今朝のメルマガは、書評家の三宅香帆さんによる連載「母と娘の物語」をお届けします。小花美穂・槇村さとるの作品から見出せる、少女漫画における「理想」の女性像の変遷とは? ユートピアとしての「家父長制の外部」をキーワードに、1994年に連載開始した『こどものおもちゃ』について分析します。
三宅香帆 母と娘の物語
第八章 小花美穂・槇村さとる──憧れる娘(前編)
1.少女漫画の「自由な母」像が指差すもの
本連載では、これまで伝統的な家庭像のなかで描かれる母娘表象に注目し分析してきた。特に少女漫画の分野では、母に抑圧される娘の物語が繰り返し描かれてきたが、それは家父長制の伝統に則った母親の在り方ゆえのものであった。しかし一方で、少女漫画や女性漫画といったジャンルが、家父長制の要求に対抗するかのように、「自由な母親像」を求め続けてきたのも本当である。
少女漫画でしばしば描かれる、自由奔放な母親像。常識から外れていて、まったく親らしくなくて、時には主人公である娘のほうがハラハラしてしまうような母親像。このような描写について、藤本由香里は「この二作品に共通している「子どもっぽくて常識はずれな親と、しっかりして大人びた子ども」という組み合わせは、八〇年代後半から目立ってきたパターンである。そこでは、家事無能力の母親に代わって、娘がてきぱきとたち働いている。とくに明るい母子家庭にはこの描き方が圧倒的に多い」と説明する[1]。藤本はこの例として、『明るい家庭のつくり方』『新・明るい家庭のつくり方』(くぼた尚子)を挙げ、さらに『ミステリー・ママ』(森本梢子)、『したたかな女達』(秋本尚美)、父はいるが存在感が薄いパターンとして『フルーツ果汁100%』(岡野史佳)、『じゃりン子チエ』(はるき悦巳)を紹介する。またその源流として、一条ゆかりの描く母親像──例として『ママン・レーヌに首ったけ』──を参照する。一条は、少女のような母と15歳の息子の物語を描くことで、母の欲望をポップに描くことに成功した作家であった。
藤本論の注目すべき点は、「自由な母親像を描く舞台は、圧倒的に母子家庭が多い」という点である。シングルマザーであればこそ、家父長制の要求から外れた「自由」な母親を描くことができる。当時の漫画家たちがもしもそこに、従来の少女漫画が描くことのできていなかった「脱・母親」への道筋を見つけていたのだとしたら、それはおそらく母娘の関係を考察するうえでも重要な点になるだろう。
少女漫画が少女あるいは女性を主人公に据えることが多く、彼女たちは「いつか母になるのか・ならないのか」という問いを抱えることになる。もちろんそのような問いを持たずに生きることも可能だが、とくに藤本の著作が世に出た1990年代以前において、その問いから完全に自由であった女性は少ないと言ってもよいのではないだろうか。勿論、今もその状況はあまり変わっていないと筆者は感じる。だとすれば物語に登場する母親像は、自分の実際の母親を重ねる存在であると同時に、自分の未来の姿を重ねる存在でもあり得る。少女漫画で描かれる母娘関係は、母娘問題を映す鏡でありつつ、同時に娘にとって将来の姿を重ねるロールモデルとの葛藤の表象でもあるのだから。
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