本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。 郵便システムができあがり、書物として「思想」までもが商品として扱われるようになった近代に、文学作品はどのようなかたちでコミュニケーションの対象となったのか、その歴史を振り返ります。
このように、ゲーテの言説を読み解いていくと、各国の作品が相互に翻訳=批評される世界文学の時代が、一種のコミュニケーション革命の時代でもあったことが浮かび上がってくる。なかでも、ゲーテとカーライルの往復書簡は、コミュニケーション史やメディア論の文脈においても特別な位置を占めている。なぜなら、彼らはともに当時の郵便システムに依拠していたからである。
精神=商品の交易を成り立たせるのに、郵便というインフラは欠かせなかった。例えば、カーライルに対して「現在のように本や雑誌がいわば速達便で諸国民を連絡する時には、聡明な旅行者などはこの点ではほとんど役に立ちません」と書き記したゲーテは、思想が対面的コミュニケーションなしに、郵便物として高速で流通する状況を鋭く言い当てている[12]。さらに、カーライルも精密化された郵便システムの恩恵にあずかっていることを自覚していた。
こわれ易い物が見知らぬ国々や喧騒を極める都市や荒海を越えて、大陸の奥地からこんな荒野までも達しうるのは、まったくこの完全な輸送手段のおかげです。もっと不思議なことは、私たちが現代で最も尊敬する精神から、愛情の声が、いかなる意味においても遥かにへだたっている者へ伝えられうることです。六年前には、ゲーテから私へ手紙や贈物をいただくなどという可能性は、シェイクスピアやホメロスから送られるのと同じくらい、奇蹟であり夢であると私は思っていました。[13]
カーライルは後に産業社会を批判し、英雄崇拝論を掲げるようになるが、その主張こそが、ゲーテのような異国の英雄の「声」を輸送する郵便産業のもたらしたものである。カーライルにとって、ゲーテとの文通はシェイクスピアやホメロスとの文通に等しい奇蹟であった。郵便システムを利用した遠隔コミュニケーションは、対面では決して聴くことのなかったゲーテの「声」をいっそう神秘化したのである。
そもそも、ゲーテはその出生のときから郵便システムに取り憑かれていた。というのも、彼のフランクフルトの生家は、数世紀にわたってヨーロッパの郵便事業を導いてきた大企業トゥルン・ウント・タクシス――そのパイオニアである貴族フランツ・フォン・タクシスはしばしば同時代のコロンブスと並び称される――の大邸宅に隣接していたからである。タクシス郵便は巨万の富を築き、ヨーロッパの郵便システムそのものの模範となった。後に『詩と真実』でも、ゲーテは「タクシス郵便はきわめて迅速に配達し、開封されることもなく、郵送料はあまり高くなかった」とその効率性や信頼性を賞賛している。「手紙の時代」と呼ばれるほどに書簡熱が高まった一八世紀に生まれたゲーテは、まさに郵便システムの申し子であった。
しかも、郵便システムの発達は、たんに遠隔地との文書的なコミュニケーションを可能にしただけではなく、世界市民たちの「精神」のハーモニーを物質的に実現するという壮大な野心をも生み出した。興味深いことに、タクシス家はゲーテや皇帝ヨーゼフ二世と同じく、「兄弟のようにひとつになった世界市民的な夢」を抱くフリーメイソンに傾倒しており、トゥルン・ウント・タクシスの手掛けた多くの文化事業(郵便部門に限らない)はこのフリーメイソンの理想と内的に連関していたことが知られている[14]。ゲーテの世界文学論にフリーメイソンの痕跡を見出すことも、あながち不可能ではないだろう。
ゲーテが生きていたのは、精神が翻訳されるだけではなく、物質的な郵便として送受信されるようになった時代である。この時代には、世界市民的な夢は郵便のインフラに寄生して増殖する。ドイツのメディア理論家ベルンハルト・ジーゲルトによれば、「ゲーテの郵便帝国」においては、手紙と精神がほとんど同一のものとなり、手紙を受け取った読者は作者の内なる精神のピースを分有することになった。流通する手紙は「作者からのフィードバックを経由した精神の鏡」となったのである[15]。翻訳者カーライルが感激したのも、まさに遠方の英雄のフィードバックが実際に行われたという事実によってである。
もとより、この郵便的なフィードバック・システムは、決してゲーテが独力で構築したものではなかった。ゲーテの書簡の相手を時系列で見ると、当初はヴァイマルの有名な女性文人シャルロッテ・フォン・シュタインや、ヴァイマル古典主義を牽引した盟友であるフリードリヒ・シラーとのやりとりが目立つが、次第に、気の置けない友人の音楽家カール・フリードリヒ・ツェルター(フェリックス・メンデルスゾーンの師)や異国のカーライルとのやりとりが多くなってゆく。ゲーテが卓越した作家としてブランド化されたのは、この人的ネットワークのなせる業であった。ベンヤミンはまさにそのことを鋭く指摘している。
地元ヴァイマルでは、詩人[ゲーテ]は徐々に協力者や秘書の一大グループを作りあげた。彼らの協力がなかったならば、彼が晩年の三十年間に整理編集した、あの厖大な遺産となる言葉の数々は、決して確保されえなかったことだろう。最終的に詩人は、まさに中国式に、自分の全人生を〈書かれたもの[シュリフト]〉というカテゴリーのもとに置いたのだ。エッカーマン、リーマー、ソレ、ミュラーといった補佐役をつとめた人びとから、クロイターやヨーン等の書記官に至るまでを擁した、一大文献・雑誌整理用事務局は、この意味において捉えられねばならない。[16]
ゲーテはヴァイマルの協力者たちを一種の記録装置として組織し、放っておけば虚空に消えてゆくだけの自らの言葉を、逐次書き取らせた。対話や書簡の類をゲーテほど多く残した作家はほとんどいないが、この巨大な文学資本は、秘書エッカーマンを中心とする「一大文献・雑誌整理用事務局」の仕事の所産である。この優秀な事務局の取りまとめた文献的遺産が、偉大な世界市民ゲーテという賢人的なイメージの形成に寄与したことは、想像に難くない。その意味で、われわれが知る《ゲーテ》とは集団制作された作品なのである。
ベンヤミンが言うように、ゲーテは文人としての自己を「書かれたもの」に集中させ、翻訳を通じてそのテクスト群の価値を高めたが、それは資本の蓄積や増殖とよく似ている。ヴァイマルにはゲーテやその友人たちのテクストが集まり、それが財となって国境を超えて交換された。この文学資本の膨張は、フローを司る郵便局(=テクストを送受信するシステム)とストックを司る事務局(=テクストを整理・編集するシステム)抜きにはあり得なかった。この点で、ゲーテには二一世紀の情報産業の先駆者としての一面がある。
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