メディアアーティスト・工学者である落合陽一さんの新たなコンセプト「マタギドライヴ」をめぐる新著に向けた連載、第5章の公開です。
グローバルな社会環境を構築するプラットフォームの限界費用が限りなくゼロに近づくことで、かえってローカルな風土や文化の特質がデジタル環境に表出する「デジタル発酵」化が進行中の現在。その条件下で出現し始めているバーチャルな「マタギ」としての人々のライフスタイルのあり方と、その社会経済的な基盤に何が求められるのかを考えます。
落合陽一 マタギドライヴ
第5章 現代社会に現れはじめたマタギたち ── デジタル狩猟文明がもたらす経済環境とライフスタイル
デジタル発酵の進展とマタギドライヴの出現
ここまで見てきたように、デジタルネイチャー下では社会環境を構築するハードウェアやソフトウェアの限界費用がゼロに近づき、グローバルなプラットフォームの基底が磐石なものになっていく一方で、その環境を活かしたものづくりが高速化したりコストが逓減したりすることで、次第にインフラやサービスが地域の自然的・文化的風土に即した土着化を起こしていき、まるで世界各地の発酵文化のようにローカリティに根ざした生態圏が繁茂していくという文明史的な変化が、現在の世界では進行しつつあります。
ここからは、そうしたデジタル発酵化にともない、人々のライフスタイルがどのように変わっていくのか、そしてそれを支える経済的・社会的なバックグラウンドに何が求められるのかを考えていきたいと思います。
すでに序章から第1章にかけて大づかみには論じたように、テクノロジー環境の進歩の結果、人々の生き方や人生観が狩猟採集社会のそれに近づきつつあります。そうした性向のことを我々はマタギドライヴと呼んでいるわけですが、それは社会全体として見れば一律で一様な変化というわけではありません。デジタルネイチャーの成立条件としては、もちろん発電所や海底ケーブル、データセンターといった物理的なインフラストラクチャーがあり、さらにその上でグーグルやアップルといった巨大プラットフォーマーたちが巨木のように基幹的なサービスを展開するという昔ながらの工業社会のスタイルが続くことが、もちろん大前提にあるからです。
ただし、それらを敷設すること自体がイノベーショナルだった段階が過ぎて、それらは究極的にはAIが差配する農園の管理のようなものになっていく。そこに従事して定住農耕民型のライフスタイルを担う人々は当面はマジョリティであり続けるとしても、限界費用の低下したインフラの巨木を利用可能になることで、その狭間で小さくプリミティブな試行錯誤が繰り返され、小さなイノベーションをともなう様々なデジタル発酵が連鎖的に起こるようになってくる。その担い手や利用者として、狩った獲物を農耕民と交易をしながら暮らす山岳の狩猟集団マタギのような存在が、定住的なライフスタイルを持つ近代社会の周縁で知らず知らずのうちに増殖していくという描像が、マタギドライヴの具体的な出現プロセスです。
こうした変化は、多かれ少なかれあらゆるジャンルで起きていることですが、わかりやすいのはデジタルネイチャー化の初期の時点から発展してきたゲームソフトの市場でしょうか。当初のビデオゲームは、家電や半導体や娯楽機器の大量生産をともなう工業社会の周縁で、アーケードゲームやコンソール機といった媒体によって産業化を遂げたわけですが、現在では市場規模としてだいぶ下の方に下がっていて、かわりに限界費用の安いゲーム、たとえばスマートフォンやPC上でオンライン参加できるタイプのゲームの割合が非常に高くなってきています。
その上で、さらにeスポーツのように世界中のプレイヤーが順位を競うようなライフスタイルが定着し、それが生業にまでなり始めているという流れは、まさにマタギドライヴ的な動向の典型と言えるでしょう。私自身もオンラインで『マジック:ザ・ギャザリング(MTG)』をよくプレイしますが、狩るものとして何を選ぶかは、ゲームやeスポーツにかぎらず様々にありえます。アイディアや資本がある人ならベンチャーを始めるでも良し、YouTuberになるでも良し、コンテンツを作るも良し。世界全体にコミットしていく立場の人であれば、現在の社会システムが達成できていない問題解決そのものをターゲットに据えたSDGs(持続可能な成長目標)のようなものを自らの人生の挑戦課題にしていくことでしょう。
そういったあらゆる対象を追い求めるためのインフラストラクチャーのコストがかなりの程度民主化された結果、ゴールとなる対象物を見つけては適度なリスクを取りながらそれを攻略するということが繰り返されるようになり、労働と余暇の垣根を越えて人生の意味になるという狩猟採集的なライフスタイルが、社会階層を問わず社会のあらゆる場面に生まれ始めているのです。
マタギドライヴたちが持続的に生きられる環境条件とはなにか
このように現生人類の登場以来、農耕によって人口容量が引き上げられるまでは地球上に500〜1000万人程度しか生存していなかったとされる狩猟採集型のライフスタイルが、いまや数十億人規模で共有されるようになったとき、それを支えるための生態環境上のリソースはいかにして持続可能なものにできるのでしょうか。
おそらくその問題は、もはや物質・エネルギー的な問題というよりも、資源の分配にかかわる社会的なインフラの問題なのでしょう。多くの文明論者などが語るように、産業革命以来のテクノロジーの発展や資本の蓄積を考えれば、いずれ長期的には人口動態的にも定常状態に向かうだろう人類の上半分くらいの境遇にいる人々が働かなくても生きていけるくらいの富は、十分に蓄積されてきている可能性が高い。そこに属する人たちの利便性や発信性は非常に上がっていますし、それを支えるだけの持続可能なエネルギー獲得の目処も立ちつつあります。化石燃料への依存による気候変動リスクは依然として大きな問題としてあり続けていますが、近い将来、再生可能エネルギーの普及を進めるにせよ、安定陸塊に載った地勢の国々では原子力を使い続けるという選択肢を取るにせよ、人類はなんだかんだで環境との平衡点を見つけだしていくのではないかと思います。
その意味では、かつてジョン・メイナード・ケインズが世界恐慌の時代に「孫たちの経済的可能性」というエッセイで論じたような人々から労働から解放される日は、確かに近づいてきているのだとは言えるでしょう。ただし、いわゆるグローバルサウスの状況からも明らかなように、その富の再分配が著しく不十分だということが、21世紀世界の現状です。現状の資本の再投下は、おそらく先進国でのITプラットフォーマーのような投資コストに回っていて、資本上の格差をますます拡大させていく方向へと動機づけられています。この構造こそが、大局的には現代の資本主義文明にとって最大の問題として残っていくことになるでしょう。
それでは、社会全体に自らの狩りの対象を見出していけるだけのリソースが個々人に再分配されていく構造を、どのように築き直していくべきなのでしょうか。
私が出演したある番組で、日本からなぜ映画のクリエイターが出てこないのか、という話になりました。これは番組中にはなかなか結論が出なかったのですが、番組終了後にある大手配給会社の方が、「やはり配給会社の存在がネックなのでしょうね」という本音を吐露されていたのが印象的でした。これは非常に示唆に富んでいます。たとえば東宝は上場企業として非常にスコアがよく、内部留保も多いし利益も上がっている。けれども、そこからクリエイターに還元される構造にはなっていないのだそうです。それはなぜかと言うと、現在の資本主義の枠組みでは利益を優先的に還元しなければならいのは株主であって、クリエイターではないからです。だから、現場としてはクリエイターに有利な契約を結びたくても、トップの決断としては、会社の利益を目減りさせてまでクリエイターに還元することができないのである、と。
こうしたクリエイター搾取の構造は、いま多くのクリエイティブ業界で問題視されているようになっていますが、これは現在の資本主義が、マタギドライヴ的な生き方にとっては必ずしも最適とは言えない問題を本質的に抱えていることを意味します。つまり、巨大化した資本はそのままでは価値をクリエイトする側には分配されず、ある程度の規模になると資本そのものを自己拡大していく方向に向かっていく傾向にあります。たとえばある会社がスタートアップから新たなプラットフォームを立ち上げて成功したとして、順当に第二、第三のアマゾンやアップルになっていけるかと言えばさにあらず、ある段階ですでに覇権を獲得しているプラットフォーマーに買収されて、搾取構造の中に取り込まれていくという可能性の方が高くなっていく。最近の例では、Siriを作ったニュアンス・コミュニケーションズをマイクロソフトが相当大きな金額で買収したりしています。
そういう環境が厳然とある中で、マタギドライヴ的な生き方──つまり個人事業者規模のクリエイターやYouTuber、あるいはもう少し規模の大きなベンチャーの経営に携わっているような人々が今よりも持続可能に生きていけるようになるためには、資本主義のヒエラルキーからどのようにして離脱するか、もしくは資本主義のヒエラルキーをどう逆手にとって利用していくかの手立てが、必要になっていくことでしょう。
r>gの世界に現代マタギはいかに介入するか
大局的には、現状の資本主義環境では、クリエイターが創り出したもので株主を納得させることは至難の業です。というのは、経済学者のトマ・ピケティが『21世紀の資本』で述べたように、利子や配当など資本が自己増殖的に利益を生み出していくときの資本収益率rは、労働やイノベーションによって経済全体が発展していくときの経済成長率gよりも、長期的に見れば必ず大きくなっているからです。つまり、2度の世界大戦によって富裕層の資産がシャッフルされたり、未曾有の人口拡大ボーナスが起きたりと、特殊な条件が重なったことで戦後に高度経済成長が起き、驚異的にgが伸びて庶民が豊かになり分厚い中産階級が形成された20世紀の先進諸国の経済環境は、実は資本主義の歴史全体の中では、きわめて例外的な期間にすぎなかったというのが、ピケティの見解です。
そして、世界大戦後の成長ボーナスが行き着くところまで行き着き、IT革命を経て限界費用が0に近づきつつある21世紀現在では、再びr>gの条件が戻ってきている。つまり、富める者はますます富を拡大していくのに対し、貧しい者が成長の恩恵にあずかれるチャンスは放っておけばどんどん目減りして、格差を拡大する方向に向かっていく。
そしてクリエイターが労働を通じて作り続ける価値というのは、基本的にはgの側の原動力となるものです。しかし現時点では、それはよほどのことがないかぎり、資本家が蓄積した資本によるrを超えることはありません。
したがって資本主義システムを前提にクリエイターが状況を改善するには、クリエイトされていく価値をうまくrに変換していく仕組みを作る必要があるわけです。となると、おそらくクリエイター自身がある種の株式会社を作り、その会社への出資を募るなどしてクリエーションそのものへの支援を集めるといった方式でしか、株式市場に立脚した金融資本主義の環境では成長が見込めません。私自身も一クリエイターとして、こうしたハッキングの手段を真剣に考えざるをえないと思っています。
そういう仕組みが機能しないのは、予測の立てやすい地価の変動や農産物の収穫や企業の業績とは異なり、クリエイターへの投資価値が現在価値だけでしか判定されていないためです。たとえばベンチャーキャピタルは、10社に投資したうち9社が失敗しても、1社から得られるキャピタルゲインで全体的には高い投資対効果が得られる前提で投資活動を行っています。しかし、株式売買においては一般的なそうした投資行動が、クリエイターへの投資においては見られない。現在価値だけで判断すると、株主に大きな利益をもたらす投資対象は限られるからです。起業家は未来価値で判断されるので、何者でもない人であっても金が集められる。その結果、10回に1回はイノベーションが生まれるわけです。他方、クリエイターへの投資に際しては未来価値ではなく現在価値で判断されるので、比喩的に言えば、東宝がいくらお金を持っていても、クリエイターの卵には1円も回らないのです。
だからこそ現在価値に基づかない、クリエーションの未来価値まで含めたうえでの投資活動を、資本主義の文脈で行っていく必要があります。言わば、人の未来投資価値を買う権利を、多くの投資家に付与していかねばならない。資本がマタギを壊さないようにするためには、原理的には個人レベルでのrの未来価値を投資家たちに可視化し、その投資回収効率を上げるような試みをしていくという介入をしていくことが重要になるでしょう。
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