本日のメルマガは、パブリックアフェアーズジャパン代表・藤井宏一郎さんの特別インタビューをお届けします。
企業や個人など、国家ではない主体が市場での活動を通じて平和創出にコミットしうる「平和マーケティング」。私たちの「戦争」に対する距離感が急激に変化した2022年のいま、改めてその意義を振り返ります。
(初出:『PLANETS vol.10』「[インタビュー] 藤井宏一郎 企業はマーケティングを通じて世界平和に貢献できるか」(PLANETS、2018))
「平和マーケティング」と21世紀の戦争をめぐる諸問題|藤井宏一郎(前編)
「平和マーケティング」とは何か
――今回は、2016年に広島で行われた「国際平和のための世界経済人会議」で藤井さんが紹介した「平和マーケティング」についてお話を伺いたいと思います。これは企業活動や市場原理を活かすことで、現代において、いかに非国家的な主体が平和の創出にコミットできるのかについての問題提起ですね。民間の市場のプレイヤーが「戦争」という国家のアイデンティティに関わるような領域にどう踏み込みうるかという意味で、ものすごく興味深い思想的な実験だと思いました。
藤井 最初に経緯を説明すると、「国際平和のための世界経済人会議」というのは、広島県が提唱している「広島平和拠点構想」の一環で、広島を世界的な平和の拠点のひとつにすることを目指して、毎年行われている会議です。広島市が被爆の実相を伝えることを中心に核兵器廃絶への取組を進める一方、県としては核兵器廃絶を含むより広い平和の観点から、国際政治や外交の専門家だけでなく、社会の様々なプレイヤーを巻き込んだ新しい平和の運動を主導していきたいという思いがあったわけです。
もちろん、従来のような反核・反戦運動も重要ですが、今(2018年当時)起きている戦争は冷戦時代のように、いつなんどき核戦争が起きるかという状況ではなく、非国家的な主体を含んだ小規模紛争が地域を不安定化させていることが、現実的なリスクだったりするわけです。そういうことも射程に入れながら新しい平和像を考え、なおかつ民間企業や社会起業家、あるいはNPO市民セクターといった、いわゆる外交の専門家や国際NGO以外のアクターやビジネスセクターを参加させることにもこだわっていた。
その第1回目の会議で、テーマを何にしようかと考えたときに、近代マーケティングの父と言われるフィリップ・コトラーが掲げた「平和のためのマーケティング」という言葉があった。マーケティングとは、単に物やサービスを売り込むだけではなく、非営利的で目に見えない抽象的な価値やそれに伴う行動変容を顧客に浸透させることまでを含む、というのが彼のマーケティング論の革命のひとつだったわけです。例えば、節電運動や禁煙運動のような公益的な価値もマーケティングの対象になる、と。
その中で最も解決すべき問題が、戦争をなくして世界平和を作ることだとすれば、平和だってマーケティングできるのではないか?
しかし、その段階では萌芽的な発想に過ぎず、きちんとした理論のフレームワークがあったわけではなかった。ただ、「平和のためのマーケティング」という発想は興味を引くし、企業も参加しやすいだろうからぜひやってみようという話になって、そこだけが決まったんですよね。しかし、決まったはいいが、「そもそも平和のためのマーケティングって何なんだろう?」という問題に突き当たり、2日間のプログラムでいろんな関係者がこのテーマについて話すにあたって、フレームワークがまったくなく、言葉だけが踊っていたんですね。
そこで、私がコトラー先生の孫弟子に当たる縁もあって、普段から公共政策的なキャンペーンをプランニングしたりコンサルティングしたりしている我々マカイラとして企画運営をお手伝いすることになり、平和のためのマーケティングとは何かを概念的に整理するフレームワークを作ってセッションを設計し、それに沿った人たちを呼んできた、というのが経緯です。
平和マーケティングが直面する困難
――最初の会議からの2年間で、平和マーケティングに関する論理方面と実践方面の双方のアップデートは、藤井さんの中でどんなふうに進んでいったんでしょうか?
藤井 最終的には平和をどう定義するかというところに関わってくるのですが、平和には二つの考え方があって、単に戦争がない状態を平和と捉える「消極的平和」に対して、「平和学の父」と言われるヨハン・ガルトゥング博士が提唱した「積極的平和」という概念があります。これは戦闘の有無が問題ではなく、人間が人間として尊厳のある安全な環境が保障されていることが重要であるという、人間の安全保障論にもつながる考え方です。
しかし、平和マーケティングにビジネスセクターを巻き込もうとしたときに陥りやすい問題が、ここにあります。彼らと話をしていると、どうしても積極的平和論のほうにばかり話が流れていくんですね。なぜかというと消極的平和論、つまり端的に戦争をなくすための反戦運動・平和運動に企業が参加するのは、さまざまな理由でものすごく難しい。
まず第一に、平和運動は本業のビジネスに貢献しにくい。企業の社会活動について、株主は通常、ブランディングなどで本業につながることを求めますが、戦争と平和の問題はほとんどの企業にとって本業から遠すぎる。第二に、政治的リスクを伴う。多くの国で、平和運動=反体制運動とみなされます。第三に、既存のビジネスに抵触する可能性がある。製造業であれ金融業であれ、サプライチェーンや事業展開のどこかで軍需産業に接点を持ってしまっている企業は多いです。
だから「戦争と平和」の問題を正面から取り上げるのはやりにくいけど、「貧困をなくそう」とか「地球環境を救おう」みたいな話ならば、普通のCSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)をめぐる議論の延長でできてしまうんです。だからそちらに流れやすい。特に、2017年の第2回では、「SDGs(Sastinable Development Goals:持続可能な開発目標)」をテーマにしたのですが、私はこの方向性に少し躊躇がありました。SDGsにフォーカスしすぎると、貧困や教育、福祉や地球環境の話が中心になって、肝心の平和についての議論が置いてけぼりになる危険性を感じたのです。実際、昨年の会議はSDGsやCSRのような企業にとって理解しやすいテーマが増えましたが、一番難しい、消極的平和をどう実現していくのか、その議論をいかに置き去りにしないかという部分については、語りつくせなかった印象があります。私としては、もうちょっと平和の部分を話したかったのですが、そこのバランスが難しいのです。
今年、2018年は「2030年の世界からのバックキャスト」がテーマになると聞いています。2030年の地球で起こりうる地域の不安定化や紛争、さまざまな国家や人間に関する安全保障やそのリスクへの対策などを議論していくのですが、やはりその距離感が難しい。「いかに戦争をなくすか?」という部分には、どこかで真正面から取り組まなくてはならないし、この会議の仕掛け人である広島県の湯崎英彦知事も、個々のテーマがいかに平和実現につながるか、ということは常にご関心が高いです。
――どうしても議論がCSRの延長線上の企業ブランディングのほうに流れてしまうということですね。では、この流れに違和感を覚える藤井さんが、平和マーケティングによる消極的平和論に焦点を当てたとき、どのような発展の可能性があると考えていますか?
藤井 企業がSDGsで「貧困がなくなりました」というのは素晴らしいことなんですが、その先にどういうルートを経て平和が実現するのかという部分が描ききれていない。そこをきちんと描き切らなくちゃいけないというのが僕の考えなんですね。紛争のリスクがあって、そのリスクに対する解決がある。その解決をみんなに促すために、マーケティングがあるはずなんです。そもそもマーケティングとは、「特定の行動」を特定のターゲットグループに促す手法なんですね。この「特定の行動」こそが解決手段です。でも、その「特定の行動」が何なのかがわからないと、マーケティングはできない。解決のための手段を探すことについては、マーケティングは解を持たないんですよ。それを考えるのは平和学であってマーケティングの役割ではない。そこを一足飛びにやろうとしてもうまくいかないんです。
よく平和学は医学に例えられますが、健康になるためには、毎日柔軟体操をやったりバナナを食べたりといった健康法がある。その手段が決まった上で、厚生労働省や文部科学省はラジオ体操や食生活の改善など、人々の行動の変化を促すキャンペーンを行います。このフレームワークで考えると、解決手段の検討をすっ飛ばして平和を叫ぶのは、健康になる方法を考えないまま、ただ「健康になろう」とキャンペーンを始めるのと一緒なんですね。手段を無視したマーケティングにはおよそほとんど意味はなくて、これはいわゆる情緒的な平和運動。「平和!」と叫べば平和が来るという情熱論と同じです。
本当にやるべきことは、今の世界にどういったリスクがあり、どの地域で紛争が起きたり不安定化するのかをリストアップすること。そしてその原因が何なのか、民族間紛争か、資源争奪戦か、環境破壊による移民の流入か、と全部洗い出す。その上で、政府ができることと民間企業が貢献できることを見極め、後者に民間企業を当てはめていく。本当はこれをロジカルにやるべきだったんです。しかし、その議論がビジネスセクターに共有されないまま、うわべだけSDGsやCSRが流行ってしまった感じはある。今年の会議では、そのバランスがうまく取れるといいなと思います。
とはいえ、「平和のためのマーケティング」と呼ぶかはともかく、平和論とサステナビリティ論のブリッジングをきちんとビジネス文脈で考えている人がいないわけではない。例えば、「気候変動と脆弱性」という議論がありますが、これはすごくちゃんとやられていると思います。「脆弱性」というのは安全保障上のリスクも含めた各種リスクですが、気候変動によって戦争が起きる可能性の議論を、外務省がG7の枠組みの中で取り組んでいて、外務省の気候変動課がものすごく頑張っている。外交官やシンクタンクだけでなく、実際にソリューションを持ちうる企業を巻き込みながらワークショップを展開したりしています。
ほかにも、あまり日本では流行らないんですが、難民問題がどうやって戦争につながりうるかも極めて重要な問題で、こういった議論は最近進んできていますね。サステナビリティと安全保障の研究をしているAdelphi というドイツのシンクタンクが気候変動による戦争リスクについて「A New Climatefor Peace」という報告書を出していて、ローカルリソースコンペティション、つまり地域資源の争奪戦によって移民が出ると警告しています。例えば大洋州の島が台風の頻発によって、水資源が潮に浸かって飲み水がなくなったり食べ物が不足したりしたとき、貧しい島からどんどん人が移住してくる。すると元の住民と新しく入ってきた人たちの間で紛争が起きる。特に水資源のマネジメントは紛争につながりやすくて、川の上流側が水を堰き止めて自分たちだけで使い下流側と戦争になるというのは、人類史上で何度も起きていることで、気候変動が具体的に戦争につながるというわかりやすい例です。
これは冷戦下の米ソの構造とは全然違う状況ですよね。現代の紛争がどうして起きているのか、きちんと考えなくてはいけない。ジョン・レノンではダメなんです。もちろんジョン・レノンも重要だけど、どういうときに平和が訪れるのかを実証的に検証していくことが重要だと思います。
――たとえば少し前までは、戦後西ヨーロッパ的な「金持ち喧嘩せず」の状態が拡大するという考え方がそれなりに支持されていたと思うんですね。つまり、マクドナルドがある国同士は、絶対に戦争しないといったような考え方です。
藤井 民主的平和論みたいなものですね。
――ところがそれが近年のウクライナなどの情勢悪化で崩れるわけです。現代においてはさすがに、戦後西ヨーロッパ的な経済の安定と民主政治と集団的安全保障の3点セットがあればとりあえず大丈夫ではないか、という議論にはもうならないと思うんですね。ならないことはわかっているのだけど、やはり戦後の国際社会の延長線上でやっていくしかないんだ、戦後西ヨーロッパ的な世界を少しでも拡大していくしかないんだ、という人たちもいれば、そもそもこういう発想自体がテロリズムの連鎖の遠因となる戦後先進国たちの驕りだと批判する人たちもいる。平和学はこうした現状に対して平和を再定義するには至っていないと思うし、そもそもそういう性質のものでもないと思うんですよね。
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