おはようございます。本日のメルマガは、消極性研究会のみなさんによる特別座談会をお届けします。
「……ができるようになるにはどうするか」と捉えがちな「身体」拡張に対して、「……をしない」ことで得られる幸福というものもあるのではないか? そんな「消極的な身体」と社会との関係をテーマに、消極性研究会のみなさんに議論をしていただきました。
(初出:『モノノメ#2』(PLANETS,2022))
消極的な人よ、身体を解放せよ──いや、そもそも身体なんていらない?|消極性研究会(前編)
消極性研究会にとって「身体」とはなにか
──今回、身体についての特集を組もうと思ったことのきっかけのひとつは、乙武洋匡さんの発言です。彼が言うには、「自分は生まれつき、足があった経験がないので、歩きたいと思ったことはない」そうです。つまり、移動さえできれば二足歩行である必要はなく、テレポートできればそれが理想なのだと。にもかかわらず、「OTOTAKEPROJECT」をやっているのは、あくまで社会に多様性の促進を訴えるためのプロパガンダであって、少なくともプロジェクト開始の時点では彼自身の「歩きたい」という欲望はゼロなんですね。
この問題は結構考えさせられることがありました。つまり、多くの身体障害者へのケアの現場やサイボーグ的な技術による身体拡張のアプローチの多くは「できないことを、できるようにする」ものなのではないかと思います。ただ、世の中には別に「できるようになりたくない」とか、むしろ「したくない」という人たちもいるのではないか。可能な限り「しなくていい」社会が理想だと考える消極的な人たちも多いはずで、消極性研究会[1]の皆さんはまさにそういった人々の立場に立って研究と発言を続けてきたユニットだと思います。消極的な人が消極的なままでいることを支援するという消極性デザインの発想からすると、もっと「できないままでいい」という方向での身体へのアプローチがありうるんじゃないか。たとえば、歩かない人が歩かないまま幸せになるという方法の方に、消極性研究会の皆さんの興味はあるのではないか。そう考えて、今回は「消極的な身体」から社会を眺めてみたらどんな課題が見えてくるかという議論をしていただけたらと思います。
栗原 私は身体か精神かで言えば、どちらかというと精神に重きをおいて考えてきたタイプだと思います。ですが、今の世の中は精神の部分が肥大化してしまって、肉体とのバランスが悪くなっているのではないでしょうか。
たとえばSNSで繋がりすぎてしまっているけど、それに対するレスポンスがもはや人間の身体では対応できないくらい情報が流れてしまっているという問題をどうするか、 みたいな問題が顕在化していると思うんですね。
そういう状況に対して、今の宇野さんの問題提起にあった「人間を拡張して超人にするぞ」という方向性で技術を使ったり、ディスアビリティのある人を技術で補ったりするような方向性との間にあるような、もうすこし裾野の広いサイレントマジョリティ的な人々の日常のちょっとした場面で感じる精神的なストレスに対して、技術を使ってどうするかといったことを、私はずっとやってきたと思います。
というのは、「超人を作るぞ」的な方向と、「障害のある人を一般人のように戻すぞ」という方向は、いずれも手をもう一本生やすとか、無い足を作るとか、身体的な拡張になることが多いという印象です。対して我々の消極性デザインの場合は、あまり身体を直接的にケアしたり拡張したりという形式にはならないことが多いように思います。私の場合で言えば、主に道具という形で、どちらかというと人間にない身体機能を付加するというか、むしろ制限することによって人間の精神活動の調整を間接的に支援するといった性格のものをいろいろ作ってきました。
たとえばタクシーの中で運転手に話しかけられるのは嫌だというとき、人はヘッドホンをするわけですよね。そこで本当に耳に蓋をしてしまうと困るし角が立つので、外の音が聞こえている度合いが見た目的にも調節できる「OpennessadjustableHeadset」[2]というヘッドホンを開発しました。
こちらはなるべく日常に溶け込むようなデザインにして使いやすいものを目指したアプローチですが、またはちょっと攻撃的に「こんな身体を作ったらどうなる? とみんなで考えようぜ」と問題提起したいときは目立たせる方向にデザインすることもあります。
向けるとおしゃべりが過ぎる人の発言を聞こえにくくできる「Speech Jammer」[3]はそんな感じで、あえてピストルの形にすることで、「みんなうるさいと思ってるけど、どうする?」みたいなメタメッセージを冗談めかして伝えるという方向性ですね。
こうした精神的な問題を、ある種の身体的な異化作用につなげることで、現実空間で解決するというスタイルが、自分にとっての「身体」へのアプローチだったのかなと思いました。
西田 いま精神と身体の調整という話が出てきましたけど、私にとっての「身体」は精神性みたいなものを強制的に周りに発信させられてしまう、不完全なインターフェースだなという印象が強いです。
たとえば私が太ってきたりすると、周囲の人に「西田さんは我慢強くないんだな」みたいに見られるのが嫌ですね。筋トレとか食事制限に耐えられない精神を強制的に発せられている面があります。逆にすごく鍛えている人が「俺は鍛えているぞ」みたいな精神を日常的に発しているのも嫌だなと思います(苦笑)。
でもマゾいトレーニングとか、食べたいものを食べないとか、耐える心みたいなものってそんなに大事なものかなあ、ともつねづね思っています。人間のテクノロジーって、耐えなきゃいけないこと、やりたくないことをやらなくて済むような世界を実現するために技術開発とか工夫とかが行われていますよね。
われわれ消極性研究会もその一部かなあと思っていて、「嫌なことに耐えられることこそが人間にとって大事だ」というような風潮を解消できればなと。身体性というテーマはそういうところが解決できていない最前線というか、象徴的なものかと思います。
たとえばインターネットがもつ重要性って、Zoomでカメラをオフしたりすることで身体を秘匿できる匿名性を確保できるところにある気がしてるんですね。栗原さんがおっしゃるように身体機能を積極的に拡張しようという方向の技術的アプローチは沢山ありますけど、消極的なままでいたい身体の欲求をかなえる技術がキラーアプリになる可能性はあるのかなあ……というのを今の話を聞いていて思いました。
簗瀨 私がここのところ思うのは、身体のパラメーターが数値化されていないのが人間の生きにくさの一因なんじゃないかということです。
私は最近、頑張ってダイエットして26キロくらい痩せたんですけど、明らかにできることの限界が上がっているんですよね。体力がすごくある感じになって。単純に26キロのおもりを背負っていないから。たとえばこのメンバーの中でもっとも痩せている渡邊恵太さんがこれから毎日26キロのおもりを背負って生活するとしたらすごく大変だと思うんですけど、私は逆にその重りをずっと背負っていて急に離した状態になったので、すごく楽なんです。だからといって、すごく生活がアクティブになったりするわけじゃないんですけど、単純に今までやってきたことが楽にできたり、歩くことが楽しくなったりして、すごくモチベーションが上がるんですよね。ただ、その体験の楽しさは事前にはわからなくて、どれだけ身体に負荷をかければ辿りつけるのかも見当がつかない。これが、たとえば「あなたが歩ける距離の限界は1000ポイントです」みたいにパラメーター化できれば、600ポイント歩けるのはぜんぜん辛くないけど、1500ポイント歩かされるのはたぶん厳しい、といったことがわかるようになる。でもそれって限界を何回か計らないとなかなかわからなくて、その計測する何回かがつらいじゃないですか。
多くの場合、教育の過程で運動にチャレンジさせて、その人がどこまでできてどこまでできないのかを測ると思うんですけど、そこで最初に限界を越えさせようとする過程で、運動そのものにトラウマができてしまうというケースが多いと思います。なので、ゲーミフィケーション[4]に近い発想ですが、なんとかチャレンジを挫折させずに「このへんが限界だな」というパラメーターを常に見える状態にできると、もうちょっと頑張れたりとか、「本来は100できるんだけどいま70しかやってないから毎日が楽だ」みたいな感じでストレスなく過ごせるようになるんじゃないかと。
渡邊 ここまでの話で出てきたような「精神的なものと身体的なものは別」とか「物質的な豊かさから精神的な豊かさへ」みたいなことは、20世紀の終わりごろからずっと言われてきていると思うんです。
そこで議論したいと思ったことは、人間の欲望処理の技術ですね。たとえば移動という手段で車や電車、馬車など、移動は疲れるからより早く遠くまで行きたいという欲望でそういう技術が出てきました。
しかし、今は移動せずともインターネットで多くの人と繋がれますよね。最近はVRにしてみたり、脳を繋いでみたりという話で、よく考えると全然人間が動く方向になってない。メタバースも身体的体験が欲しいだけで、別に身体が欲しいわけじゃない感じがするんですよね。
全体的にテクノロジーの流れを見ていると、身体的な疲労や制約を廃止したい感じがあります。そういうテクノロジーの探索の方向を見ると、「身体、いるのかね?」と。
IoTなどが出てくるのを見ていると、どうやら人間が植物のようなモデルに近づいていく感じのように見えなくもない。植物はセンサーネットワーク的な感じで他の虫たちに花粉を受粉させたりして、ネットワークを広げていきますよね。そういうことを考えると、みんな動きたい体験が欲しいだけで、実際は動きたくないとかそういうジレンマがあるなと感じたりしています。
あとはユーザーインターフェースの進化も、人間の進化の逆みたいな話があります。人間の学習段階はまず身体的に何かを感じ取って、次に視覚的に読み取って、次に記号的に感じ取るという発達順です。逆にユーザーインターフェースやコンピュータは、記号的なところから始まって、視覚的なGUIになり、さらにWiiとかKinect のように身体的なインターフェース[5]が出てきたという流れですね。
ただ、WiiやKinect のような全身運動型のコントローラーは決してゲームデバイスの主流にはならなくて、手指のコントローラーで最小限の動きで済ませよう、というものがほとんどです。結局、テクノロジーの進歩は人間の身体をなるべく疲れないようにする方向にしか向かっていかないのではないでしょうか。よく身体性を回復させようという話があるけど、なんだかんだでなるべく身体をなくしていく方向になっているのが面白いなあと思いました。
コロナ禍は身体をとりまく環境を多層化した
──ここまでの皆さんの認識を伺うと、多くの人々は現実空間における身体と精神の関係に不全感を感じていて、渡邊さんがおっしゃったように基本的に情報技術は物理的な身体性をサイバースペースで無効化する方向に進歩してきたわけです。そして、2020年からのコロナ禍によって、それまではあまりその価値に気づいていなかった人たちまでもが物理的な身体が無効化された社会の快適さ、自由さに気づいていった。少なくとも消極的な人々にとってはより過ごしやすい社会の可能性が示されたとも言えるわけですが、その点については消極性デザインの観点からはいかがでしょうか。
簗瀨 パンデミックの影響で、オンラインの良さというものは多くの人が体験しましたよね。同時に消極的な人の中にも、完全にオンラインになってしまうと窮屈さを感じてしまう人がいて、今は逆に「やっぱりオフラインがいいな」と言いにくくなっている逆の圧力がすごくあるのも予想できるんですよね。
私が必要だと思うのは、オフラインとオンラインに分かれた二つの世界があるという状態ではなく、オフラインとオンラインのグラデーション部分を埋めていく仕組みを作ることで、結局すべての人に対して何かしらプラスの状態を作れるんじゃないのかなということです。消えたい人は消えればいいし、交流したいけどオンラインでいい人はそれでいいし、オフラインを求めたい人はオフラインで交流してくださいという、いかにグラデーションを作るかが重要になってくると思うんですよね。
その意味でコロナ禍は消極勢のなかにも流派があるということをむしろ浮き彫りにしたのではないかという気がします。
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