今朝のメルマガは、書評家の三宅香帆さんによる連載「母と娘の物語」をお届けします。今回は小説家・角田光代の作品で描かれる母娘関係について考察します。母親から娘へ、または娘から母親へ注がれる同化の視線が交差して描かれる角田光代の小説『銀の夜』。各々の登場人物が持つ嫉妬の感情について考察します。
三宅香帆 母と娘の物語
第六章 角田光代──嫉妬される娘
1.母と娘の嫉妬の関係
前章で母と娘の関係には、同化のまなざしがあることを指摘した。母から娘への独占や同化という欲望は、母息子の関係と比較すると社会的抑圧がない状態でおこなわれることが多い。とくに日本では、母息子となると「マザコン」などの言葉が社会的に広まっていたり、異性であることが壁となっているため、母側に欲望することの規制がかけられていると考えられる(母と息子の関係については次章で詳しく扱う)。そのため母から娘へ独占・同化というまなざしは抑圧の少ない状態で向けられ、娘がそれを「許す」ことによって支配が達成される、という構図になっている。自分と同じ存在であってほしい、あるはずである、という視線が母から娘には向けられる。
前章では、母から娘への同化の視線が、他人の侵入を許さない独占欲(『最愛の子ども』)のような形で発露される様子を見た。
しかし同化の視線は、おそらく独占欲という形のみに出るわけではない。たとえば一章で扱った萩尾望都の『イグアナの娘』においては、自分がイグアナであるというコンプレックスを抑圧した母親が、娘にも同じコンプレックスを見出すことによって「イグアナ」という呪いをかける、という物語を見た。ここにはたしかに同化のまなざしの負の側面が存在する。つまり、母→娘の自分と同じ存在であるはずだというまなざしこそが、自分と同じコンプレックスを持つはずだという思い込みに転換しているのである。
それでは他にどのようなパターンがあるだろうか。角田光代は、『銀の夜』という小説において、母から娘へ向けられる嫉妬というかたちでそれを描く。
母は娘に嫉妬する。父は息子に嫉妬しないのに。
──と言い切ってしまうと、おそらく反論が出てくるのだろうが、親子を描いた小説を読んでいるとその傾向はたしかに存在しているのではないだろうか。そう思えてならない。有名な物語を考えてみても、娘の美しさに嫉妬して鏡を割り、娘を殺そうとした白雪姫の継母の物語を知る人は多いだろう。なぜあのふたりは「母娘」という関係だったのだろうか。単に若さと美しさに女性間で嫉妬する物語というよりも、母娘の関係性の物語として伝承されるのはなぜなのだろうか。もちろんもはや使い古されたテンプレート的構図ではあるのだが、だからこそ、なぜそのようなテンプレートが存在するかは考えてみても良いのかもしれない。
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