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リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。今回は、小菅駅から荒川に向けて歩きます。
水害対策のために荒川放水路と綾瀬川に挟まれた小菅地区。用途を変えながらも長い間地元住民と接してきた川沿いの地形から、下町に暮らす人々の歴史を探ります。

白土晴一 東京そぞろ歩き
第9回 小菅駅から古隅田川緑道、綾瀬川、東京拘置所、荒川河川敷へ

 東京に出て、最初に住んだのは JR金町駅の沿線であった。
 葛飾区金町は東京の東側の端っこで、水元公園を越えれば埼玉県三郷市、江戸川を越えれば千葉県松戸市という場所である。
 今から数十年前なので、当時は田んぼがけっこう残っていて、大都会東京に出てきたというよりも、都市の近郊農村に引っ越してきたような気がした。
 江戸川に近い場所であったため、窓を開ければ延々と伸びている高い堤防が眼に飛び込み、休日には河川敷のグランドで草野球の試合がいくつも行われ、堤防の上の道路を犬の散歩やランニングをしている人などがひっきりなしに通行しているというような土地で、山に囲まれた盆地の地方都市で生まれ育った私には、まったく馴染みのない風景が物珍しかったと記憶している。
 特に驚いたのは、散歩がてらに河川敷を歩いている時に、30cmほどのデカいネズミのような動物が葦の中から飛び出してきたことだろう。東京に来て、そんな得体の知れない動物に遭遇するとは想像もしていなかった。
 のちに、その動物は一部では「マツドドン」となどと呼ばれていて、1940年代に毛皮用に輸入されたものが逃げ出して繁殖したマスクラットという外来生物であることを知るが。
 金町から都心に向かうにしても、常磐線の上り電車に乗って、中川、荒川、隅田川という大きな河川を渡っていかねばならない。
 そのうち、常磐線に乗っていると、「今、三つ目の鉄橋を渡ったから、北千住が近いな」などと、越えた川で場所を把握するようにもなっていった。
 つまり、私が最初に受けた東京の洗礼は、人混みでも、超高層ビルでもなく、関東平野の大きな河川とその周辺の生活環境ということになる。なんとなく意識下に「東京は平らな土地にデカい川が流れている」と刷り込まれてしまったのだ。
 当然こういう風景は東京全体ではなく河川が集中する下町の話なのだが、高い堤防の連なる大きな川を見ると、今でも東京に出てきた頃の10代の自分を思い出す。
 都心の繁華街や高層ビルよりも、都内の大きな河川の河川敷を歩くと、今でも「ああ、東京にいるんだな」と思ってしまう。

 だから、しばしば大きな川沿いの街を歩きたくなる。
 そこで浅草から東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)に乗車し、荒川を越えた小菅駅で降りてみることにする。
 葛飾区小菅は、下町を水害から守るために作られた人工の迂回水路の荒川放水路と、昔の荒川の分流であった綾瀬川に挟まれた三角形の地区である。

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 上は駅前に設置された周辺地域案内の地図を撮影したものだが、これを見れば川に挟まれた土地というのが良くわかると思う。
 現在は東京下町となったこの辺りは、古来から河川が集中しており、江戸時代からいくつもの大規模な工事によって川がまとめられたり、流れが変えられたりしているので、川の来歴を説明するだけで大変な場所。しかし、だからこそ、水害を防ぐため、川沿いで生活するためのインフラ施設や景観が顕著に見てとれる土地と言える。

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 ホームを降りてすぐに目に飛び込むのは、巨大な要塞のような東京拘置所。
 小菅といえば、この東京拘置所抜きでは語れない。下りの東武伊勢崎線やJR常磐線の電車に乗れば、嫌でもこの巨大な施設が眼に飛び込んでくる。

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 ちなみに手前の茶色の団地のような建物は、拘置所職員用の官舎。刑務官は、万が一の事態の際の緊急招集を想定して、拘置所に隣接もしくは施設内に官舎が建設されることが多い。
 ホームから改札に向かうために階段を降りるが、この小菅駅ほど「高架駅とはこういうものである」と感じさせてくれる駅はないだろう。

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 橋脚や梁が丸見えで、剥き出しコンクリートの高架下に、駅に必要最低限な改札と階段、エレベーター、トイレなどが設置されただけと言っていい。しかし、線路下の高架の床板が事実上の天井なので、上の空間がえらくオープンで解放感を生んでいる。仮設の駅という訳ではないが、経済性を追求したが故の奇妙な開放的な雰囲気がある。
 ここ小菅駅は荒川放水路(現在の荒川のこと)の建設にともない、北千住―小菅間に鉄道橋を建設するための路線変更が行われたことで、大正13年(1924年)に建設された駅。この駅自体も河川の影響で生まれた施設と言えるだろう。
 戦後の一時期営業が休止されていたが、昭和25年(1959年)に再び営業が開始された。そういう意味では路線選定の際にあらかじめ計画された重要駅というよりも、何かの都合で慌てて開業した駅という歴史を感じさせる作りだろう。
 ホームに昭和の小菅駅を撮影した写真があったが、これを見ると昔は一つのプラットホームの両端に線路が隣接している現在の「島式ホーム」ではなく、向かい合うようにプラットホームが二つ並んでいる「相対式ホーム」であったらしい。

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 また、現在の橋脚を連ねた高架ではなく、土を台形状に築き、その上に線路やプラットフォームを置く「盛り土方式」の高架駅だったことが分かる。荒川の堤防を越えて鉄橋近くに作られた駅であるので、この高さのプラットフォームになってしまうのだろう。駅舎やプラットホームに向かう階段も、後から無理やり作ったようで、現在の駅と同様に、最低限の駅として成り立てばよいという感じが、個人的には面白く感じてしまう。

 改札を出て駅前に出てみるが、そこは駅前というよりも住宅街の路地という感じで、コインロッカーと自販機が並んでいる程度。駅前というのにはあまりに殺風景である。

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 古い地図で確認すると、そもそも明治の終わり頃は田圃しかないないような場所で、駅が建設された後の昭和前期にちらほら住宅が作られるようになったらしい。
 その駅前の住宅地の中を南に進むと、東京拘置所の官舎が現れる。しかし、その官舎の前には、敵を防ぐ中世城館の堀のような水路がある。

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 東京拘置所の周りだけに収監者の脱走を防ぐために作られた堀ではないか! と思ってしまうが、そんなことはない。
 これは古隅田川と呼ばれる河川。現在の隅田川とは当然違う。
 先ほども書いたが、このあたりは江戸から何度も河川改修や水害対策の工事が行われいる場所で、いくつかの河川がまとめられたり、流れの方向を変えられたりして、かつては川があったが今は違う場所を流れているということが多い。
 しかし、川自体が完全に無くなった訳ではなく、暗渠化されたり、水量がかなり少なくなっているが、わずかに川として残っている所もある。そうした川は、「元○○川」や「古○○川」などと呼ばれることがある。
 この古隅田川も、そうしたかつての大きな流れの痕跡のような川で、武蔵と下総の国境となっているほどの大河だったが、中川の灌漑工事などで工事によって水量が徐々に失われた結果、一時期は雑排水路(ドブ川)となるが、下水道整備でその役割もなくなり、現在はこのような姿で親水公園や親水遊歩道などが併設されている。
 ただ、安政の大地震(1850年代に連続して発生した大地震)では、この古隅田川沿岸で液状化現象が大きな被害が出たという記録が残っている。今は小さくなっていても、川というのは何がしかの影響を土地に残しているので侮れない。
 ちなみに現在の隅田川はかつては旧入間川の下流部分で、江戸時代の瀬替などの河川改修工事を経て大川と呼ばれたが、昭和に入って荒川の分流として隅田川と名付けられた河川。
 このように江戸東京の河川はひどく入り組んだ歴史を辿っているこの古隅田川沿いを東の綾瀬方面に向かって歩く。

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