本日のメルマガは、就労支援施設「ムジナの庭」施設長・鞍田愛希子さんと宇野常寛との対談(後編)をお届けします。
前編に引き続きムジナの庭が提供するプログラムを紹介していただきつつ、そこでのセミパブリックな空間づくりを手がかりに、今日の公共空間やコミュニティのあり方にまで議論を広げました。
(構成:石堂実花、初出:2022年5月17日(火)放送「遅いインターネット会議」)
※本対談で登場する「ムジナの庭」へ訪問した詳細なルポルタージュは、『モノノメ#2』に掲載されています。詳細はPLANETS公式オンラインストアにて。
「ムジナの庭」では何が起きているのか(後編)|鞍田愛希子
「場」から「庭」へ
宇野 前編で愛希子さんが言っていた「家から庭へ」は、僕も最近考えていたことです。僕は専門としてメディア論に近いところにいるんですが、いまはインターネット=SNSのプラットフォームのコミュニケーションは、言葉中心のコミュニケーションで、相手が人間しかいない。よく社会は国家と家族の中間と言われますが、日本では東日本大震災の後に、口を揃えて「地域のコミュニティを大事にしよう」と言われ始めた。要するに国家と家族の中心にある、疑似家族的なコミュニティがここでは想定されていたと思うんですよね。もちろん、僕もそういうことは大事だと思ってきましたが、ちょっと限界も感じているんです。日本的な田舎のムラ社会とかただの地獄ですし、世田谷でクリエイティブクラスが金持ち喧嘩せずの心温まる自治ごっこみたいなのってただ経済格差で貧しい人と見たくないものを自分たちの視界から排除しているだけですからね。東京のクリエイティブクラスがセルフブランディングでやっている田舎暮らしと地方の商店街や農家のおじいちゃんおばあちゃんとの触れ合いのパフォーマンスはまあ、問題外として、実際にマクロで見るとSNS上のプラットフォーム上のテーマコミュニティ以外にその担い手は難しい。しかし、そのプラットフォームでは人間は人間同士の承認の交換しかできない。ここが問題だと思います。
僕の場合は「『場』から『庭』へ」という言葉で表現しているんですが、この場合の「場」はプラットフォームです。プラットフォーム上では、人間は人間としか会話しませんよね。誰かに評価されるという相互評価のゲームで動いているから、他の誰かに評価されること以外のことを考えなくなってしまう。そうなると、問題そのものにアプローチせず、「この問題についてどう発言したら評価されるか」しか考えなくなってしまう。これはすごく貧しいことのように思うんです。
対して「庭」は植物や土や昆虫など、人間以外のものごとにも触れられる場ですよね。しかも植物には人間が介在しなくても自生できるような生態系がある。人間が介在しなくても勝手にコミュニケーションしているものに触れることが、すごく大事な気がしています。人間関係や社会の外側にも世界があることを実感させてくれると思うんですよね。
そして庭は、いじれることが大事なんです。しかも、人間が介入できるけれど、完全に支配することはできない。いくら抜いても雑草は生えるわけです。だから常にメンテナンスしなきゃいけないし、いくらメンテナンスしても支配はできない。これが庭を触っているときの充実感だと思うんです。
鞍田 わたしも、庭から人間関係や心の問題を考えるきっかけをもらった気がしています。「ムジナ」でも、ある方がその場からいなくなるとか、誰か新しい方が入ってくる度に全体の雰囲気や関係性が一気に変わるんですが、これは生態系に近いなと思っています。
たとえばうちの場合は「お菓子を作る」「雑貨を作る」「庭の手入れをする」といったように、いろんなシチュエーションが自然に生まれます。そうすると、一方では活躍できなかった人たちが他方では急に尊敬され始めたりと、その人が違う側面を見せられる場所があるんですよね。
「庭」というキーワードで思い出したんですが、コンパニオンプランツという植物の組み合わせ方があります。たとえばアブラムシがすごく好きなお花を野菜の近くに植えて、その花があることで野菜を害虫から守ってもらう、というものなんですが、そういう配置換えやマッチングがしやすくなるよう、選択肢を増やしておくことこそが、わたしたちにできることだろうなと思っています。
就労支援はいつかはなくなるのが理想的です。それがなかなかできないのは、まだ社会に認知が浸透していないからだと思います。たとえばもう少し、マッチングされて、庭のなかで、たとえば植物を植え替えるみたいな感じで変えていったら、急にコンパニオンプランツ的なはたらきをし始める、みたいなこともあるかなと思っています。
宇野 「『いい庭の条件』ってなんだろう」と考えると、まずは第一に生態系が豊かであることですよね。そこにいろんな植物や虫がいて、それぞれ固有のアプローチができるということ。
あとはやはり、人間がそこに関与して、うまくいけば手応えもある。ただし完全に支配することはできないという、このバランスが中距離感で、人間と世界との距離感として、程よい手触りを人々に与えてくれると思っています。僕は自己信頼のベースとは、こういうことなんじゃないかなと思ってるんです。
「ままならない」体験を通して出会うセミパブリックな空間
宇野 愛希子さんのお話を聞いて僕が思うのは、「家庭と病院の間のセミパブリックな空間」が失われているのではないかということです。今の社会は自己責任の範疇で何をしても許されるプライベートな空間と、完全にパブリックで、デオドラントでクリーンな除菌された空間に二分されています。僕はサブカルチャーの人間なので、後者のような空間からサブカル的な猥雑さは出てこないと思うんです。
鞍田 わたしは東京に出てからはじめて福祉の仕事に携わるようになったんですが、一番最初に感動したのが体臭でした。
私が働いていた施設では重度の精神疾患の方が多く、なかなかお風呂に入れない方もいました。そこで「そうか、人間ってこんな匂いをしていたんだな」と思い出したんですよね。「過去にこの匂いを嗅いだのはいつだっただろうか」と考えたときに、しばらく無臭の世界を生きていたということに気づきました。そうした手触りのような感覚は、ふつうに生きているなかで失われていくものです。
ちょうど東日本大震災のあとに「五感を取り戻す」というテーマの感覚的なワークショップをやっていた時期がありました。香りは人間の脳の本能的な領域に関わると言われていて、たとえば香りを嗅いだ瞬間に気分が変わることがあります。東日本大震災で心を痛めた方や精神疾患のある方にアロマを通したケアで関わるなかで、植物の香りや体臭は人間の気分を言葉に依らずに変える力があることを知りました。その香りをもう少し深めていったらできることがあるのかもしれない、と思ったのが、「ムジナ」の原体験としてありました。
宇野 言葉の外側のものを使うことは大事ですよね。僕は職業柄言葉を使う人間だからこそ、言葉の限界もよくわかっているつもりです。でも、どうしてももの書きは、言葉を無邪気に信じすぎていると感じることもあります。僕は言葉よりも、もっと「ままならなさ」みたいなものを基準に考えたほうがいいんじゃないかと思っています。生きる実感は、言葉を自由に操って「○○である」ということよりも、実際に自分が関わって対象が変化していく過程を体験するところにあると思うんです。
鞍田 ムジナの木彫で言うと、節があったり、木目に沿わない彫り方をすると、思うような形にならないことがあります。そうすると、思うような形にするにはどうすればいいかを考え始めたり、もう一個作ったらうまくできるんじゃないかと考えて「次は違うアプローチをしてみよう」と変わっていきます。そういう興味が頭の中をクリアにしていったり、身体のほうの記憶が正しくなったりしますよね。
宇野 たとえば模型は、今だったらデジタルスキャンしてまったく同じものを3Dプリンターで作ることができるんですが、そうやって完成したものって、まったくリアルじゃないんです。
つまり人間は模型の形状そのものではなくて、模型を作る過程でそのものの本質のようなものに触れている。「このオートバイは、この自重を支えるフレームがフォルムを決定しているのだな」とか、「この建築はこの屋根の曲線を見せるためにそれを支える柱や壁が最適化されている」とか、そういうことを直感的に受け取っているわけです。だから優れた模型作家はデフォルメするんです。実はデジタルスキャンで実物を、自動車とか建築物とかをそのまま縮小したモデルをつくっても、人間はあまりそれをリアルに感じない。だからスケールが小さくなっても「それっぽく」見えるためには、その対象の本質をとらえ、特徴を抽出して、そこをアピールしたような形で縮小するんです。そうすると、途端に「それっぽく」見える。だから、作家によってアプローチがぜんぜん違う。そこに個性も宿るわけです。
だから、前編でお話しされたムジナのブローチの話はすごくおもしろかったです。ムジナというものをリアルに置き換えてるのではなく、いったん作家さんがデフォルメしているわけですよね。その後一人ひとりがブローチを作ることで、自分にとっての「ムジナ性」みたいなものを抽出して表現していると思うんです。
鞍田 そうですね。結果的にできあがったものはそれぞれ全然違います。
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