターネット以前の情報環境、この2つが掛け合わさった条件下でのみ、僕らの愛したような、作家主義的で、表現に重きを置いた多様なポップカルチャーが成立したんじゃないか。
稲田 そうかも知れない。近代以前はエリート文化と大衆文化も分かれていたし、長い歴史の中で見ると、20世紀後半みたいに中流文化が豊かな時代は本当に一瞬だったんですよね。そういう時代の表現物を少年期から青年期の多感な時期に浴びて、それが普通だと思ってしまってるおじさんたちには、今の状況は受け入れられないでしょうね。
宇野 今となっては信じられないかも知れないけれど、僕はドラマやアニメだけでなくスポーツ鑑賞も好きな子どもで、じつは野球のナイターとかを毎晩見ていたんですよ。べつに自分からスポーツする子ではないけど、テレビの試合はよく見ていた。それで、「ここでピッチャー変えるのはないだろ!」とか、「ストライクいらないのに、なんでど真ん中に放るかなあ」なんて画面に毒づいている奴だった。振り返ってみると、これも20世紀の映像の世紀だけに成立した文化で、モニターの中の誰かに感情移入することが一番の娯楽だった時代なんですよ。王貞治も長嶋茂雄もウルトラマンと同列のヒーローだった。
今の僕は自分で走ることには興味があるけれど、もう全然スポーツ鑑賞とかには興味がなくなっている。それは、たとえが古くて申し訳ないけど、松井秀喜のすばらしいバッティングを見るより、自分の拙いランのほうが楽しいんですよ。これは覆らないと思うんですよ。よっぽど強烈なものじゃない限り、他人の物語が人間の関心の中心にくることはけっこう難しいんですよね。ファスト映画を消費する人たちは、自分がしゃべるネタとして必要だから作品を見ている。人間は、どんなに洗練された他人の物語でも人の話を聞くより、どんなに凡庸でも自分の物語を話すほうが楽しいじゃないですか。そういう困った生き物なんだと思うんですよね。
この「他人の物語」と「自分の物語」の2つのバランスが、情報環境的には逆転しています。20世紀後半は、まだ自分の話をする相手が家族や友達しかいなかった。余暇の時間を過ごすとき、今でいう費用対効果とかタイムパフォーマンスに対して得られる快楽を考えると、メディアを通じて洗練された他人の物語を取り入れるほうが、効率が良い時代だったんだと思うんですよ。でも、今は違うじゃないですか。自分の話を聞いてもらうことって簡単になってますよね。別に何万人もフォロワーがいなくても、友だちにLINEすればいい。そういう時代になると、倍速視聴みたいな現象が起きてしまうことは避けられないと思うんですよね。
稲田 「他人の物語」とおっしゃいましたけど、本当に他人の物語に興味がない人が増えている気がしてならないんですね。結局、映画の何が一番魅力なのかには議論がありますけど、自分がまったく知らない世界とか、まったく聞いたこともない、理解しにくい価値観の人が何かをしている姿を、動物園の珍獣を眺めるように見ることが一つの楽しみだと思うんです。しかし、今の観客はそれだとよくわからない、感情移入できない、だから嫌だって話になっちゃう。そういう恐るべき他者に対する想像力のなさみたいなものが、増えていくことになってしまう。
少し前、ある雑誌で高校生を対象にした座談会の構成をやったんです。そこに来ていた17歳ぐらいの3、4人の男女は、ちょっと意識の高い子というか、わりとイケてる感じの子でした。そこで、「オタクについてどう思いますか?」と聞いたんですね。昔だったら、「オタクはキモい」とか「ちょっと嫌です」みたいな感じのことを言ってもよかったんだけど、彼らはすごく大人っぽい態度で、「いや、別に彼らは彼らだからいいっす」みたいなことを言う。これは一見すると、誰にでも人権を認めているとか、多様性を認めてるように聞こえるんだけど、そうではないと思ったんですよ。だって、多様性を認めるというのは、もっと掘り下げていくと、自分とは違う価値観の人が、一体どういう価値観であるかを、分け入って対話するなりして理解して、「俺とは違うけど、この世界に共存している」ことを心から認める状態に持っていくことだと思うんです。でも、彼らはそうじゃなくて、相手に触れず放置したまま許容した気になってるんですよね。なぜかというと、触れてトラブルになると面倒だから。だから、本質的には自分とは違う価値観の人に興味を持とうとしない。それがお互いを認め合うことみたいに、都合よく変換されてるように見える。
これはある面では、今の教育の成果でしょう。つまり、学校で建前上は「自分と違う価値観の人を否定してはいけません」って教育を受けてきた世代の子たちだから、確かにそういう対応をするのが正しいんですよ。でも、本当は多様性を認めるという考え方を因数分解していけば、「相手の価値観を学びましょう」っていう要素も含まれてるはずなんですね。ところが、自分と異質な他者を学ぶ前に、「触らぬ神にたたりなし」と切り捨てて、自分と違う世界観の人は触れないのが良いことだという考え方になってる。
それはやはり、今やインターネットでいろんな価値観の人が一か所に全部集まっているなかで、誰かの機嫌を損ねたら、炎上したり大変なことになるじゃないですか。それを見ているから、やっぱり触れない。波風が立つことは言わないし、違う価値観の人には触らないというのが一つの処世術になっている。だから、他者性がない、他人の物語にそこまで興味がないということにもつながってるんじゃないか。
宇野 こういう時代状況になったのは誰が悪いかと言えば、別に誰も悪くないんだけど、しいて言うなら、多分僕らが悪いんですよ。僕ら今の現役世代のメディアとかコンテンツの関係者が、この状況を頭でわかっていても、後手後手に回ってきたんですよね。この本を読んで、それは間違いないなと思った。
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